「マルセル・モースの業績解題」

クロード・レヴィ・ストロース
「マルセル・モースの業績解題(『社会学と人類学』への序文)」読書ノート

*「マナ型の観念」と「浮遊するシニフィアン」に関連する箇所の抜粋


P240
マナといった型の諸概念は、あまりに頻繁にみとめられ、かつ広く分布しているので、われわれが普遍的で恒久的な思考の一形式を目の前にしているのではないかと自問するのがもっともなほどである。こうした思考の形式は、ある限られた文明や、人間精神の進化上に設定された、いわゆる古代的または半古代的「段階」を特色づけるものであるどころか、事物を前にした一定の精神状態の機能であり、だからこうした状況が与えられるごとに現れるはずのものなのだ。

<マナ型の諸概念>
Ex1
P240
モースは「素描で」、アルゴンキン族のマニトゥ(manitou)の観念にかんするタヴネ神父の意味深い評言を引用している。
「・・・それは、特にまだ共通名をもたず、なじみのない存在の全てを指示する。山椒魚についてある女の言うには、自分はそれがこわい、それはマニトゥだ、だからその名を時運に告げる者は自分をからかってそうするのだ、ということであった。交易商人の所持する真珠はマニトゥの鱗で、あのすばらしい品物、ラシャ布はその皮なのである。」

Ex2
P240
ナンビクワラ族の人々は、1915年以前には絶えて牛をみたことがなかったのだが、つねづね星を指してそうしていたように、アタス(atasu)という名で牛を指示した。この語の内包は、アルゴンキン語のマニトゥにきわめて近いのである。

Ex3
P240-241
この同一視はそれほど突飛なものではない。われわれが、未知の物(オブジェ)、あるいは使用法がよくわからない物、その効力がわれわれをびっくりさせる物を、truc(何とかいうもの)とかmachin(例のもの)とか称するとき、もとより多くの保留つきではあるが、それと同じ型のことを実行しているのだ。Machinの背後には、machine(仕掛け)があり、さらにさかのぼれば、力ないし能力という観念が控えている。Trucに関していえば、語源学者たちはその語を、器用さや偶然がものを言う遊戯における幸運な手を意味する中世の用語に由来する、としている。これはすなわち、ある者によればマナという語の起源とみなされているあのインドネシア語の用語に与えられている正確な意味の一つにほかならない。

P242
われわれがマナの意味からずっと遠ざかっているかどうか、おぼつかないものだ。相違はいたるとことで精神が無意識裡にこしらえあげているような諸観念そのものにあるのでない。むしろ、われわれの社会では、こうした緒観念が流動的で自然発生的性格をもつのに対して、他の社会においては、それらはよくよく考えられた公的解釈の諸体系を基礎づけるのに役立っていること、いいかえれば、われわれ自身が科学にとっておく役割をそれが果たしていることに存するのだ。

ともあれ、つねに、またいたるとことでこの類の諸観念が介入するのは、いささか代数学のもろもろの記号に似て、意味作用の不定の価値を表現するためであって、それらの観念自身は意味を欠き、したがって、どのような意味をも受容することができるのである。そしてこの意味作用の不定の価値の比類ない機能は、意味作用部と意味内容部との偏差をうめること、あるいはよりいっそう正確に言えば、かくかくの環境、かくかくの機会において、またその種の観念のかくかくの発顕において、意味作用部と意味内容部との間に不適合の関係が樹立され、以前の両者の相補的関係が損なわれている事実について合図することである。

*注意:マナ型の観念の作用は恣意的(いつでもどこまで機能するわけ)ではない。それは、「事物を前にした一定の精神状態の機能」であり、「だからこうした状況が与えられるごとに現れるはずのもの」である。「こうした状況」とは「意味作用部と意味内容部との間に不適合の関係が樹立され、以前の両者の相補的関係が損なわれている」「かくかくの環境、かくかくの機会」に相当する。

<モース批判を介したデュルケム(秩序の基盤としての集団的感情)批判>
P243
こうして、われわれは、モースがマナの観念をある種のアプリオリな綜合判断の基礎として援用した方途に酷似する立場にあるのだ。しかし、彼がマナの観念の起源を、それを基礎として構成される諸関係とは別の秩序の事象に探し求めるにいたって、われわれは彼の立場に合流することを拒否する。彼の探求する秩序は、感情、意思、および信念といったものだが、しかしそれらは、社会学的解明の観点からは付随現象なり神秘なりにほかならず、いずれにせよ探求の領域外の諸対象なのである。思うにかくも豊かで深い洞察にみち、裨益するとことの多い探求が、急旋回してがっかりさせるような結論に帰着してしまう理由がここにある。つまるところ、マナは、「あるいは宿命的かつ普遍的にか、あるいは偶然にか、いずれにせよ、多くの場合恣意的に選ばれた一定の事物に対して形成される社会的感情の表現」にすぎないことになろう。しかしながら、感情、宿命、偶然、恣意といった観念は科学的な観念ではない。それらは人の解明しようとする現象に光を投じるのではなく、それらが当の現象に属するのだ。それゆえ、少なくとも一つの事例において、マナの観念が秘かな能力、神秘的という諸性格を呈することがわかる。すなわち、これらの性格を、デュルケムとモースの二人がマナの属性として与えたのだった。いわば彼ら自身の体系のなかでマナの観念がはたす役割が、そのようなものなのである。
P244
社会的事象(レアリテ)、未開人にせよ人がそれについて抱く考え方に還元しようとするものならば、それは社会学の滅亡であろう。

<マナとハウ>
P244
モースが交換についてわれわれに形成するよう促している概念を、マナの観念に遡及して投影したとすれば、いったいどのような結果にいたるだろうか。ハウと同じように、マナが、知覚されない一つの全体性の要求を主観的に反映するものにほかならないことを認めなければならないだろう。
交換は、贈与、受容、返礼という3つの義務から、感情的かつ神秘的なセメントを援用して構成された複合的な建造物ではない。それはシンボル的思考に対して、またそれによって、直接的に与えられる綜合なのである。そしてこの綜合は、他のすべてのコミュニケーションの形態においてと同様、交換においても、この交換に内在する矛盾、
P245
すなわち事物を、一方で、自己と他者との関係の下で知覚し、しかし同時に他方で、本性上両者の片方から他方へ移項するよう定められている要素―そのような対話の要素として知覚するという矛盾を止揚するのだ。もろもろの事物が対話のどちらかの要素に属すかが、その初次的な関係的性格との関連で派生する状況となって現れる。
しかしそれは呪術にとって同じことではないだろうか。雲や雨を喚ぶために煙をたてる、という行為に含意される呪術的判断は、煙と雲の原初的区別を基礎にして、それらを互いに接合するためマナに訴えるというのではない。そうではなく、思考のもっと深い平面で煙と雲とが同一視されているという事実、少なくとも、ある関係のもとで両者が同一の事物であるという事実にもとづくのだ。この同一視が、後続するもろもろの連想を正当化しているのであって、その逆ではない。
すべての呪術的作用は、ある単一性(ユニティ)の復権に拠っている。そして、この単一性は、失われてはいないが、(というのも、何もけっして失われないからだ)、無意識なのであり、あるいはそうした作用ほどには完全に意識的ではないのである。マナの観念は実在の秩序に属するのではなく、思考の秩序に属するのだ。

P244
シンボル的思考のこうした関係的性格のなかにこそ、われわれは問題の解答を探求しうるのだ。言語が動物的生活の段階で出現したとき、その契機や状況がどうだったにせよ、言語は一挙にしか生まれえなかった。事物が漸次的に意味するようになったことなどはありえない。ある変換―その研究は社会科学ではなく生物学や心理学に依存する―に引き続いて、何ものも意味をもたなかった段階からすべてのものが意味を所有した段階への移行が成った。ところで、みたところ月並みなこの注記は重要である。というのも、この根本的変化は、ゆっくりと漸進的に仕上げられる認識という領域には、それに匹敵するものをもたないからである。言い換えれば、<全宇宙>が一挙に意味作用をなすようになった瞬間に、だからといってそれがよりよく認識されたわけではないのだ。たとえ言語の出現が認識の発展のリズムを早めたはずだとしても。したがって、人間精神の歴史上、不連続性の性格を呈するシンボル作用と、連続性で特徴付けられる認識との間には、基本的な対立がある。
このことからどのような結果が生じるか。一つには、意味作用部と意味内容部という二つのカテゴリーは、あたかも二個の嵌め込み式の積み木のように、同時にかつ相連繋しつつ構成されるということである。にもかかわらず、認識―つまり意味作用部のある側面と意味内容部のある側面を互いに同定すること(意味作用部と意味内容部のそれぞれの総体のなかで、もっとも満足のゆく相互の適合的な関係を提示する部分を選び出すこと、といっても過言ではないだろう)を可能にする知的過程は、ごくゆっくりでなければ進まない、ということだ。

『親族の基本構造』1章


レヴィ=ストロース親族の基本構造』読書ノート
福井和美訳 2000 青弓社


序章 第一章「自然と文化」


自然状態と社会状態の区別にかかわる原理ほど確信をもって退けられてきたものはない。しかしこの区別にはもっと価値ある解釈を受け入れる余地がある。


エリオット・スミスとペリーを開祖とする学派の理論:
人間文化の二つの水準の深い対立=ネアンデルタール人新石器時代の人類
なかでも重要なのは、
自然状態と社会状態の区別は容認できる歴史的意味は欠くが、現代社会学が当の区別を方法上の道具に用いることに正当な根拠を与える論理的価値をもつ、こと。

     人間は一個の生物であり、同時に一個の社会的個体である。
外的、内的刺激に対する人間の応答には、
人間の本性にまるまる由来するものもあれば、人間が置かれる状況に由来するものもある。
【ex】生物としての人:瞳孔反射⇔社会的個体としての人:手綱を持つ騎手の手の位置

だが、区別がいつも簡単とは限らない(【ex】子どもが暗闇で感じる恐怖心)
さらに、
いちばん多いのは、生物的源泉と社会的源泉が主体の応答に、まさに統合されるケース。
(【ex】子どもに対する母親の態度、軍事パレードを見物する人々の感情の働き)
つまり、
文化は単に生命に並置されているだけでも、単に生命に重なり合っているだけでもない。ある意味で文化は生命に取って代わりもし、別の意味では、新しい次元の総合を成し遂げるために、生命を利用したり変形したりもする。

原則的区別をつけることは簡単だが、分析に入ると二つの可能性を前に困惑が生じる。

鄯個々の態度についてその原因が生物次元にあるか社会次元にあるかを決めていく
(もしくは、)
鄱文化的起源をもつ態度がいかに生物的起源をもつ行動に接ぎ木されているかを追求する。
(この二者の選択を前に困惑が生じる。)
どこで自然は終り、どこで文化は始まるか。この二重の問い(鄯、鄱)に答える方法は、いくつか考えられるが、いままでのところ、いずれの方法も期待を裏切ってきた。

【ex】
①新生児の反応
得られる成果は断片的で限定的。特定の時点である反応が現れないのは、その反応が文化に発するからなのか、反応の出現を条件づける心理機構がまだできていないからなのか、一概にはいえない。

②「野生児」の事例
  こうした子ども達の多くが先天的不適応児であり、捨てられたから知能が劣ったのではなくその逆である。またブルーメンバッハによると、人間は自分で自分を飼いならした動物であり、家畜とちがって孤立した個体が帰っていける種本来の習性などない。

「野生児」は文化的な怪物でこそあれ、文化以前の状態の忠実な証人ではありえない。では動物生活の高度な水準において文化の前兆を認めることはできるだろうか。↓

③昆虫などの社会形態
  こうした社会例においてこそ、本能や、遺伝を介した伝達など、紛れもない自然の属性がまとまって見出せる。動物社会のような集団的構造物には、普遍的文化モデルさえ入りこむ余地はない。

④大型ザルの研究
  単語の分節や、相互関係、宗教的感情など普遍的文化モデルの基本的構成の兆候を見出すことはできる。しかし、それらの兆候は原初的な現れの域を決してでない。さらに、サル達の社会生活には、明確な規範を形成する準備が全く整っていない。
大型ザルはすでに種としての行動から離れるだけの力はあるが、代わりに新しい平面でなんらかの規範をつくるところまではいけないようだ。自然が去ったあとには更地しかない。

要するに、
文化を前提とするもの、つまり制度的規則について、その起源を自然の中に求めることがそもそも推論間違いを含む。恒常性と規則性は自然にも文化にもあるが、ただ文化の内部でそれが現れる領域(=外在的伝統)は自然の中では微弱にしか現れず、自然の中でそれが現れる領域(=生物学的遺伝)は文化では微弱にしか現れない。
自然と文化が連続しているという誤った見かけに、二つの次元の対立地点を見出すことはできない。


結局、
いかなる実証的分析も自然と文化の間の移行点を、またそれらの結合の仕組みをつかませてくれない。しかしこれらの議論から一つの積極的な結論をひきだせる。
つまり
本能による決定を免れている行動のなかに規則があるかないかをもって、社会的態度を判別できる。その場に規則が現れるなら文化がある。反対に、自然の判別基準は普遍的なものの中に認められる。全ての人間に共通する恒常的なものは必然的に、習俗など人間集団の相違と対立を形作るものの領域外にあるからである。

理論的分析の原理=<文化:規範>/<自然:普遍>

人間のもとにある普遍的なものは、なんであれ自然の次元にあり、自然発生を特徴とする。規範に拘束されるものはなんであれ文化に属し、相対的・個別的なものの属性を示す。規範に拘束されるものはなんであれ文化に属し、相対的・個別的なものの属性を示す。

こう仮定するなら、ひとまとまりの事実がゆゆしき事態として現れてくる。

インセスト禁忌である。
  自然と文化という相容れない二つの次元に属す矛盾し合う属性を規範および普遍性に認めるとき、インセスト禁忌はこの二つの性格を合わせもつものとして現れる。各集団において異なる多様な規則としてインセスト禁忌はあらわれるが、しかしいかなる社会集団にも必ずこの禁止が存在する。いかなる婚姻型も禁忌とされない集団は存在しない。

自然現象のもつ特徴的性格と文化事象のもつ‐理論的には前者の性格と矛盾する‐特徴を同時に示す現象がここにある。インセスト禁忌は、性的であり本能でもあるという普遍性も、法であり制度であるという強制的性格も併せ持つ。

ではインセスト禁忌はどこからくるのか。

『野生の思考』7章


クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』読書ノート


7章 種としての個体


固有名と分類体系

►厳密な意味で固有名と認められる名前と、一見そうではない名前の関係はいかなるものか。

Exペナン族の人名体系

£三種類の名

個人名(固有名)
  親名:誰々の父(母)
喪名:喪父、喪姪(例、祖父が死ぬとTupou、父の兄弟が死ぬとIlun)

£名前の規則

         親族の誰かの死:喪名

誕生:個人名X⇒ 兄弟の死:喪名(「喪兄(弟)」)⇒兄弟の誕生:個人名X

         子供Yの誕生:親名(Yの父(母))⇒子供の死:喪名
                          子供Zの誕生:親名(Zの父(母))

►分析(諸規則はいかに結びつくか)

この体系は3つのタイプ(自名、喪名、親名)の周期性によって規定される。
 :尊族に対しては喪名から喪名へ、兄弟に対しては自名(固有名)から喪名へ、子供に対しては親名から喪名へ移る。
►これら3つのタイプの周期性の間の論理的関係はどうなっているか?

1[自名→喪名、親名]
親名と喪名は親族関係に依拠する「関係」名であるが、自名はこの性質をもたない。
 自名は、固有名であるかぎりにおいて、一つの自己を他の自己との対比で規定する。
 親名は、固有名を含むかぎりにおいて、他の自己への関係を表現する。
 喪名は、表示されない他者と表示されない自己との関係(「他者関係」)を述べる。

2[親名→喪名、自名]

2-1親名と喪名との関係
出発点:ニーダムの着眼:西洋における未亡人(Veuve)という語の使用と喪名の類似性。
女性X    Yとの結婚:Y夫人   Yの死:Y未亡人

結婚によって彼女は自名を放棄して他の主体との関係を表現する名前をとる(親名)。
私の自己が他の自己との関係で規定されているがゆにこそ、その他者=夫を失うと、
その関係を保持したままマイナスの負号(喪名)を帯びることになる。
喪名がつけられるのは前に親名にあたる名称をもっていたからなのである。

►ペナン族の場合はどうか?

£兄弟系列

Q:兄弟の死によって喪名となった後、新たな兄弟の誕生によって自名に戻るのは何故か?
(何故、親名と同じように「某の兄」などと名乗らないのか)

A:他者関係が解消されているから
① 誕生した子の名は両親の親名に使用されており、
② 誕生によって体系全体の記号が死の音部記号から生の音部記号に移ったために
兄妹は誕生した末子によっても、死亡した兄妹によっても規定されなくなるので、
のこる唯一の方法である彼ら自身の名前に戻る。

£親名と喪名
残る問題は、
Q:親による親名の使用と、喪名中の固有名欠如が何故起こるのか?

A:死者の名は口にしないから。これだけで喪名の構造を説明するには十分である。
   ①そのため喪名は関係(の消失)を提示するのみで(死者の)名を欠いており
②子の誕生は親を死者とするから。誕生は加入ではなく交代。
(Ex:ティウイ族、擬娩)
►この分析から引き出せる結論は

鄯固有名は独立した範疇を構成するものではなく、
他の名前と構造的関係によって結びつき一群を形成する。
鄴この体系のなかで固有名は従属的位置を占めるにすぎない。

 固有名は論理的に低い評価。それはクラス外の人間の印である。
固有名の使用は、将来クラスに「入る」べき人間の一時的な義務(自名にもどる兄弟)、
あるいはクラス外の人間との関係によって自らを規定する(両親が親名を持つとき)立場にあること、の印である。
一方で、
喪名は論理的に絶対優先。
誰かが死ぬと社会組織に空隙ができるとクラス外の人間は生気を与えられる。
彼は、単なる順番待ちの印にすぎない固有名に変えて体系の中の位置付けを得る。
                  

外部(死と誕生)と内部(人名体系)の均衡

►では死者の名の禁忌をいかに説明すべきか

 それは信仰の結果ではなく原因。命名体系の構造的特性の一つ。

固有名は最も低いレベルでクラスになる(極端な場合にはクラス外:ペナン族)。

£新加入者すなわち生まれてくる子供だけが問題。

これらの体系は個別化を一つの分類とみなすが、新しいメンバーが加わるごとに構造があらためて問題になる。

£二つの型の解決方法
 ①位置のクラスからなる構造:人口よりも多めの固有名を予備的につくっておく。
②関係のクラスからなる構造:死者と生者の関係の把握によって出入を統合する。
                →ないし潜在的な死者=親名をもつ親
                
►かような次第で、死者の名の禁忌はそれだけを切り離してあつかえない。

£死者が名を失うのは、ペナン族において
① 生者が体系に入るに際し、名を失い喪名になることや
② 親名を使うことで定数外の人間の出産によって生じた問題を解決すること、
と同じ。

はじめに体系外にあった人間とあらたに体系外に出る人間は同一視されて、
体系を構成する諸関係のクラスの一つにおさまる⇒体系の均衡維持

►名前を大事にし固定する社会も、人が死ぬごとに始末し新しくつくる社会もある。

両者は体系の恒常的特性の二面を表すものにすぎない。
どの社会も連続的な世代の流れに非連続的な格子を押し当てることで構造の型をつける。
違いは、固有名の体系が、濾過装置の最も細かな編目として組みこまれているか、
装置の外におかれて連続体を個別化することで分類の前提条件たる非連続性を設定する機能は保持しているか、のどちらか(クラスの底辺ないしクラス外という個別化)の選択でしかない。

西洋の分類体系

p245〜250 フランスの動物命名

鳥:鳥社会と人間社会の類似(隠喩的)。人間の名の一群から選び名付ける(換喩的命名)。
犬:人間社会に従属している(換喩的)。芝居の登場人物の名をつける(隠喩的命名)。
↑種の間(人と動物)の関係が隠喩的なら換喩的な命名が行われる、その逆もまた。
牛:人間社会に客体として従属(換喩的)。修飾形容詞から名をつける(換喩的命名)。
馬:(競走馬)人間社会に属さない非社会(隠喩的)。言説からの非描写的な単語の抜き出し(隠喩的命名法)。


*<命名系図


  社会的(範列集合) 非社会的(統合連鎖) 
      |          |
隠喩――鳥――――――馬―(負の隠喩:肯定的ではなく否定的)
      |          |
      |          |
      |          | 
換喩――犬――――――牛――(負の換喩:主体ではなく客体)
      |          | 

上図の説明:
横方向では、上の線が隠喩関係に対応し、それは+と−にわかれる。人類社会と鳥社会の間は正の隠喩関係、人間でできた社会と馬の対立社会との間は負の隠喩関係をなす。下の線は人間社会と犬・牛との換喩的関係に対応する。犬は人間社会の主体的成員であり、牛のほうは客体的(モノに近い)成員である。
縦方向では、左側の欄は社会生活に関係をもつ鳥と犬を結びつける。鳥のもつ関係は隠喩的であり、犬のもつ関係は換喩的である。右側の欄は、社会生活に無関係な馬と牛をつなぐ。
  さらに斜め方向の2軸が加えられる。鳥と牛につけられる名は換喩的抽出(一方は範列集合、他方は統合連鎖の)でできているが、犬と馬の名は隠喩的再生(一方は範列集合の他方は統合連鎖の)で作られる。こうして一貫性のある体系ができあがっており、心理・社会学的差異の体系の言語による等価物が呼称の面に見出される。

►このささいな慣習の分析が示すもの
 ①固有名詞の性質をより一般性を持って捉えることの可能性。
民族誌の対象となる慣習から謎にみちた我々自身の慣習の解読可能性が見えてくる。

Exティウイ族の事例
  Q:誰かが死ぬと、その人の持っていた、あるいはつけた固有名は禁忌の対象とされる。
   では、いかに新しく名を生み出し、体系を維持するのか?

  A:固有名詞の禁忌を普通名詞に感染させる。その普通名詞は日用言語(統合的連鎖)から追放され、神聖言語(範列集合)に移り、それに接尾語を付すことで新たに固有名詞が形成される。

►ティウイ族とフランスの動物命名の類似は
  体系が、(日常言語の)統合連鎖と(単語が意味をうしない統合連鎖を作る力を失っていく神聖言語においてはその本性として現れる)範列集合との間の調停に基づいている、こと。=隠喩的関係と換喩的関係との間の等価性。固有名詞は音声上の(正の)類似性の働きで普通名詞に換喩的に結ばれるが、神聖言語の単語は、意味内容の欠如もしくは貧困に基づく負の類似性の働きによって、固有名詞に換喩的に結合する。
補足例:ティウイ族における固有名の変換とフランスにおける花の名の変換
・ティウィ:固有名詞の禁忌→普通名詞への感染→普通名詞の神聖言語化
→神聖言語+接尾語→新たな固有名詞
・西洋:日用言語(バラ=rose)→固有名詞(女性の名Rose)
→「神聖」言語(新たな品種名Princesse Margaret=Rose)
→日用語(一品種としての普通名Princesse Margaret=Rose)

種としての個体

►固有名詞と種名とは同一群に属していて、二つの間には本質的な差異はない。

ただし具体的な現れ方は多様。種の観念と個体の観念は社会学的かつ相対的。

人間は生物学的にみれば同一種に属す。個々の人間は一本の木に咲いた花々のひとつであり、任意の動植物の種の成員に較べられる。
しかし、社会生活による体系の変換がなされる。
このとき、個性とは、「単一個体」的観念であり、一人一人独自の種としてある。

►この観点からみれば
 トーテミスムとは普遍的な分類様式であり、西洋ではそれが人間化(個人化)されているだけである。個性=自分のトーテム。

►固有名詞は全体的分類体系の周縁部をなす。
 それは体系の延長であり限界である。
  名詞がどれだけ「固有性」をもつかは、名詞の内的性質からは決定されず、他の単語との比較からは決められない、それは社会が分類作業をいつ打ち切るかで決まる。
固有名詞は常に分類の側にとどまり、その下のレベルではもはや指示するしかない。

►パースとラッセルの誤り

パース:「指標」としての固有名詞。ラッセル:指示代名詞としての固有名詞。
両者は意味行為から指示行為に移行する連続体の中に命名行為を位置付けた。
しかし、この移行は非連続的なものであることを私は明らかにした、つもりである。
もっともその限界線の決め方は文化によって異なるものだけれども。

『野生の思考』6章


クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』読書ノート


第6章 普遍化と特殊化


 歴史と体系の間に

►歴史と体系の間には二律背反性が見出されると信じる人もいるが、いままで検討してきた例には、そのような二律背反は見出し得ない。

両者の間には、移行相を形成する通時的かつ非恣意的な構造体のための場所がある。
もっとも単純な体系の例である二項対立をもとにして、その両極に新たな項を付け加えていってこの構造体はできあがる。付け加える項は、それぞれの極と対立、相関、もしくは相似の関係をもつものが選ばれる。だからといって、これらの関係は全て均質でなければならないというわけではない。

►体系の論理が、体系内に組みこまれている局部的論理の全体とあらゆる点において一致する必要はない。

 全体の論理は違った種類のものであってもよい。それは、用いられる軸の数と性質、一軸から他の軸に移る為の変換の規則、体系固有の慣性、すなわち無縁的な動因に対する、ケースごとに異なる受容性の大小によって決まる。

►トーテム分類法や関連する信仰、慣習は、この一般的な体系活動の一様式にすぎない。

体系における種操作媒体の論理効力

種操作媒体が可能にするもの:普遍化と特殊化

①普遍化:初期の集合の外にある分野へ進出すること。
EX.1:病気や薬といった限られた領域の組織化(米国南東部のンディアン、ピマ族)。
EX.2:空間の組織化(アルリジャ族、ペノブスコット族、スーダン)。
EX.3:集団外部、人間以外への拡張(オーストラリアの族際的体系、アルゴンキン族)。
②普遍化と特殊化の中間領域

►普遍化と特殊化の二つの操作は見かけほど隔たったものではなく、現地の体系の中では重ね合わせさえできる。

 場所も個人もひとしく固有名詞によって名づけられ、しかも地名と人名は互いに置き換えうることは多くの社会に見られる。

⇔地理的個別化と生物的個別化の間の対応。

EX1:アランダ族の神話(p201)。
 EX2:オーストラリア原住民(p202): 社会体を形成する諸親族を人体の部位ないし筋肉によって名づけられる5つのカテゴリーに分類。初対面の人間に対しては、対応する筋肉を動かすことによって自分の親族関係を告げる。
 
►社会的関係の全体系は、宇宙体系に連結しているうえ、また身体の面に投影され得る。

  体系に対するこの相同的特殊化の一般的関係は次のように定式化できる。

もし、(集団a):(集団b)::(種「クマ」):(種「ワシ」)
ならば(aの成員x):(bの成員y)::(クマの足l):(ワシの足m)である。

この図式は有機的社会観の問題を際立たせる。種の分類と並んで生物の形態を分類する機構が働いていて、この機構は解剖学的解体と有機的再統合の2面に作用するのだから。

►社会は対応関係の体系を抽象的に考えているだけではない。部分社会の個々の成員に、行動によって自分の個別性を示す動機を与え、ときにそれをそそのかす。

EXソーク・インディアン:理屈としては範疇対立が直接に個人の気質や適性に作用することになっていた。この作用を可能にする制度の枠組みは、個人的天命の心理面と個人命名に由来する社会面との関連性を証明する。

►►かくしてわれわれは分類法の最終レベル、個別化に到達する。

③特殊化:分類作業を、その自然限界の彼方、すなわち個別化にまで延長すること。

►体系は個体をいくつかのクラスに配分するだけではない。二分法に基づく思考によってそれは存在の固有性を表現する。

 ►固有名詞は言語学者にとって以上に、民族学者にとって問題である。
  
・第一に、固有名詞は『meaningless』であるとするミルらの主張を認めなければならないのであれば、固有名詞が体系(別の意味を表す事項に転移することによって意味を固定する手段としてのコード)の構成部分であることを明らかにすることは困難。
  ・第二に、この体系、この思考が新石器革命を引き起こす力となったと本稿では考えてきたのだが、もし具体的事物にどうしても除き得ぬ不可解性が残ったのであれば、この思考がそのような力を持ったとは考えにくい*。

*そして究極のところ具体性なるものがこの不可解性の残滓が本質的に意味作用に反抗するものであるなら、この思考が、どうして満足しえたであろうか、また具体界と有効に取り組むことがどうしてできたであろうか?二分思考に基づく思考にとっては、すべてか無かの原則はただ発見法としての価値をもつだけではない。それは存在の固有性を表現する。すべてに意味がある。さもなくば何物にも意味がない。(「すべて」と言ったが、存在の存在は例外である。それは存在の固有性ではない。本書308頁参照)

つまり、課題は
「固有名を体系によって説明すること、固有名を説明できる体系を論じること」。

民族誌における固有名詞

►本章で例にあげた社会では、ほとんどが氏族名によって固有名を作る。
 
ソーク族:氏族動物と固有名の密接な関係。
オセージ族:固有名はクランとサブクランに帰属するex熊の氏族の「背中の脂肪」。
 ツピ・カワイプ族:各氏族が名祖動物から派生した固有名を持つ。
つまり
⇔トーテム氏族と固有名は結びついている。

►個人呼称が、集団呼称と同じ体系に属することは明らか。

 集団呼称を媒介とし、変換を援用することで、個別化の地平から一般的なカテゴリーまでを移動しうる。個人が集団の部分であるように、個人名も集団呼称の「部分」である。
 集団呼称がある動物の全体で、その一部または一面が個人名に相当する。
 (ex 「熊の目」「怒れる野牛」)

►►固有名は概念的存在としての動植物の一面を表し、同時に個体としての人間の一面に対応する。
P209
   種を体の部分や態度に、また部族社会を個人や役割に、という二種類の解体過程は、しかし再統合の形の下で進められる。(5章のトーテム操作媒体の仕組みと同じ)。

►固有名が体系によって説明されうることにはいくつかの根拠がある。

カルフォルニアミウォク族(クローバーの観察)。名前は単一のトーテムの一面を指示すると想定されているものの、実際には特定しえないことが多い。
⇒固有名は、種を解体し、その一局面を取り出して作られる。しかし、抽出された局面だけを表面にだして対象となる種を不確定のままにしておくことで、局面抽出(=名づけ)は全てなんらかの共通点を持つ。多様性のなかに統一性を先取りして要求する。この観点からも固有名の名づけは体系と同じ型の手続きである。

・禁忌の体系が同じ性質を持って個人呼称と集団名称の両面に見出される。

固有名使用の禁止は、食物禁忌と類似し、(「口にしてはならない」)しばしば連動する。さらに、同じ禁忌の対象になる単語には固有名詞も普通名詞も入っている。これは、この二つの型の名詞の間には大きな差がないと考える根拠を一つ加える。
(p212同音性による単語間の禁忌の「感染」。)

►►しかし、このような命名法は西洋以外の全ての社会に見られるものではない。

 多様な命名法の分類:
① ある条件が客観的に成立するとその人間につけられる名前。
② 特定の個人が特定の個人の為につける、一時的な気分を表現する名前。
(一方はクラス、一方は個人を指すが、どちらも固有名詞であり、互換性を持つ。ルグバラ族の母親は、必要に応じて、この2種類の命名法のうちから選ぶ。)

►つまり、固有名詞は両極に二つのタイプがありその間に一連の中間的なタイプが存在する。
 一方では、名前は名づけられる個人があらかじめ定められたクラスに帰属することを確認するする。他方では、名づける個人の自由な創作で、命名者自身の主観性の一時的状態を表現する。►►したがって、人間は決して名づけてはいない。
人は、(名づけられる)他人を分類するか、(名づける)自分を分類するか、しかしていないし、多くの場合は両方を同時にやっている。固有名詞と普通名詞との関係は、命名と軌道作用との関係の問題ではない。対象が他者か自己かの別はあるけれども、いずれの場合も記号表示をしているのである。識別可能な対象を一つのクラスに分類するか、対象を分類の埒外に置き、それを自己分類の手段にして自己を表現するかの選択でしかない。

固有名詞?普通名詞?

►ウィク=ムンカン族の命名

 固有名は次のように形成され、各個人は三種の個人名を持つ。
1大名(トーテムの頭ないし上半身に由来)
2小名(同じく足ないし下半身に由来)
3へそ名(胎盤がでた瞬間に発せられていた名)

  ここに、客観性の要求と人的関係の偶然性を妥協させる人名形成法が見られる。

►分類によってクラスへの帰属を明示する名(1,2)と、偶発的な出来事によって賦与される名(3)を連結させるこのやり方は、西洋の動植物の学名から、アルゴンキン族まで広く見られる。

►►固有名詞は多次元的体系の中での位置を指定する手段である、としか定義しようがない。

EX.西洋の例:
デュポンの中のジャンと、ジャンの中のデュポン。(ジャンは固有名とはいえなくなる。)
►►このように、同一項がその位置の違いだけでクラス標識項から個人規定項の役割を果すものへと移行してしまうなら、特定の呼称が本当に固有名詞であるかを問題にするのは空しいことになる。

推移は問題になる名前の内的性質には関係がなく、それらが分類体系の中で演ずる構造的役割から生じる。名前を分類体系から切り離そうとするのは空しいことであろう。

    

『野生の思考』5章


レヴィ=ストロース 1976『野生の思考』読書ノート


第5章 範疇、元素、種、数


トーテミズムという名のもとにでたらめに一まとめにされたさまざまな信仰や慣習は、一つもしくはいくつかの社会集団と、一つもしくはいくつかの自然領域の間に実体的関係があるという考え方に基づいて成り立っているのではない。それらは、自然界や社会を一つの組織された全体として把握することを可能にするような分類図式に直接もしくは間接に結びついた他の信仰や慣習に類縁のものである。(P160)
                  ・
分類のレベルには、どれをとって見ても共通する一つの性質がある。考察の対象となる社会がどのレベルを前面に押し出そうとも、それは他のレベルを援用する可能性を許すものでなければならない。[・・・]生物種の間に見られる自然の「弁別性」は、確定的かつ直接的なモデルを思考に提供するものではなく、むしろ他の諸弁別体系への接近手段を提供するものであって、これらの他の体系がこんどははじめの体系にはねかえるのである。(P161)
                 ・
結局のところ、動植物の分類体系が他の体系より頻繁に、また好んで用いられるのは、分類形式の両極、すなわち範疇と個体のどちらからも論理的に等距離の中間的位置にあるからである。
すなわち、種という概念においては、外延の見地と内包の見地との均衡がとれているのである。一つだけを取り出して見れば、種はそれぞれ個体の集りである。ところが他の種と対比すれば、それはいくつかの定義が集まってできた一つの体系である。それだけではない。種を構成する個体の数は理論的には無限定で、それら個体の一つ一つは外延において不確定である。なぜなら個体は一つ一つがいろいろな機能の体系である生体であるから。それゆえ種という概念は内的力学をもっている。すなわち、二つの体系(定義群からなる体系と機能群からなる体系)の間に吊り下げられた集合体である種は操作媒体なのであって、それを用いることによって多数性の統一体(動植物のいろいろな種が作る自然の体系)から統一体の多様性(人間という一つの種の中の多様性)に移ることが可能になる(もしくは必要になる)のである。
                  ・
自然科学は久しく、動物界、植物界、鉱物界という「界」を問題にしてきた。それらの界は、相互に独立し、自律的で、おのおのいくつかの固有の性質によって規定され、また互いに特別の関係をもつ存在または物体によって構成されているものであった。このような考え方は、[・・・]種の概念のもつ論理的潜勢力とダイナミズムを消去するものである。
[・・・(対して)]いわゆる未開社会は、分類のさまざまなレベルの間に溝がありうるとは考えない。各レベルをそれぞれ連続的移行の一段階、一時期とみなしている。


Ex:オセージ族

・各半族が7氏族で成り立つ
・一方の半族は二つの亜半族に分かれる、他方は均一。
・「上」ないし「天」の半族が単純な形を示し「下」ないし「地」の半族が複雑な形を取る
・もっとも単純で主要で論理的潜勢力をもつ対立は、
 Tsi-zhu(天)とHon-ga(地)の二半族の対立。
         →本来のHon-ga(陸)とWa-zha-zhe(水)に分けられる。

↓これらの論理的前提をもとにつくり上げられる複雑な文法↓

諸分野との対応
・方位:
イニシエーション用の小屋では、
天と地は北と南として対立し、
陸と水は東と西として対立する。
・数字:
 六は天の半族に、七は地の半族に属する。
 その和13は、
 宇宙論的には朝日(=半太陽)の光線の数であり、
 社会的には、完全な戦士(=半人)が自分の勲功として数えるべき手柄の数。
・左右:(La Flescheによる報告)
地の半族はつねに人間もしくは動物の右側を、天の半族はつねに左側を代表する。
 靴を履くとき、前者は右から、後者は左から履く。

諸分野間の統一
・13という数字は緒次元における非対称、
↑      二つの社会集団(半族)、右と左、南と北、夏と冬etcを統一する。
:あらゆる生命の源泉として崇められる朝日の光線の数になぞらえる
・朝日をみようとして東を向けば、南(=地の半族)が右側、北(=天の半族)が左側にくることになる。
→ところが→天体に関するものであることから太陽の象徴性はとくに天の半族を結びつく。そこで地の半族の下位集団のために13という数字について別の具体的特性が考案される。
→熊の足跡13は「陸」に属する諸氏族の、柳13本は「水」の諸氏族の手柄を表す。
↓さらに↓
三つの自然元素によるコード化(天の13、陸の13、水の13)に種によるコード化が加わる。二つの半族はそれぞれ6種と7種の「動物」からなるが、その一つ一つに相手が現れて数は二倍となり、この体系のもっとも具体的レベル(=種)の単位数は26になる。

                   ・
われわれの考察した諸レベルの中で、種のレベルはもっとも特殊化されたものではあるが、それでも、体系の極限ないし終点となるものではない。体系は静止することなく、いろいろな面で新たな分解と再構を繰り返していく。
↓↓
氏族はそれぞれ「生命のシンボル」としてトーテムをもち、その名を氏族の名として使っている。各氏族は弁別的差異によって他と区別をつけて規定される。
↓ところが↓
区別のための種の選択はあらゆる種に共通と想定された普遍的性質の体系に基づいている。
(cf:p175典礼文)動物のそれぞれは、ある対応の法則(ex鼻面=嘴)にしたがって、部分に分解され、つぎに等価の諸部分が集められ、さらに全部が、炭の部分の存在という同一の関与性質によって一つにまとめられる。(cf:p176図)
                  ・
範疇から元素へ、元素から種へと移るための分析の手続きは、このように延長されて、それぞれの種の理念上の解体というべきものに至り、それが別の面で全体を再構成してゆく。

                 ・・
これによってわかるように、動物、「トーテム」、ないしその「種」は、いかなる場合にも生物学的実体としてはとらえらえていない。生物体のもつ二重性―ひとつの体系であるとともに、体系の中の一要素でもある種に属する一個体でもあるということ―によって、動物はいろいろな可能性をもつ概念の道具となっているのであり、それを用いることによって共時態と通時態、具体と抽象、自然と文化の間に位置するいかなる分野をも解体したり再統合したりすることが可能になるのである。

                   ・・・

中間的分類単元(中間的であるがゆえにもっとも効率が高く、またもっとも頻繁に使用される分類単元)である種のレベルは、その網目を広げて上方へ、すなわち元素、範疇、数の方へ向かうこともできるし、また網目を細かくして固有名詞の方に向かうこともできる。
この上下二方向への運動によって生まれた網目が、これまた各レベルで分割される。これらの諸レベルおよびその分枝を記号化する方法がたとえば名称、服装の差異、身体描画や入墨、挙措振舞、特権と禁忌、と、多数存在するからである。こうして各体系は、水平軸と垂直軸の二軸を基準にして規定されることになる。
↓そして↓
この二軸は、ソシュールの統合関係と連合関係 の区別にある程度まで対応する。しかし言語の場合とは異なり、「トーテム的」思考は神話的思考や詩的思考とつぎの共通点をもつ。すなわち[・・・]等価の原則が前期の二面のどちらにも作用するのである。
↓つまり↓
社会集団は、コード化に際し、メッセージの内容を変更することなしに、いろいろな語彙要素を用いることができる。「上/下」という範疇の対立の形でも、「天/地」という元素の対立の形でも、「鷲/熊」という生物種の対立の形でもよい。またメッセージの伝達についても同様で、社会集団は、名称、紋章、挙措振舞、禁忌などいくるもの統辞手段の中から選択することができ、それらを単独で、もしくは組合せて用いるのである。
                  ・
それが大変な仕事でなかったら、これらの分類法の分類を企ててもよいところである。(以下、アイディア列挙)しかしそれを実行するのは現時点では困難なので、ここでは私が便宜上、トーテム操作媒体と呼ぶもののごく簡単な特性に話を戻すことにしよう。

トーテム操作媒体(p181図参照)
*この図は種のレベルから始めているから組織体のごく一部を対象にしたもの。
*種や体の部分の数などを便宜上3つに限っておく。

1.種はまずその経験的実現すなわち<あざらし><くま><わし>という種を受け入れる。
2.これらの種にはそれぞれ一群の個体、あざらし1,2,3,…、くま1,2,3,…、わし1,2,3,…が含まれる。
3.それぞれの個体は、頭、顎、足、などの部分に分解される。
4.それらの部分が種ごとにまとめられる(あざらしの頭すべて、あざらしの顎すべて、あざらしの足すべて・・・)。
5.それらを一緒にして、(全ての動物の)体の部分の類型にまとめる(頭のすべて、顎のすべて、足すべて)。
6.最後にそれらをまとめると個体のモデルが完全にもと通り一体化した姿で再構成される。

こうして、全体としては一種の概念操作装置が構成されるのであって、それを用いて多数性から単一性が、単一性から多数性が、同一性から多様性が、多様性から同一性が濾過されるのである。この装置は、中間のレベルでは理論的に無限の外延をもっているが、その両極点においては純粋な内包に集約(もしくは展開)される。ただし両側の形は対称で、しかも一種のねじれを生じる。
               ・・・

セヌファ族の加入儀礼
 新加入者に一定の順序で見せる58の人形は、動物もしくは人物を表し、同時に行動類型を象徴したりする。すなわちそれぞれが一つの種もしくは一つのクラスに対応する。

「先輩たちは新加入者にいくつかの物品を見せる。・・・・ときには非常に長くなるこの目録は、いわばシンボルの辞典であって、いろいろ可能なその配列様式が示されるのである。」
(Bochet,p.76)

このように、この種の体系においては、観念とイメージの間に、また文法と語彙の間に、恒常的な転換があり、それはどちらの方向にも行われる。
↓しかし↓
私が何度も強調してきたこの現象には、一つ問題点がある。

このような体系ではあらゆるレベルに有縁性がある、という公準を立ててよいのだろうか
:この体系は、イメージが観念に、語彙が文法に、恒常的に厳密な結びつきをもっている真の体系なのだろうか?むしろ、具体的なレベル、すなわちイメージと語彙のレベルには、いくつかの偶然性、恣意性が含まれており、そのため全体の体系性を疑問としうることを認めるべきではないか?

これらに答えようとすると一つの難問にぶつかる。
一貫性をもち分節された体系を形成しているとされる社会は、同時にまた生きている人間の集団なのである。[・・・]このような社会にあっては、共時態(体系)と通時態(歴史)の争いは恒常的に繰り返され、その結果は通時態がいつも勝利するように思われる。
↓換言すれば↓
具体的集団の方に下れば下るほど、恣意的な区別や名称に出会うことが多くなると予想するべきである。それらの区別や名称は何よりまず偶然の事件や出来事(通時態)によって説明されるもので論理的手続ではどうにもならない。

言語学者はずっと昔からこの問題を知っており、ソシュールはそれを明快に解決している。

記号の恣意性という非合理的原則が無制限に適用されるとすれば、「複雑きわまりないものができてしまうであろう。ところが人間の知性は記号の集合体のあるいくつかの部分に秩序と規則性の原則をうまく導入しているのである。まさにそれが相対的有縁性の役割である。」(Saussure、p183小林英夫訳)
したがって、ソシュールにとっては、言語は恣意性から有縁性に向かうものであった。それに対し、我々が考察してきた対象は、有縁性から恣意性に向かうのである。概念図式は、外から持って来た要素を導入するために、つねにねじまげれられ、しばしば修正される。時には新要素が図式の中に入り込めなくて、体系の働きが狂ったり一時的に停止する。→歴史と体系の間の絶えざる争闘。Ex:p188〜190.
                  ・
伝統的解釈を保ちつづけることがもはや不可能となると、新しい解釈が作り上げられる。新しい解釈も昔のものと同様に有縁性と図式をもとに考えだされるのである。
                  ・
恣意性と有縁性が二律背反を構成する危険性は、体系のもつ論理的活力によって乗り越えられる。二項対立の展開によって、恣意的面が分類的体系の性質を損なうことなしに、合理的面(有縁的面)に付け加わる。
→[分類体系の樹木]
:有縁性の幹は恣意性の枝の展開に即して力のバランスを取る。
:その全体の分布は、細胞の遺伝子に書き込まれた設計図がだんだんスケールを小さくして反復適用された結果だといっても、統計論的変動の結果だといっても、どちらでもよい。その視造は出発点では可知的なものであるけれでも、分岐にしたがって無活動に至る。
もとの性質がひっくり変えることはないけれども、構造は多様な事件の影響を受ける。しかし、それらの事件が起こったところで、遅い段階になってからでは、観察者が構造の性質をみきわめ、種類わけする作業にとっては障害とはならないのである。
                   ・
分類の体系も言語の場合と同様に、恣意性と有縁性に対する位置は一定でないが、有縁性が作用しなくなることはない。南アフリカのロヴェドゥ族が言うように、「理想は自分の家に帰ることである。母の胸におれば、戻ってゆくことはけっしてないのである。」


[付録]

ジョルジュ・アガンベンホモ・サケル』p40

「言語活動の観点からすると、包含を意味と、所属を外示と同じものと見なすことができる。過剰点の定理に対応するのは、これこれの語は現勢力にあって実際に外示できる以上の意味をつねにもつという事実、意味と外示のあいだには埋められない隔たりがあるという事実である。この隔たりこそまさに、シニフィェに対してシニフィアンが構成的に過剰であるとするクロード・レヴィ-ストロースの理論において問題になっているものであり(両者のあいだにはつねに不等関係があり、これは神的な悟性によってのみ解消可能であって、このことは、実存においては、シニフィエに対するシニフィアンの過剰から帰結し、その過剰はシニフィエの上に措定されうる。)」また記号上のものと意味上のもののあいだに換言不可能な対立があるとするエミール・パンヴェニストの理論において問題になっているのもこれである。現代の思考はあらゆる領域で例外の構造に直面している。それはすなわち、ある不分明地帯を意味と外示のあいだに安定的に定めようとする企てである。その不分明地帯にあって、言語は外示対象を締め出し、外示から純粋な言語(言語の「例外状況」)へと身を退き、そうすることで外示との関係を自ら維持する。脱構築は、意味のあらゆる実行可能性に関して決定不可能なものを無限に過剰なものとして措定するが、そのときに脱構築がおこなっているのはこのことである。

『今日のトーテミスム』5章


クロード・レヴィ=ストロース『今日のトーテミスム』[1970仲沢紀雄訳 みすず書房


第5章 心の中のトーテミスム


ラドクリフ=ブラウンの先駆者ベルクソンとルソー


ベルクソン


1958『道徳と宗教のニ源泉』のなかにみられるラドクリフ=ブラウンとの類似。


§トーテミスムの前提
=<人間がある動物種、あるいはさらにある植物種、時には一つの単なる生命なき物体を、宗教に似ていないとはいえない敬意をもって扱うこと。>
⇒この敬意は動植物と氏族の成員が一つであるという信仰に結びついている。
⇒この信仰はいかに説明されるか
従来の解釈は二つの仮説の間に並列する。
Aレヴィ=ブリュール式の融即/Bデュルケームの呼称への還元
⇒どちらも動植物種への偏向を説明できず。
§人が動植物を知覚し思考する独自なものはあるかを問うべき。
<人間と動物あるいは植物との間の関係を特徴づけるものは、個体を通り超えた属の直接の知覚である。><二氏族に異なる動物の名を与えることで双方の氏族が生物学的意味で二つの種を構成することを明記できる>

ベルクソンはトーテミスムによって外婚制を擁護せんとするが、外婚制は生物学的に有害な近親婚を避ける本能からくるとする。⇒矛盾(動物は同族婚)
矛盾解消の為、自説を曲げる
:人間が同族婚を避ける現実の本能はない
ただ代わりに、《行動を決定すべき想像力の表象》があり、それは一つの形式に還元される。
<二氏族の成員が二種の動物種を構成すると宣言する時、彼らは二元性を強調している>

§なぜ、社会学ベルクソン>心理学的デュルケームか?
ベルクソンデュルケームの言うような意味での社会学者の逆であろうと志す限りにおいて、属の範疇と対立の観念とを、社会的秩序が自己を設定しようとして用いたご精の直接与件とすることができた
ベルクソンとシウー・インディアンの哲学の類似(p160):現実=連続と非連続の相互補完


<ルソー>


1754年『不平等の起源に関する論文』
彼は、ベルクソンよりは思慮深く、自然の秩序に属するがゆえに自然を超えることを許さない本能に訴えることは避ける。


§三重の移行
1動物⇒人間
2自然⇒文化へ:
条件は人口増加⇒自然との関係の多様化⇒自然との関係を思考することが必要に
結果、
3情緒⇒知性へ
各項を分離するとト―テミスムの発生が理解できなくなる。


§ルソーの答え
項の区別を維持したままで、情緒的、知的内容を持ち、自覚するだけで一方から他方の次元に変換可能な精神状態=他者との同体化によって。このとき項の二元性は相の二元性に対応。
      ⇔人間はまず全ての同類(動物含む)と同一でありと感じる
そののち、
自分を区別し同類相互を区別する能力=種の多様性を社会分化の概念的支柱とする能力を獲得する。


§言語の歩み


人間と動物の総括的把握は対立の意識をあとに従えている。
第一に場の構成要素とされた論理的要因間の対立、
第二に場の内部における《人間》と《人間でないもの》の対立。
これぞ言語の歩みに他ならない。言語の起源は必要にでなく情念にあり、結果最初の言語は比喩的(特に隠喩的)なものであった。知覚の対象とそれが呼ぶ感動を包括する比喩的言語が論弁的思惟の最初の形を構成し、後に分析的還元が思いつかれた。


人をして話さしめた最初の動機は情念であったため、人間の最初の表現は比喩であった。比喩的言語がまず誕生し、本義は最後に見つけられた。事物をその新の姿で見たときに、初めて、人はこれを真の名で呼んだのだ。初めは、人は詩のみで語った。推論することを思いついたのはずっとあとのことだ。(ルソー〔2〕p565)


いわゆるトーテミスムは、悟性の分野に属する。トーテミスムが答えるべき領域はまず知的秩序に属する。この意味でトーテミスムは古くも遠くもない。その本質は外からくるのではない。というのも、この幻想が一片の真理を含むならば、それはわれわれの外にではなく、われわれの内にあるのだから。