Alfred Gell『Art and Agecy』読解6


Chap7 The Distributed Person


*発表の出来はよくなかった。特に後半部は全体を把握仕切れておらず、議論の土台を作れなかった。反省。やはり完徹空けに3時間喋り続けるのは無理があったようだ。とはいえ、本書終盤の迫力はかなり異様だ。特に以下で要約した7章、後半から次第に筆者の意図が読み取れなくなっている。近いうちに全体を読み返し検討しなおしたい。


[要約]
本章では再び、表象的(representational)なアート、つまりプロトタイプをもったインデックスに関する考察を行う。その基本的な論旨は、肖像やイコンなどの芸術作品は、「人間のようなもの(person-like)」=社会的なエージェンシーの源泉および標的となるもの、として扱われるべきだということである。


偶像(Idol)や肖像(Image)といったアート・オブジェクトは、装飾模様とは異なり、プロトタイプをもつインデックスである。これらは、「人間のようなもの(person-like)」として社会的なエージェンシーの源泉および標的となる。しかし、それはいかにして可能になっているのだろうか。考察の焦点となるのは何らかの像が人間的な人格を持ったものとして扱われる典型的な局面、つまり偶像崇拝である。


偶像崇拝(idolatry)
伝統的な見解では偶像(idol)には二種類ある。


(1)イコニックな偶像:それが表象するものと類似した形状を持つ(主に人間型)
(2)アンイコニックな偶像:(石など)


しかし、この区別は妥当なものではない。偶像は神を表象するものであるが、生きたモデルのいる人物画とは違ってそれが表象するものをリアルに写し取っているかは問題にならない。石も白髪の老人も同じくらいリアルに神を表象(represent)することができる。偶像は神を写実的に描写したものではなく、人工的に作られた神の「身体」なのである。こうした偶像の有様は、「volt sorcery」の有様と連続性を持っている。


◎volt sorcery
 フレーザーの誤りは、――呪術を象徴的な表現行為とみなす論者が批判するように――なんらかの結果を引き起こすことを意図した行為として呪術を捉えたことにあるのではなく、呪術的実践を科学(物理)的な原因-結果の図式によって説明したことにある。呪術が可能になるのは、エージェントの近辺で生じる出来事は何らかの意図によって引き起こされたものとみなされるからである。[p101]


「volt sorcery」(=他者の像を介して彼/彼女を傷つけること)が可能なのも、それが意図を含んだ社会的な行為の連なりの作用であるからに他ならない。自らの表象(肖像画、彫像、写真など)を傷つけられことでその当人が被害を受けるのは、超自然的な魔術によってではない。どんな人間も自らの表象をある程度は管理しようとする。表象の拡散に関して責任があるのは彼を傷つけようとしている者ではなく、彼自身である。したがって、もし悪意ある表象が流れ出したら、その原因を引き起こしているのは犠牲者である彼自身である。
この時生じているのは、最終のペーシェントが同時に初発のエージェントでもあるような諸関係の構造であり、彼は最終的には自らのエージェンシーの犠牲者なのである。


[[プロトタイプ(A)→アーティスト(A)]→インデックスA] ――→レシピアント(P)
  ↑ 【appears to】↑ 【makes/injure】↑【cause harm to】 ↑
犠牲者X     妖術師     歪められた表象    犠牲者X
(=図7.3/1:p103)


◎浮遊するシミラークラ
 妖術(Sorcery)はしばしば犠牲者の身体からでた髪などのいわば「抜け殻」(離脱物:exuviae)を使用することでより効果的なものになる。エピクロス主義者が唱えたように、抜け殻はプロトタイプを表象するインデックス(「シミラークラ」)でありながらプロトタイプの一部でもある。記号がその対象の一部でもあるという、言語中心主義的な記号論者には想定もできない事態が生じている。しかし、これはインデックスにおいては異例ではない。インデックスが喚起するアブダクションは、実質的な部分―全体関係を設定するものだからだ(煙は火の一部であり、笑顔は親しげな人物の一部である)。[p104]
 インデックスが表象するもの(=プロトタイプ)をインデックスと結び(縛り)つけることで、インデックスを通じてプロトタイプを制御することが可能になる。(ex Tahitian To’o)。volt sorceryはインデックスを悪い方向に歪めるもので、偶像崇拝(あるいはMaoriの森のハウへの働きかけ)が良い方向に描き出すものという違いはあるが、基本的な仕組みは同じである。人間が、神のために建ててきた巨大なモニュメントは、神がこの世界に向けて発揮するエージェンシーをそこからアブダクトするためのインデックスなのである。神のシミラークラを作る/となる能力によって、我々は神(のエージェンシー)を罠にかける。[p114]       


フラクタルな人格
偶像はいかにして「社会的な他者」となるのかを考えるためには、いかにして我々は他の人間や車や石像に心(mind)や意識や意図つまりエージェンシーを付与するのかを検討することが有益である。その方法は主に次の二つに分けられる。


(1)外在主義:(ウィトゲンシュタインetc)
「心」とは内面的で個人的に経験されるものではなく、言語や実践や「生活の形式」といった公的な領域である。


(2)内在主義:(認知心理学における「心の理論」)
 我々は生物と非生物を区別するような他者の心に関するある種の理論=モジュールを生得的に持っている。


偶像崇拝の説明に前者を適用すれば、偶像はルールや慣習を人々と共有するように扱われることで社会的他者となるということになる。例えば偶像を客として迎えもてなすということがなされる[P128]。一方、後者を適用すれば我々が自らの心を把握する仕方に当てはまるように偶像を構成できれば、それは他者となるということになる。例えば、心/身という対比をあてはめて中身を空洞にし外側を囲むことがなされる。[p132]しかし、より効果的なのは二つのアプローチを同時に採用することである。ポリネシアのRurutanの彫刻「A’a」(p138左)は、一体の神の内部と表面に無数の小さな神(Rurutan社会のクラン数と一致)が含まれる自己相似形=フラクタルをなす。この彫像は、外的な関係を統合するものであり、同時に多層的な内面をもつものとしての人格を持っているのである。