世界に対して文句があるんなら子供なんて作るな


再び村上春樹。前とは違う側面から若干の考察。


羊をめぐる冒険(上)P253]
(友人と二人で経営していた小さな翻訳会社をやめ、
 冒険を開始しようとする「僕」と、
 彼を会社に留めたいアル中気味の友人との電話での会話)

・・・
「僕は君とは違うんだ」と彼は言った。「君は一人でやっていける。でも俺はそうじゃないんだよ。誰かにぐちを言ったり、相談したりしていないと前に進めないんだ」僕は受話器を押さえてため息をついた。堂々めぐりだ。黒山羊(クロヤギ)が白山羊(シロヤギ)の手紙を食べて、白山羊が黒山羊の手紙を食べて……
「もしもし」と彼は言った。
「聞いてるよ」と僕は言った。
 電話の向こうで二人の子供がテレビのチャンネルをめぐって言い争っている声が聞こえた。
「子供のことを考えろよ」と僕は言ってみた。フェアな展開ではないが、それ以外に手はなかった。「弱音を吐いてなんていられないだろう。君が駄目だと思ったら、それでもうみんなおしまいなんだぜ。世界に対して文句があるんなら子供なんて作るな。きちんと仕事して、酒なんか飲むな」
彼は長いあいだ黙っていた。
・・・


「世界に対して文句があるんなら子供なんて作るな」


村上の初期作全体から見ると、この一言(もちろんそう言う「僕」は「世界に対して文句がある」から「子供なんて」作らない。より正確には、論理的に作れない)の含意は重い。


子供を作るということは、一般に自然な行為とされる。それは生物としての人間にとって自然であるだけでなく、社会的存在としての人間にとっても自然な行為であるとみなされる。


子供として生まれ親に愛されて大人になり、
自ら親となって子供を生み愛し育てる。
それが人間にとって最も自然であり幸福なことである。
この前提が、我々が内面化する物語化された自分、
すなわち「人生」と呼ばれるストーリーの構成方法の多くを規定している。


しかし、「自然」なるものはそのように予定調和なものではない。
子供を生み育てることも確かに生物学的な「自然」の一つの相だが、
時に畸形児が産まれ、時に子供を産めず、時に死産が起こり、時に愛する人とは別の人間の子が産まれてしまうこともまた極めて「自然」な現象だ。


「子供を産み育てることを美化するな」とか
「産めない人のことも考えろ」とか言いたいわけではない。


なによりも、我々が自らの歴史に始点と終点を設定し、
資質と目標を設定し、そのあらゆる経路に意味づけをしたところで、
その全てを無化してしまう「我々は突然なんの意味もなく死ぬ」という
事実こそが最も「自然」なことである。


我々は自らと世界を常に豊満に意味づけながら生きている。
それらの意味は、試行錯誤を繰り返して人間が作り上げてきた技術や経済や社会や政治や文化のシステムの中で可能となり構築されている。


しかし同時に、我々の足元は常に、無意味で無遠慮で無軌道で非人道的で断固として創造的な「自然」なるものに支えられ侵食されている。


二つの事実は決定的に矛盾し続けるが、
それを隠蔽する最も有力な方法の一つが「子供を作る」ことを中心とする
生の連続性の神話である。それは「世界に対して文句を言わない」ために我々が編み出した物語に他ならない(社会が宗教を基盤とする地域や出生率が極めて低かった時代においては事情が異なるが今は省略する)。


*だから、「もし私達が本当はマトリックス(システムの作った仮想現実)の中で夢を見ているだけだとしたらどうする?」などと言うこと(実際に小賢しげに微笑しながらそう話しかけてきた人がいた)は馬鹿げている。常に/すでに私達はマトリックスの夢の中で生きているのだし、そうでなければ生きられないのだから。


「誰だっていつか死ぬ」ということが問題なのではない。
我々が行う多くの意味づけの基底に、
自分(あるいは自分の子供、あるいは人類全体)が生き続けるという
端的に間違った前提が挿入されざるをえないことが問題なのだ。


しかし、「人間」と「自然」のどちらかが本当か
と問うことに意味はない。
両者はどちらも本当で、そしてどこまでも矛盾している*1


我々は完全に矛盾しており、だから完全に救われることなどあり得ない。
このシンプルな事実から出発すること、
このシンプルな事実からしか出発しないこと。
このシンプルな事実から出発して、可能な限り誠実に世界に対して文句を言うこと。
この点において、
村上春樹は徹底して決定的な覚悟をもって書いている。


何でこんなことを書いているかというと、
このシンプルな事実を前提にしてしか考えないということが、
小学生から20代前半までは当たり前だったのに、
最近の自分は結構忘れていることに気づかされたからだ。


文学だろうが学問だろうが、
「可能な限り誠実に世界に対して文句を言う」ために必要なのは、このシンプルで決定的な覚悟だということ。それを忘れちゃだめじゃないか自分、と思ったので(かなり恥ずかしいけれども)忘れる前に書いておくことにしました。


[注]
あ、ちなみに「俺は子供を作る気はない」っていう革命家志願者みたいなことを言ってるわけではないです。それはそれで嘘っぱちだと思うので。また、丁寧に読んでいただければ分かると思いますが、「子供を作ってるようなやつには大した事が言える(できる)わけがない」などと言いたいのでもありません。ここで考えてみた問題は、実際に子供を作るかどうかとは無関係です。

*1:ちなみに、私にとっての「文化」という概念は、いつでも「自然と文化」というレヴィ=ストロース流の二項対立に位置づけられることで意味を持つものであり、特に個人的には、ここで言う人間と自然の完全なる矛盾というテーマの中で把握されうるものでもある。したがって、私が「文化」という概念を使用するときには、「日本文化」や「メラネシア」文化といった個別の(一つの地域=一つの人間集団=一つの世界観的な)文化という設定が妥当かどうかといった近年の人類学における「文化」概念の弱体化に関わる問題には少なくとも直接の関わりはない