最も私的なものは最も普遍的なものでもあるということについて


ここ1週間ばかり、
漠然とした必要に駆られて村上春樹を再読している。


毎日寝る前に2時間ほど、デビュー作から順番に。


村上の小説、特にその初期において顕著な特徴に、
登場する人物の多くが固有名をもたないことがある。


例えば「高校時代レコードを借りた女の子」(風の歌を聴け
例えば「双子の女の子」(1973年のピンボール
例えば「離婚した妻」「耳を持つ女の子」(羊をめぐる冒険


いずれの人物に対しても、主人公である「僕」にとってどのような関係にあるのかを説明する言葉がそのまま名前として使用されている。
この仕掛けによって、極端にプライヴェートな雰囲気が物語に与えられる。描かれる世界の全てが、「僕」との関係によって覆い尽くされているからだ。


しかし同時に、そのプライヴェートさはあまりに極端でもある。
例えば、誰もが「友達」という言葉で自分の友達を呼ぶことができるが、そう呼ばれている人間はそれぞれ異なる。
固有名ではこうはいかない。
誰もが「久保明教」という名前で私を呼ぶことができるが、
そう呼ばれている人間は一人しかいない(ことが前提になっている)。
「友達」や「離婚した妻」といった関係名称は、
それが表す対象は人それぞれであるという点で私的なものでしかないが、
誰もがそれらの言葉によって私的な人物を表すことができる点で普遍的でもある。


もっとも私的なものが最も普遍的なものへと変換されるということ(あるいはその逆)。それによって、物語が読者個人の経験にダイレクトに接続されるように感じられるということ。


この働きが、人物名だけでなく村上の小説全体に利いているように思われる。そして、だからこそ村上春樹がここ数十年で獲得した一般性は、80年代以降の若者的な感情や風俗を上手に描いたといったありていな言葉によっては説明できない。彼の生み出した言葉の仕組みは、私的なものをより私的でない方向にむけて表現する上での基盤となるシステムとして現在の我々を規定しているようにも思える。ただし、それほどの影響力を村上という作家個人が発揮したというわけではない。むしろ現在の表現を規定するシステムを最も明確に輪郭づけ活用した作家であるという方が正確だろうか。(こんなことを考えるのも、このシステムにはそろそろ限界がくるはずだし、なんとかして違うシステムを作らなければやっていけないように感じるからだ。正確ではないかもしれないが、直感的にそう思う。)


ただし、私的なものから普遍的なものへの変換作用を把握する上では、関係名称でも固有名詞でもない名をもつ登場人物が物語のキーとなる役割を果たしていることを併せて考える必要があるだろう。


例えば「鼠」。例えば「羊男」。


また、これらの言葉を名として持つものが多くの場合は男性で、
関係名称で呼ばれるものの多くが女性であるという点は無視できない(ただし中期からはこの傾向は薄れる)


とはいえ、村上春樹論を書きたいわけではないのでこの辺でやめておく。
まだまだうまく説明できていないし、
何を問題にしているのかも明確ではないし、
どうにも理屈としては不備の多すぎることを言っている気もするが、
忘れる前に書いておくことにした。