Alfred Gell『Art and Agecy』読解6


Chap7 The Distributed Person


*発表の出来はよくなかった。特に後半部は全体を把握仕切れておらず、議論の土台を作れなかった。反省。やはり完徹空けに3時間喋り続けるのは無理があったようだ。とはいえ、本書終盤の迫力はかなり異様だ。特に以下で要約した7章、後半から次第に筆者の意図が読み取れなくなっている。近いうちに全体を読み返し検討しなおしたい。


[要約]
本章では再び、表象的(representational)なアート、つまりプロトタイプをもったインデックスに関する考察を行う。その基本的な論旨は、肖像やイコンなどの芸術作品は、「人間のようなもの(person-like)」=社会的なエージェンシーの源泉および標的となるもの、として扱われるべきだということである。


偶像(Idol)や肖像(Image)といったアート・オブジェクトは、装飾模様とは異なり、プロトタイプをもつインデックスである。これらは、「人間のようなもの(person-like)」として社会的なエージェンシーの源泉および標的となる。しかし、それはいかにして可能になっているのだろうか。考察の焦点となるのは何らかの像が人間的な人格を持ったものとして扱われる典型的な局面、つまり偶像崇拝である。


偶像崇拝(idolatry)
伝統的な見解では偶像(idol)には二種類ある。


(1)イコニックな偶像:それが表象するものと類似した形状を持つ(主に人間型)
(2)アンイコニックな偶像:(石など)


しかし、この区別は妥当なものではない。偶像は神を表象するものであるが、生きたモデルのいる人物画とは違ってそれが表象するものをリアルに写し取っているかは問題にならない。石も白髪の老人も同じくらいリアルに神を表象(represent)することができる。偶像は神を写実的に描写したものではなく、人工的に作られた神の「身体」なのである。こうした偶像の有様は、「volt sorcery」の有様と連続性を持っている。


◎volt sorcery
 フレーザーの誤りは、――呪術を象徴的な表現行為とみなす論者が批判するように――なんらかの結果を引き起こすことを意図した行為として呪術を捉えたことにあるのではなく、呪術的実践を科学(物理)的な原因-結果の図式によって説明したことにある。呪術が可能になるのは、エージェントの近辺で生じる出来事は何らかの意図によって引き起こされたものとみなされるからである。[p101]


「volt sorcery」(=他者の像を介して彼/彼女を傷つけること)が可能なのも、それが意図を含んだ社会的な行為の連なりの作用であるからに他ならない。自らの表象(肖像画、彫像、写真など)を傷つけられことでその当人が被害を受けるのは、超自然的な魔術によってではない。どんな人間も自らの表象をある程度は管理しようとする。表象の拡散に関して責任があるのは彼を傷つけようとしている者ではなく、彼自身である。したがって、もし悪意ある表象が流れ出したら、その原因を引き起こしているのは犠牲者である彼自身である。
この時生じているのは、最終のペーシェントが同時に初発のエージェントでもあるような諸関係の構造であり、彼は最終的には自らのエージェンシーの犠牲者なのである。


[[プロトタイプ(A)→アーティスト(A)]→インデックスA] ――→レシピアント(P)
  ↑ 【appears to】↑ 【makes/injure】↑【cause harm to】 ↑
犠牲者X     妖術師     歪められた表象    犠牲者X
(=図7.3/1:p103)


◎浮遊するシミラークラ
 妖術(Sorcery)はしばしば犠牲者の身体からでた髪などのいわば「抜け殻」(離脱物:exuviae)を使用することでより効果的なものになる。エピクロス主義者が唱えたように、抜け殻はプロトタイプを表象するインデックス(「シミラークラ」)でありながらプロトタイプの一部でもある。記号がその対象の一部でもあるという、言語中心主義的な記号論者には想定もできない事態が生じている。しかし、これはインデックスにおいては異例ではない。インデックスが喚起するアブダクションは、実質的な部分―全体関係を設定するものだからだ(煙は火の一部であり、笑顔は親しげな人物の一部である)。[p104]
 インデックスが表象するもの(=プロトタイプ)をインデックスと結び(縛り)つけることで、インデックスを通じてプロトタイプを制御することが可能になる。(ex Tahitian To’o)。volt sorceryはインデックスを悪い方向に歪めるもので、偶像崇拝(あるいはMaoriの森のハウへの働きかけ)が良い方向に描き出すものという違いはあるが、基本的な仕組みは同じである。人間が、神のために建ててきた巨大なモニュメントは、神がこの世界に向けて発揮するエージェンシーをそこからアブダクトするためのインデックスなのである。神のシミラークラを作る/となる能力によって、我々は神(のエージェンシー)を罠にかける。[p114]       


フラクタルな人格
偶像はいかにして「社会的な他者」となるのかを考えるためには、いかにして我々は他の人間や車や石像に心(mind)や意識や意図つまりエージェンシーを付与するのかを検討することが有益である。その方法は主に次の二つに分けられる。


(1)外在主義:(ウィトゲンシュタインetc)
「心」とは内面的で個人的に経験されるものではなく、言語や実践や「生活の形式」といった公的な領域である。


(2)内在主義:(認知心理学における「心の理論」)
 我々は生物と非生物を区別するような他者の心に関するある種の理論=モジュールを生得的に持っている。


偶像崇拝の説明に前者を適用すれば、偶像はルールや慣習を人々と共有するように扱われることで社会的他者となるということになる。例えば偶像を客として迎えもてなすということがなされる[P128]。一方、後者を適用すれば我々が自らの心を把握する仕方に当てはまるように偶像を構成できれば、それは他者となるということになる。例えば、心/身という対比をあてはめて中身を空洞にし外側を囲むことがなされる。[p132]しかし、より効果的なのは二つのアプローチを同時に採用することである。ポリネシアのRurutanの彫刻「A’a」(p138左)は、一体の神の内部と表面に無数の小さな神(Rurutan社会のクラン数と一致)が含まれる自己相似形=フラクタルをなす。この彫像は、外的な関係を統合するものであり、同時に多層的な内面をもつものとしての人格を持っているのである。

Alfred Gell『Art and Agecy』読解5


Chap6 The Critique of the Index


*金曜日までに全章をアップするつもりでしたが、残念ながらこれで最後になりそうです。来週あたまにでも残りをアップします。個人的には今までで一番面白い章でした。おそらくゼミ発表時には大幅に削ることにはなると思います。ただ、模様の反復によってモノがアニメートされていくという本章で描かれるビジョンは、マテリアルな世界が形式的に配置されることによってアブダクションが喚起され人間・行為・社会が生まれていくという仕方で本書全体の議論を読む可能性を示しているようにも思えます。つい面白がってイラレをいじって図6.5/1を一から作ってしまいました。こんなことをしている場合ではない。



(本書は4章までに分析のための基本的な概念と道具を整理したあと、5〜6章で、アートがいかにして人々を魅了するのかについて美学的なアプローチを退けつつ考察がなされる。5章では、インデックス=アート・オブジェクトが喚起するアーティストのエージェンシーがレシピアントを魅了する仕組みを考察された。これに対して6章では、インデックス自体がレシピアントを魅了する仕組みについて考察が進められていく)


[要約]
本章では幾何学的な装飾模様について分析する。西洋の芸術理論のほとんどは表象芸術(Representational Art)に関するものである。しかし、人類学(民族学)の芸術研究で伝統的なテーマとされてきたのは、何かを表象するようなものではない装飾芸術(Decorative Art)である。高度に儀礼的なアートにつきもののイデオロギーないし制度上の論争をさけ、中立的な領域から考察を進めていくために、装飾芸術は格好のスタートポイントとなる。

人工物に付与された装飾的なパターンは、人々を心理的にモノへと結びつけ、社会的に必要とされる行為へと人々を動機づける。
Ex:ディズニー柄満載のベッドは、むずがる子供を寝室に誘う。


装飾は人工物がもつ心理学的な機能において本質的なものである。その機能は、他の実用的ないし社会的な機能と切り離すことはできない。装飾はそもそも機能的なものであり、装飾と機能という二分法は妥当ではない。例えば Iatmulの人々にとってLime-container(P75写真)は、その所有者の人格を表すもっとも重要なインデックスであり、装飾なしのそれは何の機能も果たしえない。


多くの人類学者が、人工物あるいは交換財のうちに「人格」(personhood)が、客体化(objectification)されることに注目してきた。しかし、表面的な装飾を媒介にして人間と事物が結び付けられる仕組みを解明することは未だ残る課題である。ジェルは、審美的な観点から装飾芸術を捉えるのではなく、装飾が引き起こす認知的な操作と社会的な効果との結びつきに注目して考察を進める。


(1)装飾的パターン=<インデックス(A)→インデックス(P)>

装飾的パターンの例(図6.5/1)↓


装飾芸術においては、現実に存在する事物とは類似しない幾つかのモティーフ(装飾柄の中心となる図形)が連なってパターンをなす。我々はしばしば装飾模様を「生きているかのような(animated)」と表現する。それは、装飾模様が現実の生き物の姿を模倣しているからではなく、モチィーフの各部が相互に因果的に連関することで全体としてエージェンシーを発揮しているからである。こうした装飾模様の組成は次の関係式によって表される。


[[[インデックス(A):part]→インデックス(A):part/whole]→インデックス(A):whole]
→レシピアント(P)


あるいは以下の階層的関係式によって表される(図6.3/?)。


            Index――――――――→Resipient
              ↑
     (index)Motif―→Motif
           ・
           ・(Many steps)
           ↑
   (index)Motif―→Motif
         ↑
(index)Motif―→Motif


各モチィーフは反復と対称性を通じて増殖しパターンをなす。レシピアントにとって、これらのパターンを見ることは、モチィーフAをB、C、D、・・・と順に同一視していくという一つの認知的な運動をなすことに他ならない(p78図6.4/2参照)。


装飾模様が「生きているかのように(=animated)」見えるのは、それを認識する側の認知的な運動が、認識される側(=装飾模様)に投射されるからである。太陽が「動いている」と表現することは――実際に動いているのは観察者であっても――なんの間違いもない。「動いている太陽」も「動く模様(=animation)」も、観察という行為の作用(エフェクト)が対象の属性に置き換えられることで生み出されるものであって、空想の産物ではない。


とはいえ、何故われわれの身の回りにある多くの人工物に幾何学的な装飾が施されるのかは、まだ説明できていない。それを理解するためには、複雑な装飾模様を考察していく必要がある。というのも、装飾芸術のテロス(=目指す先)は、より複雑でより把握しにくいパターンの実現にあるからだ。


(2)「終わりのない仕事」としての複雑なパターン


精緻に作られた複雑な幾何学模様(p80図6.5/2参照)を観察するとき、我々は模様の各部が織り成す関係性を一つ二つと発見していくが、その全体を完全に理解することはできないと感じる。装飾的パターンは、その全体を認知しきるという「終わりのない仕事unifinished business」を我々に課すことによって、人々と事物のあいだの関係を繰り返し生み出す。社会的な諸力をつなぎとめる交換というシステムの本質が、双方の利害の完全な一致の実現をつねに「遅らせる」ことにあるように、人工物に施された装飾によって人間はそれを所有するという(認知的に)終わりのないプロセスの中に留まり続ける。いわば「終わりのない交換」として、装飾されたインデックスとレシピアントの生涯にわたる関係が築かれる。装飾がもつ認知的な「粘っこさ(tackiness)」によって、ヒトとモノは接着されるのである。


装飾が施されるのは、美しいパターンが人々に好まれるからではない。美学的な芸術論では、複数の人間は――もし彼らが同じ美的感覚を持っていれば――どのアート・オブジェクトに対しても同じ反応を返すと考えられている。しかし、実際にはそんなことはありえない。Lime-containerが美的な価値をもつのは、それが社会的エージェンシーを媒介する限りである。所有者の立場や地位が変化すれば、物理的には同じcontainerであっても異なる質のものへと変化してしまう。アート・オブジェクトへの美的な反応は、インデックスが媒介する所有者の社会的な地位への反応に比べれば副次的なものにすぎないのである。


(3)厄除け、迷路、死後の世界

以上では、無数のモチーフから構成される装飾模様(=インヴォルーションからなるインデックス)が、エージェシーを発揮するという例を考察してきた。しかし、装飾芸術に関しては異なるエージェンシーの形態がある。それは以下のような場合である。


[[[アーティスト(A)]→インデックス(A):part]→インデックス(A):part/whole]→インデックス(A):whole]―→レシピアント(P)


この関係式に対応する典型的な例は装飾模様による「厄除け」である。アーティストは、装飾模様を作ることで、敵であるレシピアント(通常は悪魔等であり人間ではない)に働きかける。複雑な装飾模様は、悪魔を魅了し、罠にかけ、無力化する。


果てしなく続く無数のパターンが織り成す装飾模様は他にも様々なエージェンシーを媒介する。例えば、南インドでみられる「Kolam」(米粉で描かれる砂絵)やタトゥー、あるいは「クレタの迷路」に見られる迷路状の複雑なパターンは、認知上の「障害」を生み出す。それを観察するものは、迷路をクリアする道筋があることを知っているにもかかわらず、曲がりくねった道筋を苦心して目で追うことなしにそれに到達することはできない。このため迷路はしばしば、生者の住む世界と死者の住まう世界を行き来するための、とりわけ狭い通路とみなされる。インドでは、迷路状の刺青を彫ることで死神から身を守ることができるとされる。死神はその「パズル」を解けないために、刺青を持った人物に害をなすことができないのである。Malakulaの砂絵は逆に、死後の世界へと向かう幽霊の旅路の邪魔をすると言われている。守護霊が差し出す砂絵の幾何学模様に幻惑された幽霊は永遠に死後の住処へとたどりつけず、ただ幾何学的なパターンを認知しきったもの(=迷路を解いたもの)だけが安住の地へと辿り着く。


このように、複雑な幾何学的パターンは、前に進むために乗り越えなければならない(認知的かつ社会的な)障害として現れる。それらは、美的な楽しみをもたらすものなどではなく、なんらかの課題を達成する能力に関わる認知的な仕掛けなのである。


[参考]

Kolam
クレタの迷路

Gell『Art and Agency』読解4


4章 The Involution of the Index in the Art Nexus


(1)エージェント/ペーシェント関係の階層的埋込み
ここまでアート・オブジェクトをめぐる基本的な諸関係を検討してきたが、本章では二つ以上の項をふくむより複雑な関係式を考察する。その基本となるのは以下の式である。


[[[プロトタイプ(A)]→アーティスト(A)]→インデックス(A)]―→レシピアント(P)―α


この表現は第一に、インデックスがレシピアントに対してエージェンシーを発揮することを表している。次に、レシピアントがインデックスにアーティストのエージェンシーを(アブダクティブな推論を通じて)見出すとき、関係式[[アーティスト(A)]→インデックス(A)]―→レシピアント(P)が得られる。さらに、インデックスが表象するもの(=プロトタイプ)にアーティストの活動が従属していると(アブダクティブな推論を通じて)見なされるとき上記の式全体が得られる。


階層的な関係式を導入することの利点は、式の一部を変更することによって、アートをめぐる諸関係相互の相違を表現できることにある。例えば、上記の式αの前半部を変えると次のような関係式が得られる。


[[[アーティスト(A)]→プロトタイプ(A)]→インデックス(A)]―→レシピアント(P)―β


二つの式に対応するのは例えば以下のような例である。
α:Reynolds作「Samuel Johnson」(肖像画)。
この絵を鑑賞するものは、まず英国の文化的英雄であるJohnsonへの畏怖の念を抱く。そして、作者Reynoldsもまた同様の畏怖の念に方向づけられながら絵画を制作したと考える。
[[[Johnson (A)] Reynolds→(A)]→絵「Samuel Johnson」(A)]―→鑑賞者(P)


β:ダ・ヴィンチ作「モナ・リザ」。
この絵を鑑賞するものは、描かれたモナ・リザの姿形に、モデルとなった女性の存在ではなく絵描きとしてのダ・ヴィンチの活動を見出す。
[[[ダ・ヴィンチ(A)]→モデルの女性(A)]→絵「モナ・リザ」(A)]―→鑑賞者(P)


(2)ツリー構造


以上でみてきた関係式の基層になるのは、ツリー(樹木状の)構造である。ツリー状の表記法は、上記の括弧による表記と比べると効率的ではないが、論点を明確に表すことができる。ツリー構造による表記には主に次の二つのタイプがある。


(A)二次的エージェント(=インデックス)のエージェンシーを支える内旋構造


エージェントとしてのインデックスは、それ自身に階層的に従属するペーシェントの関係性を内包することがある。また、ペーシェントとしてのインデックスが階層的に従属するエージェントの関係性を内包するということもある。換言すれば、複数の次元で同時にエージェンシーのアブダクションを可能にすることによって、インデックスはその内部に階層構造を包含(involute)するのである。たとえば肖像画「Samuel Johnson」および「モナ・リザ」をめぐる関係の構造を、ツリー構造で表すと下の二つの図のようになる。


P54 図4.3Ⅰインデックス内部のエージェンシーにおける複数の次元

α「Samuel Johnson」       
         エージェント(インデックス)―――――→ペーシェント
            ↑    
     エージェント―――→ペーシェント
       ↑
エージェント――→ペーシェント


β「モナ・リザ

      エージェント―――――→ペーシェント
        ↑
エージェント――→ペーシェント
            ↑
          エージェント――→ペーシェント



(B)一次的エージェントのエージェンシーを支える内旋構造


エージェントおよびペーシェントがどちらの側でも一次的エージェント(ペーシェント)であり、その内部に階層構造が見られる場合がある。例えば学校で教師(レシピエント=パトロン)が生徒に「はい、今日の授業では各自の想像したものを描いてみましょう」と呼びかける。生徒たち(アーティスト)は指示をうけて自らのインデックスを作り出す。結果生まれたアート・オブジェクトは教師のエージェンシーを示すインデックスとなる。クラスに課題を与えた教師なしには、これらの実践は存在しない。このとき、レシピアント=パトロンとしての教師は、インデックス(絵)を媒介にしてアーティストたる生徒たちに働きかけるエージェントである。一方、ペーシェントとしての生徒たちも自らが絵によって表象するもの=プロトタイプに対してはエージェントとして振舞う。したがって、両者の関係は以下の階層的関係式ないし樹構造によって表される。


[[レシピエント(A)]→インデックス(A)]―→[アーティスト(P)→プロトタイプ(P)]

↓あるいは↓
     レシピエント――――――――→アーティスト(P)

       ↑              ↑
レシピエント―→インデックス  アーティスト―→プロトタイプ


このような式においてレシピエントはパトロンないし第一原動力(prime mover)として現れる。「アーティスト(p)」という表記が意味しているのは、パトロンの要求をアーティストが受動的に受け入れているということを我々はインデックスからアブダクトするということである。


以下工事中・・・・

Alfred Gell『Art and Agecy』読解3


3章 アート・ネクサスとインデックス


[要約]


アート・オブジェクトをめぐる四つの項<インデックス、アーティスト、レシピアント、プロトタイプ>は、エージェントおよびペーシェントとして他の項あるいは自らと関係する。4項のいずれかが能動的な行為者(エージェント)となり、いずれかが受動的な被行為者(ペーシェント)となる状況を本書では以下のように表記する。


X(A)→Y(P) 
= X(エージェント)はY(ペーシェント)との関係においてエージェンシーを発揮する。
(Ex アーティスト(A)→レシピアント(P)
= アーティストが、レシピアントとの関係においてエージェンシーを発揮する。)


XとYには4項のどれを代入してもかまわない。したがって、アート・オブジェクトをめぐる社会的な関係の場(=「アート・ネクサス」)は、全部で16個の式からなる図表(P29)によって表される。なかでも、インデックスがAないしPの位置にくる式を中心的に検討する必要がある。というのも、インデックスがなければいかなるエージェントのアブダクションも起こりえないからだ。本章では、インデックスがエージェントとなる場合とペーシェントとなる場合が順に検討された後、一次的/二次的エージェント概念の精緻化が試みられ、最後にアート・ネクサス中の残りの関係式が検討される。


(1)インデックスがエージェントとなる場合
次の3つの式に対応する


インデックス(A)→アーティスト(P)
:彫刻が、素材(石や木)の内部にある何らかの姿形を「開放」する行為とされるように、多くの場合アーティストの役割はインデックスを作ることでなく単にその存在を「認める」ことにある。こうした両者の関係は、しばしば、インデックスがあるべき自らの姿をアーティストに命じて製作/書き写させているという形で把握される。
Ex.アンティル諸島では、ある種の樹木は自らを特定の像の形にするよう妖術師に指図すると信じられている(Tylor 1875『Primitive Culture』より)。
Ex.西洋美術における「素材に忠実であれ‘truth to materials’」という教えによれば、アーティストは、自らが望むものではなく素材が望むものを作らなければならない。


インデックス(A)→レシピアント(P)
:受動的な観客(鑑賞者)のあり方に対応する式。例えば、Asmatの盾(P1左)を装備した兵士と相対する敵兵は、その盾のデザインに刻印された恐怖の感覚を内面化することによって自らが恐怖を抱いていると感じるようになる。ベンヤミンが論じたように、知覚することは模倣(内面化)することであり、我々は自らが知覚したものに「なる」のである。このように、インデックスは何らかの形でレシピアントの冷静な自意識(sence of self-possesion)を覆すことによって彼らに影響を与える。


インデックス(A)→プロトタイプ(P)
:インデックスが、自らが表象するもの(=プロトタイプ)に対してエージェントとして振舞う場合。本書でジェルはこの関係を“Volt Sorcery”と呼ぶ。それはインデックスを傷つけることによってプロトタイプに害をなそうとする行い一般を指す。典型的な例は、ある人物の肖像に傷をつけるとその人が傷を負うというタイプの妖術(Sorcery)。ただし、必ずしも神秘的な所業である必要はない。
Exサッチャーのポスター写真にイタズラ描き。
→反サッチャーの機運を高め、彼女(の名声や支持基盤)に害をなすことができる。
Ex 日の丸を燃やす
反日感情を高め、実際に政治的および外交的な効果が生じる。


(2)インデックスがペーシェントとなる場合
次の3つの式に対応する


アーティスト(A)→インデックス(P)
:作家の意思や行為が純粋に作品に刻印されているとみなされる場合。ルネッサンス以降の西洋美術観の根幹をなす図式(Ex.ジャクソン・ポラックのドリップ・ペインティング)。


レシピエント(A)→インデックス(P)
:アーティストを金銭的に支援する「パトロン」や、ギャラリーに足を運ぶことによってアート・シーンを支える「能動的参与者としての観客」の有様に対応する式。インデックスから彼らのエージェンシーがアブダクティブに導出される限りこの式が成立する。


プロトタイプ(A)→インデックス(P)
:インデックスが、アブダクティブな推論を通じてプロトタイプのエージェンシーを導出する場合。「写実的な表現(realistic representation)」という考えの根幹をなす図式。
Exゴヤ肖像画ウェリントン公爵」の見た目を第一に規定しているのは、この絵のプロトタイプであるウェリントン公爵である。


(3)一次的/二次的エージェント(ペーシェント)の論理
総じてアーティストとレシピアントは一次的エージェント(ペーシェント)であり、インデックスは二次的エージェント(ペーシェント)である。プロトタイプは通常一次的なエージェントではない(ex、静物画に描かれたりんごは自らの意思で描かれ方を規定しはしない)。ただし、プロトタイプが自らの現われ方を意図する力をもっている場合(王や魔術師や聖なる存在など)、それらは一次的エージェントとなりうる。


アート・ネクサスの中心は常にインデックスであるが、それは決して一次的エージェント(ペーシェント)にはならない。意図をもった存在としての一次的エージェント(ペーシェント)が物理的な因果連鎖の場の外にあるのに対して、インデックスは因果連鎖の場のなかで組織化される。それは事物が因果的に連関する場を撹乱するものであり、一次的なエージェンシー(ないしペーシェント性)を可視化し増幅するものである。逆に言えば、一次的なエージェトとペーシェントは、因果連鎖の場に客体化(objectify)された二次的なエージェンシーつまりインデックスを介してのみ、互いに関係することができるのである。


(4)その他の関係式
前述したようにアート・ネクサスの中心はインデックスが含まれる式(①〜⑦)である。その他の式は、表面的には一次的エージェントと一次的ペーシェントの関係を表すが、実際には間に二次的エージェント(ペーシェント)としてのインデックスが介在して以下のような関係式になっている。


一次的エージェント→(二次的ペーシェント→二次的エージェント)→一次的ペーシェント


したがって、例えば式アーティスト(A)→レシピアント(P)は、アーティスト(A)→インデックス(P)と、インデックス(A)→レシピアント(P)の合成(式④+②)によって生まれる。


ここでインデックスを除く3項のうちの二項が構成する式を全て挙げると


1 アーティスト(A)→プロトタイプ(P)=式④+式②
:アーティストによって想像上のイメージが作られることに対応する式
2プロトタイプ(A)→アーティスト(P)=式⑥+式①
 :「写実主義」的にイメージが作られるときの式
3アーティスト(A)→レシピアント(P)=式④+式②
 :アーティストが作品を通じて観客に様々な感情を喚起せしめることに対応する式
4レシピアント(A)→アーティスト(A)=式⑤+式①
 :レシピアントがパトロンとなり、職人としてのアーティストに製作を命じるときの式。
5プロトタイプ(A)→レシピアント(P)=式⑥+式②
 :「偶像崇拝」に対応する式
6レシピアント(A)→プロトタイプ(P)==式⑤+式③
 :「volt sorcery」に対応する式 
=インデックスを傷つけることによってプロトタイプに害をなそうとすること。


このうち例えば、5プロトタイプ(A)→レシピアント(P)は以下のように書き換えられる。


プロトタイプ(A)→インデックス(P)    =式⑥
インデックス(A)→レシピアント(P) =式②


上記の式は、式⑥と式②を合成することで「偶像崇拝」に対応する式が生まれることを示している。つまり、「偶像崇拝」とは、インデックスが表象するもの(プロトタイプ)がインデックスの物理的な有様を規定する(式⑥)と同時に、そうして作られたインデックスがレシピアントの冷静な自意識を覆す(式②)ような状況なのである。


最後に、4つの項がそれぞれに対して再帰的に関係する場合に対応する4つの式が検討される。


インデックス(A)→インデックス(P)

例えばニューギニアのAbelamの祭礼で展示される大きく育ったヤムイモは、崇拝の対象であると同時にアート・オブジェトでもあるが、そこで際立たされるのは自ら成長するヤムイモの力である。ヤムイモは自らに対してエージェントとして振舞う。ここには特に不明瞭なことはない。全ての生物は、自らを育て形成するものであり、自分自身に対してエージェンシーを発揮するものであるからだ。我々の直観に反するのは、ヤムイモが人間のようなエージェントであると同時に「芸術作品」でもあると考えられている点である。自らによって成長する事物を芸術作品とみなすことが(我々にとって)困難なのは、「アート」という概念の根幹に「アーティスト」の活動性が組み込まれているからである。しかしアートの人類学の見地からすれば、これは相対的な問題にすぎない。あらゆるインデックスは、それを構成する各部分が互いに影響を与えあうという点において、自らに対してエージェンシーを発揮する。
Ex1中国雑技団の人間ピラミッド(p42図3.10/1)
:ピラミッドの各部(各雑技団員)は互いに支え/支えられることで影響を与えあう。
Ex2ゲシュタルト心理学の図(P43図3.10/2)
:四角い枠とその内部に置かれた黒円が影響を与え合って、図に動きや緊張を生み出す。


アーティスト(A)→アーティスト(P)

どんなアーティストも、自らが発揮するエージェンシーに対して受動的な(ペーシェントの)位置を占める。例えば、今まで描いたことのない事物をはじめて描こうとするときのことを考えてみよう。紙の上に現れる線は自分で描いたものであっても、必ずしも最初の意図通りにはならず、そこには常に驚きがある。この時、描き手は常に自らの筆使いがひきおこす作用に対してペーシェントの位置を占める。本職のアーティストもまた、何かを作り上げると同時に出来上がったものを判断するという一連(generate and test)の過程を経て、作品を完成していく。アーティスト自身も自らが作り上げたものに驚き魅了される。自
らの創造物がうまれ出るとき、彼らもまた受動的な観客(spectator)の一人となる。


レシピアント(A)→レシピアント(P)

レシピアントというカテゴリーは、非常に顕著な仕方でエージェントとペーシェントに分かれる。前者はパトロンであり、後者は観客である。しかしながら、パトロンは、インデックスに感銘を受ける(=受動的な観客となる)ことがないかぎり、パトロンとはなりえない。レシピアントがエージェントとして現れるときそこには常にペーシェントとしてのレシピアントの有様が含みこまれているのである。


プロトタイプ(A)→プロトタイプ(P)

インデックスによって表象される人物が、インデックスが表象する自らの姿に対して受動的な立場にたつ場合。
Ex.チャーチルは、Sutherlandの描いた自らの絵を嫌いその流通を防ごうとした。
Ex.水溜りに映る自らの姿に魅了されたナルシスの神話。

Alfred Gell『Art and Agecy』読解2


2章 アート・ネクサスの理論


[要約]


アートの人類学理論において、純粋な「アート・オブジェクト」なるカテゴリーを想定することはできない。人類学的見地からすれば、いかなるものもアート・オブジェクトになりうるからだ。問題は、社会関係を通じてヒトがモノと結び合わされる領域をいかに探求するかである。したがって、最初になされる必要があるのは、アートをそうでないものから区別する基準を探すことではなく、ヒトとモノの関係の仕方が芸術的(art-like)であるような状況をそうではない状況から区別する基準を設定することである。その基準は以下のように定式化され、続いてアートの人類学理論を構成する基本用語が定義される。

「art-like」な状況とは、(1)インデックスが、(3)エージェンシーの(2)アブダクションを可能にするような状況である[P13L20]。


(1)インデックス
パース記号論において、インデックスとは「自然的記号」*1であり、観察者がそこから出来事の原因や他者の意図を推測することができるような可視的で物理的な事物である。
Ex1: 火は煙を生じさせる。だから煙は火のインデックスである(火の存在を指し示す)。
Ex2: 親しげな態度は笑顔を生じさせる。だから笑顔は親しげな態度のインデックスである。
ただし、火のないところにも煙は立つし、笑顔の裏に無関心が潜んでいることもままある。インデックスとそれが表すものの関係は、(演繹や帰納によって明らかにされる)自然の法則によって決定されているわけでもなく、言語とその意味の関係のように人為的な規約によって決定されているわけでもない。両者は、第三の推論の形式=アブダクションによって関係づけられる。


(2)アブダクション
我々がある奇妙な状況に直面したとき、それを一つのケースとして包含するような一般的な法則の存在が仮定され、その仮定が受け入れられることによって状況に対処できるようになる、ということがある。このような推論の形式が演繹や(枚挙的)帰納と区別されてアブダクションと呼ばれる。


演繹
 :AならばB、A、ゆえにB。AならばB、Bでない、ゆえにAでない。
(枚挙的)帰納
 :a1はPである、a2はPである…… →(きっと)すべてのAはPである。
アブダクション
 :Aである、Hと仮定するとなぜAなのかうまく説明できる → きっとHである。
(Ex:「天王星の軌道は、他の惑星の引力を考慮して計算した軌道から微妙にずれている。このずれは、天王星の外側に未知の惑星があって、軌道に影響を与えていると考えると説明がつく。だから、天王星の外型にはもう一つ惑星があるはずだ」)


(3)エージェンシー
意思や意図にもとづいて出来事の因果的な連鎖を引き起こすもの(=エージェント)がもつ特性。肉体的ないし物理的な因果連鎖は、物理法則によって規定される「出来事の連なり」を構成するのに対して、エージェントは自らの意図によって「行為の連なり(actions)」の端緒を開く。心(mind)や意図は社会的な文脈においてのみ認識されるものであり、そのためエージェンシー(エージェント)とは常に社会的なものである。


本書の対象となるインデックスは、社会的エージェンシーのアブダクションを可能にする種類のインデックスである。つまり、エージェンシーが発揮された結果(あるいはエージェンシーを発揮する上で用いられる道具)であるとみられるようなインデックスである。この規定からすると、インデックスとしての煙は、社会的エージェンシーではなく自然の因果連鎖の結果であるから本書の議論の対象とはならない。ただし、煙が誰かが火をつけたことを表す場合、エージェンシーのアブダクションが起こり、煙は人工的なインデックスとなる(Ex「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」新古今集巻七賀歌巻頭/伝仁徳天皇御製。【通釈】高殿に登って国のありさまを見わたすと、民家からは煙がたちのぼっている。民のかまども豊かに栄えているのだなあ)。


(4)一次的/二次的エージェント
本書では人間だけではなく、自動車や彫像などの「モノ」もエージェントと見なされる。人々の社会的な営みにおいて、これらが意図や意識を持つものとして扱われるからである。
アート・オブジェクトは特定の社会的コンテクストにおいてエージェントとして現れる。
例えば、カー・オーナーのほとんどは、自分の車にパーソナリティを見出す。私(Gell)の所有する日本車「Olly」がとつぜん真夜中に故障してしまったら、私はそれを「Olly」による裏切りだと感じ、その責任が整備工や私自身にあるとは思わないだろう。


人工物も社会的エージェントであるとみなすのは、ある種の神秘主義を喧伝するためではない。人工物による客体化(objectification)によって、社会的エージェントは自らを顕在化し現実化するからである。ここで、一次的なエージェント/二次的なエージェントという区別を導入しよう。前者はただのモノとは区別される意図をもった存在者であり、後者はそれを通じて前者のエージェンシーが拡散されるような人工物(車や芸術作品)である。

Exポル・ポト派兵士の設置した地雷
:武器は兵士を社会的エージェントとしての兵士たらしめる不可欠の構成要素である。地雷は兵士とは違って十全な(一次的な)エージェントではないが、兵士のエージェンシーが社会的に拡散していく乗り物であるかぎりにおいて(二次的な)エージェントとなりうる。


(5)エージェント/ペーシェント
エージェントとそうでないものを分類することが文脈に関わらず可能であるとする通常の見解に対し、本書では関係論的で文脈依存的なエージェンシー概念が採用される。つまり、何かがエージェントとなるのは、それが何らかのペーシェント(被行為者、受動者)に対して影響を及ぼす時のみである。例えば、真夜中に突然故障した日本車は、そのために受動的な立場に立たされる運転者(=ペーシェント)にとってのみ、エージェンシーを持つ。


アート・オブジェクトと結びつく社会的エージェンシーは主に「アーティスト」「レシピアント」「プロトタイプ」の3つの形態をとる。三者はいずれも、アブダクションを通じてインデックスと結び付けられ、インデックスに対しエージェントないしペーシェントとして関係する。


(6)アーティスト
アートの人類学が取り扱うインデックスの多くは(全てではないが)人工物である。人工物は、それを製作/創作したエージェントが誰であるかについてのアブダクティブな推論を促す。(煙が火のインデックスであるように)製作された事物は製作者のインデックスなのである。我々の第一の関心がアートの製作にある以上、インデックスの作者とされるものを「アーティスト」と呼ぶことは利に適っている。ただし、人間のアーティストによって作られた事物以外は考察しないというわけではない。何らかのアーティストによって作られたとしても、その起源は別にあると考えられている事物は数多い。それらは聖なる起源を持っていたり、神秘的な方法によって自分で自らを生み出したと考えられている。


(7)レシピアント
アーティストに製作されて始まるアート・オブジェクトの生涯(流通の通時的過程)は長く、それは多くの人々によって受け取られ/受け渡されていく。その結果アート・オブジェクトは、製作者だけでなくこれらのレシピアント(受取人、受容者)を指し示すインデックスともなる。
Ex1.Victoria and Albert Museum収蔵の「ジャハンギール皇帝のカップ」は、ジャハンギール皇帝が作ったものではなく、皇帝はパトロンとして職人に命令したにすぎない。しかし、極めて技巧的で独創的なそのカップに、美術館に訪れた観衆は皇帝の強大な権勢と栄華を見る(=アブダクティブに推論する:Q(カップの精巧さ)である→P(皇帝の強大な権力)ならQ→従ってP)。
Ex2.街中に止められたフェラーリのスポーツ・カーは、(フェラーリ社や職人だけでなく)億万長者のプレイボーイのインデックスとなる。それはまた、これらの豪奢な乗物に溜息を付きつつその所有者を羨む多くの一般人(public)を指し示してもいる)


(8)プロトタイプ
アートについての書物の多くは、それが何らかのものを「表象(Representation;表現)」することに関心を寄せてきた。表象に関する複雑な哲学的論争に深入りするつもりはないが、本書の立場を明確にする必要はある。グッドマン(1976)は、あらゆる図像が(適当な規約が与えられれば)恣意的に選ばれた指示対象を表象しうると主張した。彼の主張と、ソシュール記号学における「恣意性の原理」(Ex:英語において/dog/がイヌを意味するのはそう規約によって決められているだけであって、両者の間に自然のつながりはない)の類似性は明らかだ。しかし、これらの主張は言語的記号論の過剰な一般化でしかない。本書では、図像による表象は、(彫刻や絵画などの)描写するものとそれらによって描写されるもの(モデルとなる人物や風景)との間にある類似性に基づいていると考える。このように視覚的ないし非視覚的にインデックスが表象するものを「プロトタイプ」と呼ぶ。全てのインデックスがプロトタイプを持つわけではないが、それはインデックスとの関係において時にエージェントとなり(例えばインデックスの外観を規定する)、時にペーシェントとなる。


(9)最後に、
以上の基本用語は相互に関係づけられる。アートをめぐる社会的エージェンシーは、次の4つの項が織り成す諸関係によって様々な仕方で配置される。


①Index:
 Material entities which motivate abductive inference, cognitive interpretations, etc;
 アブダクティブな推論や認知的解釈を動機付ける物理的な存在。
②Artist(or other ‘originator’):
 to whom are ascribed, by abduction, causal responsibility for existence and characteristics of the index;
 インデックスが存在することやそれが有する諸特徴の因果的な責任を(アブダクションを通じて)帰せられる者。
③Resipient:
 Those in relation to whom, by abduction, indexs are considered to exert agency, or who exert agency via the index;
 それらとの関係において、インデックスが(アブダクションを通じて)エージェンシーを発揮するとみなされるもの。時にはインデックスを介してエージ ェンシーを発揮する。
④Prototype:
Entities held, by abduction, to be represented in the index, often by virtue of visual resemblance, but not necessarily.
 インデックスにおいて表象されていると(アブダクションを通じて)みなされるもの。しばしば視覚的な類似性に依拠するが、常にそうである必要はない。


[考察]


一章で漠然と示されたアートの人類学理論=<社会的エージェンシーを媒介する事物をめぐる社会関係の理論的研究>が、二章ではやや具体的にイメージしやすくなってくる。とりわけ、以下の記述は鮮やかである。

[P15L7〜]インデックスから生じるアブダクティブな推論として示唆的なのは、笑顔が好意のインデックスとなるという例である。私の理論は、その大半を、我々はアート・オブジェクトがある種の「顔つき」を持つかのように扱うというアイディアに負っている。笑っている人が描かれた絵画をみれば、我々は実際に笑顔の人と出会った時と同じように、写真の中の人物が親しげな態度をもっていると感じる/推論する。こうして我々は――現実の人物であれ絵のなかの人物であれ――「他者の心」にアクセスする。社会的な他者の意図や性質について理解するために我々が用いる手段の多くは、インデックスをもとにしたアブダクティブな推論なのである。このことは、アートの人類学にとって本質的なポイントをなす。

*1:自然的記号(signe natural)と慣習的記号(signe conventional)という二分法は、西洋古代からの伝統的な区分である。例えば、ヒポクラテスの医学文献では、ある疾病の兆候や感情表現としての顔の表情は自然的記号とされる。これらの記号の機能には社会的慣例が介在しないからである[菅野盾樹『恣意性の神話』p10より]。

Alfred Gell『Art and Agecy』読解1


今日から約一週間、米国の人類学者アルフレッド・ジェルの遺作となった本書『アートとエージェンシー』について要約+検討することにしました。大学院ゼミで一冊丸々レジュメをつくらなければならなくなったのが主な動機ですが、レジュメには収まりきらない背景や射程を含めここで考察していこうと思います。


Alfred.Gell 1998 Art and Agecy:an anthropological theory Clarendon Pr.




1章 問題設定:アートの人類学の必要性


[要約]


本書でジェルは、アート(主に絵画や彫刻などの視覚芸術)に関する人類学理論を構築しようと試みる。一章では、彼の目指す「アートの人類学理論」(Anthoropological Theory of Art)とはいかなるものであるか、その輪郭が描かれる。


アートの人類学といえば、旧植民地における芸術作品や、いわゆる「プリミティブ・アート」を扱う理論のことだと一般に考えられている。そこでは、各文化が固有の審美的な体系を持っていることが前提とされ、そうした「土着の美学」の詳細を明らかにすることがアートの人類学の課題とされる。しかし、本書で探求されるのは、こうした「人類学的なアート」を分析することではなく、「人類学的に」アートを分析することである。


ボアズやクローバーの伝統に属する多くの研究者が、人類学の主要な対象は文化であるとみなしてきた。しかしこの定式化には問題がある。文化とは、社会的な相互作用において明示されない限り存在しないものだからだ。ボアズ派の人類学は総じて文化を実体化するものであり、「土着の美学」を解明せんとする企図もまた、「美的な反応」をそれが明示される社会的コンテクストとは切り離して実体化してしまう点に問題がある。


人類学の主な目的は、文化的・象徴的・審美的な体系の解明ではなく、社会関係のコンテクストにおいてなされる行為を理解することだ。したがって、人類学的にアートを分析するということは、アート・オブジェクトの生産および流通が社会的なコンテクストにおいてはたす作用を解明することである。ただし、それは芸術をめぐる社会制度の解明をめざすアート(制度)の社会学とも異なる。非西洋社会でアートの生産と流通のコンテクストを提供するのは、より社会全体に関わる制度(祭儀や交換システムなど)である。したがって美術館や批評家といったアートに限定された制度に考察を限定する社会学的研究は、アートの人類学たりえない。


ここで「アート・オブジェクト」をどう定義するかが問題になる。一般にアート・オブジェクトは(1)審美的な反応を引き起こす人工物、あるいは(2)言語のように何らかの「意味」をコミュニケートするための象徴的記号、として把握される。しかし、どちらも妥当ではない。第一に、アート・オブジェクトをそれとして配置する社会的なプロセスから「美なるもの」のみを抽象化して抜き出すことなどできない。第二に、アートとは世界についての象徴的な命題をコード化する体系ではなく、むしろ世界を変えることを意図した行為のシステムである。


以上の考察を経て、本書ではアート・オブジェクトが「社会的なエージェンシーを媒介する事物」と定義される。さらに、アート・オブジェクトが人間(person)と同じく社会的なエージェンシーを発揮すると見なすことが分析の基礎に据えられる。こうして本書で探求されるアートの人類学理論とは、「社会的エージェンシーを媒介する事物をめぐる社会関係」の理論的研究であることが示される。


[考察]


本章についての考察は、本書全体を検討し終えてないからでないとどうも方向性が定まらないため、いまだ工事中。ただ現時点で思いついてるアイディアだけメモしておく。


・本書は「アートを社会関係として分析した研究」なのか、それとも「社会関係をアートとして分析した研究」なのか。おそらくそのどちらでもあるだろう。ただし、そこで言われているアートなるものが、「アート・のようなもの:art-like」でしかない点が肝となっている。


・ジェルが本書で考察している対象は、主に①西洋的な芸術観では捉えきれないけれども西洋人が自分たちがアートと呼ぶものと似たものと感じてしまう非西洋の人工物やそれをめぐる社会関係と、②西洋のアートの近辺にありながら通常はアートとは無関係なものとして排除されるような実践および関係性、である。そうなると、これらの「アート・のようなもの:art-like」の領域に内在する論理を取り出すことによって、「アート」という概念と「エージェンシー」という概念をともに拡張することが本書の狙いである、と言えるような気もするが・・・


以下工事中…

そろそろ再開+文献紹介


現在ブログ再開計画の思案中ですが、伏線はりも兼ねて若干の書き込み。
以下は今期の院ゼミで読んでいる文献。半期をこのラインナップで進める人類学ゼミって日本で他にあるんだろうか*1


The Gender of the Gift (Studies in Melanesian Anthropology)

The Gender of the Gift (Studies in Melanesian Anthropology)

LATOUR : RESEMBL SOCIAL (Clarendon Lectures in Management Studies)

LATOUR : RESEMBL SOCIAL (Clarendon Lectures in Management Studies)

Art and Agency: An Anthropological Theory

Art and Agency: An Anthropological Theory

An Anthropology of the Subject

An Anthropology of the Subject


上二つを検討し終わって、なんとなく考えたこと↓。


「言説」を分析の中核に据えてきた近年の人文社会科学の方法論の限界が明確に意識されるようになり、「モノ」の働き(actant、artifact、materiality等によって概念化される)が人間とともに現実を構成していることが注目されるようになってきた、ということなのだろうかと。


それは同時に、記号論対象領域が言語からモノへと拡張されてきたということであり、より正確には、あらゆる事象を言語になぞらえて分析する方法論から、言語を中心とする人間性を他の事象(物質、技術、記号、生命)になぞらえて分析する方法論へのシフトチェンジが起こっている、ということなのかなと。まぁ大雑把な印象にすぎませんが。

*1:ちなみに一日で一冊丸々やる。けっこう無茶な話ww。