Alfred Gell『Art and Agecy』読解2


2章 アート・ネクサスの理論


[要約]


アートの人類学理論において、純粋な「アート・オブジェクト」なるカテゴリーを想定することはできない。人類学的見地からすれば、いかなるものもアート・オブジェクトになりうるからだ。問題は、社会関係を通じてヒトがモノと結び合わされる領域をいかに探求するかである。したがって、最初になされる必要があるのは、アートをそうでないものから区別する基準を探すことではなく、ヒトとモノの関係の仕方が芸術的(art-like)であるような状況をそうではない状況から区別する基準を設定することである。その基準は以下のように定式化され、続いてアートの人類学理論を構成する基本用語が定義される。

「art-like」な状況とは、(1)インデックスが、(3)エージェンシーの(2)アブダクションを可能にするような状況である[P13L20]。


(1)インデックス
パース記号論において、インデックスとは「自然的記号」*1であり、観察者がそこから出来事の原因や他者の意図を推測することができるような可視的で物理的な事物である。
Ex1: 火は煙を生じさせる。だから煙は火のインデックスである(火の存在を指し示す)。
Ex2: 親しげな態度は笑顔を生じさせる。だから笑顔は親しげな態度のインデックスである。
ただし、火のないところにも煙は立つし、笑顔の裏に無関心が潜んでいることもままある。インデックスとそれが表すものの関係は、(演繹や帰納によって明らかにされる)自然の法則によって決定されているわけでもなく、言語とその意味の関係のように人為的な規約によって決定されているわけでもない。両者は、第三の推論の形式=アブダクションによって関係づけられる。


(2)アブダクション
我々がある奇妙な状況に直面したとき、それを一つのケースとして包含するような一般的な法則の存在が仮定され、その仮定が受け入れられることによって状況に対処できるようになる、ということがある。このような推論の形式が演繹や(枚挙的)帰納と区別されてアブダクションと呼ばれる。


演繹
 :AならばB、A、ゆえにB。AならばB、Bでない、ゆえにAでない。
(枚挙的)帰納
 :a1はPである、a2はPである…… →(きっと)すべてのAはPである。
アブダクション
 :Aである、Hと仮定するとなぜAなのかうまく説明できる → きっとHである。
(Ex:「天王星の軌道は、他の惑星の引力を考慮して計算した軌道から微妙にずれている。このずれは、天王星の外側に未知の惑星があって、軌道に影響を与えていると考えると説明がつく。だから、天王星の外型にはもう一つ惑星があるはずだ」)


(3)エージェンシー
意思や意図にもとづいて出来事の因果的な連鎖を引き起こすもの(=エージェント)がもつ特性。肉体的ないし物理的な因果連鎖は、物理法則によって規定される「出来事の連なり」を構成するのに対して、エージェントは自らの意図によって「行為の連なり(actions)」の端緒を開く。心(mind)や意図は社会的な文脈においてのみ認識されるものであり、そのためエージェンシー(エージェント)とは常に社会的なものである。


本書の対象となるインデックスは、社会的エージェンシーのアブダクションを可能にする種類のインデックスである。つまり、エージェンシーが発揮された結果(あるいはエージェンシーを発揮する上で用いられる道具)であるとみられるようなインデックスである。この規定からすると、インデックスとしての煙は、社会的エージェンシーではなく自然の因果連鎖の結果であるから本書の議論の対象とはならない。ただし、煙が誰かが火をつけたことを表す場合、エージェンシーのアブダクションが起こり、煙は人工的なインデックスとなる(Ex「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」新古今集巻七賀歌巻頭/伝仁徳天皇御製。【通釈】高殿に登って国のありさまを見わたすと、民家からは煙がたちのぼっている。民のかまども豊かに栄えているのだなあ)。


(4)一次的/二次的エージェント
本書では人間だけではなく、自動車や彫像などの「モノ」もエージェントと見なされる。人々の社会的な営みにおいて、これらが意図や意識を持つものとして扱われるからである。
アート・オブジェクトは特定の社会的コンテクストにおいてエージェントとして現れる。
例えば、カー・オーナーのほとんどは、自分の車にパーソナリティを見出す。私(Gell)の所有する日本車「Olly」がとつぜん真夜中に故障してしまったら、私はそれを「Olly」による裏切りだと感じ、その責任が整備工や私自身にあるとは思わないだろう。


人工物も社会的エージェントであるとみなすのは、ある種の神秘主義を喧伝するためではない。人工物による客体化(objectification)によって、社会的エージェントは自らを顕在化し現実化するからである。ここで、一次的なエージェント/二次的なエージェントという区別を導入しよう。前者はただのモノとは区別される意図をもった存在者であり、後者はそれを通じて前者のエージェンシーが拡散されるような人工物(車や芸術作品)である。

Exポル・ポト派兵士の設置した地雷
:武器は兵士を社会的エージェントとしての兵士たらしめる不可欠の構成要素である。地雷は兵士とは違って十全な(一次的な)エージェントではないが、兵士のエージェンシーが社会的に拡散していく乗り物であるかぎりにおいて(二次的な)エージェントとなりうる。


(5)エージェント/ペーシェント
エージェントとそうでないものを分類することが文脈に関わらず可能であるとする通常の見解に対し、本書では関係論的で文脈依存的なエージェンシー概念が採用される。つまり、何かがエージェントとなるのは、それが何らかのペーシェント(被行為者、受動者)に対して影響を及ぼす時のみである。例えば、真夜中に突然故障した日本車は、そのために受動的な立場に立たされる運転者(=ペーシェント)にとってのみ、エージェンシーを持つ。


アート・オブジェクトと結びつく社会的エージェンシーは主に「アーティスト」「レシピアント」「プロトタイプ」の3つの形態をとる。三者はいずれも、アブダクションを通じてインデックスと結び付けられ、インデックスに対しエージェントないしペーシェントとして関係する。


(6)アーティスト
アートの人類学が取り扱うインデックスの多くは(全てではないが)人工物である。人工物は、それを製作/創作したエージェントが誰であるかについてのアブダクティブな推論を促す。(煙が火のインデックスであるように)製作された事物は製作者のインデックスなのである。我々の第一の関心がアートの製作にある以上、インデックスの作者とされるものを「アーティスト」と呼ぶことは利に適っている。ただし、人間のアーティストによって作られた事物以外は考察しないというわけではない。何らかのアーティストによって作られたとしても、その起源は別にあると考えられている事物は数多い。それらは聖なる起源を持っていたり、神秘的な方法によって自分で自らを生み出したと考えられている。


(7)レシピアント
アーティストに製作されて始まるアート・オブジェクトの生涯(流通の通時的過程)は長く、それは多くの人々によって受け取られ/受け渡されていく。その結果アート・オブジェクトは、製作者だけでなくこれらのレシピアント(受取人、受容者)を指し示すインデックスともなる。
Ex1.Victoria and Albert Museum収蔵の「ジャハンギール皇帝のカップ」は、ジャハンギール皇帝が作ったものではなく、皇帝はパトロンとして職人に命令したにすぎない。しかし、極めて技巧的で独創的なそのカップに、美術館に訪れた観衆は皇帝の強大な権勢と栄華を見る(=アブダクティブに推論する:Q(カップの精巧さ)である→P(皇帝の強大な権力)ならQ→従ってP)。
Ex2.街中に止められたフェラーリのスポーツ・カーは、(フェラーリ社や職人だけでなく)億万長者のプレイボーイのインデックスとなる。それはまた、これらの豪奢な乗物に溜息を付きつつその所有者を羨む多くの一般人(public)を指し示してもいる)


(8)プロトタイプ
アートについての書物の多くは、それが何らかのものを「表象(Representation;表現)」することに関心を寄せてきた。表象に関する複雑な哲学的論争に深入りするつもりはないが、本書の立場を明確にする必要はある。グッドマン(1976)は、あらゆる図像が(適当な規約が与えられれば)恣意的に選ばれた指示対象を表象しうると主張した。彼の主張と、ソシュール記号学における「恣意性の原理」(Ex:英語において/dog/がイヌを意味するのはそう規約によって決められているだけであって、両者の間に自然のつながりはない)の類似性は明らかだ。しかし、これらの主張は言語的記号論の過剰な一般化でしかない。本書では、図像による表象は、(彫刻や絵画などの)描写するものとそれらによって描写されるもの(モデルとなる人物や風景)との間にある類似性に基づいていると考える。このように視覚的ないし非視覚的にインデックスが表象するものを「プロトタイプ」と呼ぶ。全てのインデックスがプロトタイプを持つわけではないが、それはインデックスとの関係において時にエージェントとなり(例えばインデックスの外観を規定する)、時にペーシェントとなる。


(9)最後に、
以上の基本用語は相互に関係づけられる。アートをめぐる社会的エージェンシーは、次の4つの項が織り成す諸関係によって様々な仕方で配置される。


①Index:
 Material entities which motivate abductive inference, cognitive interpretations, etc;
 アブダクティブな推論や認知的解釈を動機付ける物理的な存在。
②Artist(or other ‘originator’):
 to whom are ascribed, by abduction, causal responsibility for existence and characteristics of the index;
 インデックスが存在することやそれが有する諸特徴の因果的な責任を(アブダクションを通じて)帰せられる者。
③Resipient:
 Those in relation to whom, by abduction, indexs are considered to exert agency, or who exert agency via the index;
 それらとの関係において、インデックスが(アブダクションを通じて)エージェンシーを発揮するとみなされるもの。時にはインデックスを介してエージ ェンシーを発揮する。
④Prototype:
Entities held, by abduction, to be represented in the index, often by virtue of visual resemblance, but not necessarily.
 インデックスにおいて表象されていると(アブダクションを通じて)みなされるもの。しばしば視覚的な類似性に依拠するが、常にそうである必要はない。


[考察]


一章で漠然と示されたアートの人類学理論=<社会的エージェンシーを媒介する事物をめぐる社会関係の理論的研究>が、二章ではやや具体的にイメージしやすくなってくる。とりわけ、以下の記述は鮮やかである。

[P15L7〜]インデックスから生じるアブダクティブな推論として示唆的なのは、笑顔が好意のインデックスとなるという例である。私の理論は、その大半を、我々はアート・オブジェクトがある種の「顔つき」を持つかのように扱うというアイディアに負っている。笑っている人が描かれた絵画をみれば、我々は実際に笑顔の人と出会った時と同じように、写真の中の人物が親しげな態度をもっていると感じる/推論する。こうして我々は――現実の人物であれ絵のなかの人物であれ――「他者の心」にアクセスする。社会的な他者の意図や性質について理解するために我々が用いる手段の多くは、インデックスをもとにしたアブダクティブな推論なのである。このことは、アートの人類学にとって本質的なポイントをなす。

*1:自然的記号(signe natural)と慣習的記号(signe conventional)という二分法は、西洋古代からの伝統的な区分である。例えば、ヒポクラテスの医学文献では、ある疾病の兆候や感情表現としての顔の表情は自然的記号とされる。これらの記号の機能には社会的慣例が介在しないからである[菅野盾樹『恣意性の神話』p10より]。