Alfred Gell『Art and Agecy』読解5


Chap6 The Critique of the Index


*金曜日までに全章をアップするつもりでしたが、残念ながらこれで最後になりそうです。来週あたまにでも残りをアップします。個人的には今までで一番面白い章でした。おそらくゼミ発表時には大幅に削ることにはなると思います。ただ、模様の反復によってモノがアニメートされていくという本章で描かれるビジョンは、マテリアルな世界が形式的に配置されることによってアブダクションが喚起され人間・行為・社会が生まれていくという仕方で本書全体の議論を読む可能性を示しているようにも思えます。つい面白がってイラレをいじって図6.5/1を一から作ってしまいました。こんなことをしている場合ではない。



(本書は4章までに分析のための基本的な概念と道具を整理したあと、5〜6章で、アートがいかにして人々を魅了するのかについて美学的なアプローチを退けつつ考察がなされる。5章では、インデックス=アート・オブジェクトが喚起するアーティストのエージェンシーがレシピアントを魅了する仕組みを考察された。これに対して6章では、インデックス自体がレシピアントを魅了する仕組みについて考察が進められていく)


[要約]
本章では幾何学的な装飾模様について分析する。西洋の芸術理論のほとんどは表象芸術(Representational Art)に関するものである。しかし、人類学(民族学)の芸術研究で伝統的なテーマとされてきたのは、何かを表象するようなものではない装飾芸術(Decorative Art)である。高度に儀礼的なアートにつきもののイデオロギーないし制度上の論争をさけ、中立的な領域から考察を進めていくために、装飾芸術は格好のスタートポイントとなる。

人工物に付与された装飾的なパターンは、人々を心理的にモノへと結びつけ、社会的に必要とされる行為へと人々を動機づける。
Ex:ディズニー柄満載のベッドは、むずがる子供を寝室に誘う。


装飾は人工物がもつ心理学的な機能において本質的なものである。その機能は、他の実用的ないし社会的な機能と切り離すことはできない。装飾はそもそも機能的なものであり、装飾と機能という二分法は妥当ではない。例えば Iatmulの人々にとってLime-container(P75写真)は、その所有者の人格を表すもっとも重要なインデックスであり、装飾なしのそれは何の機能も果たしえない。


多くの人類学者が、人工物あるいは交換財のうちに「人格」(personhood)が、客体化(objectification)されることに注目してきた。しかし、表面的な装飾を媒介にして人間と事物が結び付けられる仕組みを解明することは未だ残る課題である。ジェルは、審美的な観点から装飾芸術を捉えるのではなく、装飾が引き起こす認知的な操作と社会的な効果との結びつきに注目して考察を進める。


(1)装飾的パターン=<インデックス(A)→インデックス(P)>

装飾的パターンの例(図6.5/1)↓


装飾芸術においては、現実に存在する事物とは類似しない幾つかのモティーフ(装飾柄の中心となる図形)が連なってパターンをなす。我々はしばしば装飾模様を「生きているかのような(animated)」と表現する。それは、装飾模様が現実の生き物の姿を模倣しているからではなく、モチィーフの各部が相互に因果的に連関することで全体としてエージェンシーを発揮しているからである。こうした装飾模様の組成は次の関係式によって表される。


[[[インデックス(A):part]→インデックス(A):part/whole]→インデックス(A):whole]
→レシピアント(P)


あるいは以下の階層的関係式によって表される(図6.3/?)。


            Index――――――――→Resipient
              ↑
     (index)Motif―→Motif
           ・
           ・(Many steps)
           ↑
   (index)Motif―→Motif
         ↑
(index)Motif―→Motif


各モチィーフは反復と対称性を通じて増殖しパターンをなす。レシピアントにとって、これらのパターンを見ることは、モチィーフAをB、C、D、・・・と順に同一視していくという一つの認知的な運動をなすことに他ならない(p78図6.4/2参照)。


装飾模様が「生きているかのように(=animated)」見えるのは、それを認識する側の認知的な運動が、認識される側(=装飾模様)に投射されるからである。太陽が「動いている」と表現することは――実際に動いているのは観察者であっても――なんの間違いもない。「動いている太陽」も「動く模様(=animation)」も、観察という行為の作用(エフェクト)が対象の属性に置き換えられることで生み出されるものであって、空想の産物ではない。


とはいえ、何故われわれの身の回りにある多くの人工物に幾何学的な装飾が施されるのかは、まだ説明できていない。それを理解するためには、複雑な装飾模様を考察していく必要がある。というのも、装飾芸術のテロス(=目指す先)は、より複雑でより把握しにくいパターンの実現にあるからだ。


(2)「終わりのない仕事」としての複雑なパターン


精緻に作られた複雑な幾何学模様(p80図6.5/2参照)を観察するとき、我々は模様の各部が織り成す関係性を一つ二つと発見していくが、その全体を完全に理解することはできないと感じる。装飾的パターンは、その全体を認知しきるという「終わりのない仕事unifinished business」を我々に課すことによって、人々と事物のあいだの関係を繰り返し生み出す。社会的な諸力をつなぎとめる交換というシステムの本質が、双方の利害の完全な一致の実現をつねに「遅らせる」ことにあるように、人工物に施された装飾によって人間はそれを所有するという(認知的に)終わりのないプロセスの中に留まり続ける。いわば「終わりのない交換」として、装飾されたインデックスとレシピアントの生涯にわたる関係が築かれる。装飾がもつ認知的な「粘っこさ(tackiness)」によって、ヒトとモノは接着されるのである。


装飾が施されるのは、美しいパターンが人々に好まれるからではない。美学的な芸術論では、複数の人間は――もし彼らが同じ美的感覚を持っていれば――どのアート・オブジェクトに対しても同じ反応を返すと考えられている。しかし、実際にはそんなことはありえない。Lime-containerが美的な価値をもつのは、それが社会的エージェンシーを媒介する限りである。所有者の立場や地位が変化すれば、物理的には同じcontainerであっても異なる質のものへと変化してしまう。アート・オブジェクトへの美的な反応は、インデックスが媒介する所有者の社会的な地位への反応に比べれば副次的なものにすぎないのである。


(3)厄除け、迷路、死後の世界

以上では、無数のモチーフから構成される装飾模様(=インヴォルーションからなるインデックス)が、エージェシーを発揮するという例を考察してきた。しかし、装飾芸術に関しては異なるエージェンシーの形態がある。それは以下のような場合である。


[[[アーティスト(A)]→インデックス(A):part]→インデックス(A):part/whole]→インデックス(A):whole]―→レシピアント(P)


この関係式に対応する典型的な例は装飾模様による「厄除け」である。アーティストは、装飾模様を作ることで、敵であるレシピアント(通常は悪魔等であり人間ではない)に働きかける。複雑な装飾模様は、悪魔を魅了し、罠にかけ、無力化する。


果てしなく続く無数のパターンが織り成す装飾模様は他にも様々なエージェンシーを媒介する。例えば、南インドでみられる「Kolam」(米粉で描かれる砂絵)やタトゥー、あるいは「クレタの迷路」に見られる迷路状の複雑なパターンは、認知上の「障害」を生み出す。それを観察するものは、迷路をクリアする道筋があることを知っているにもかかわらず、曲がりくねった道筋を苦心して目で追うことなしにそれに到達することはできない。このため迷路はしばしば、生者の住む世界と死者の住まう世界を行き来するための、とりわけ狭い通路とみなされる。インドでは、迷路状の刺青を彫ることで死神から身を守ることができるとされる。死神はその「パズル」を解けないために、刺青を持った人物に害をなすことができないのである。Malakulaの砂絵は逆に、死後の世界へと向かう幽霊の旅路の邪魔をすると言われている。守護霊が差し出す砂絵の幾何学模様に幻惑された幽霊は永遠に死後の住処へとたどりつけず、ただ幾何学的なパターンを認知しきったもの(=迷路を解いたもの)だけが安住の地へと辿り着く。


このように、複雑な幾何学的パターンは、前に進むために乗り越えなければならない(認知的かつ社会的な)障害として現れる。それらは、美的な楽しみをもたらすものなどではなく、なんらかの課題を達成する能力に関わる認知的な仕掛けなのである。


[参考]

Kolam
クレタの迷路