『野生の思考』5章


レヴィ=ストロース 1976『野生の思考』読書ノート


第5章 範疇、元素、種、数


トーテミズムという名のもとにでたらめに一まとめにされたさまざまな信仰や慣習は、一つもしくはいくつかの社会集団と、一つもしくはいくつかの自然領域の間に実体的関係があるという考え方に基づいて成り立っているのではない。それらは、自然界や社会を一つの組織された全体として把握することを可能にするような分類図式に直接もしくは間接に結びついた他の信仰や慣習に類縁のものである。(P160)
                  ・
分類のレベルには、どれをとって見ても共通する一つの性質がある。考察の対象となる社会がどのレベルを前面に押し出そうとも、それは他のレベルを援用する可能性を許すものでなければならない。[・・・]生物種の間に見られる自然の「弁別性」は、確定的かつ直接的なモデルを思考に提供するものではなく、むしろ他の諸弁別体系への接近手段を提供するものであって、これらの他の体系がこんどははじめの体系にはねかえるのである。(P161)
                 ・
結局のところ、動植物の分類体系が他の体系より頻繁に、また好んで用いられるのは、分類形式の両極、すなわち範疇と個体のどちらからも論理的に等距離の中間的位置にあるからである。
すなわち、種という概念においては、外延の見地と内包の見地との均衡がとれているのである。一つだけを取り出して見れば、種はそれぞれ個体の集りである。ところが他の種と対比すれば、それはいくつかの定義が集まってできた一つの体系である。それだけではない。種を構成する個体の数は理論的には無限定で、それら個体の一つ一つは外延において不確定である。なぜなら個体は一つ一つがいろいろな機能の体系である生体であるから。それゆえ種という概念は内的力学をもっている。すなわち、二つの体系(定義群からなる体系と機能群からなる体系)の間に吊り下げられた集合体である種は操作媒体なのであって、それを用いることによって多数性の統一体(動植物のいろいろな種が作る自然の体系)から統一体の多様性(人間という一つの種の中の多様性)に移ることが可能になる(もしくは必要になる)のである。
                  ・
自然科学は久しく、動物界、植物界、鉱物界という「界」を問題にしてきた。それらの界は、相互に独立し、自律的で、おのおのいくつかの固有の性質によって規定され、また互いに特別の関係をもつ存在または物体によって構成されているものであった。このような考え方は、[・・・]種の概念のもつ論理的潜勢力とダイナミズムを消去するものである。
[・・・(対して)]いわゆる未開社会は、分類のさまざまなレベルの間に溝がありうるとは考えない。各レベルをそれぞれ連続的移行の一段階、一時期とみなしている。


Ex:オセージ族

・各半族が7氏族で成り立つ
・一方の半族は二つの亜半族に分かれる、他方は均一。
・「上」ないし「天」の半族が単純な形を示し「下」ないし「地」の半族が複雑な形を取る
・もっとも単純で主要で論理的潜勢力をもつ対立は、
 Tsi-zhu(天)とHon-ga(地)の二半族の対立。
         →本来のHon-ga(陸)とWa-zha-zhe(水)に分けられる。

↓これらの論理的前提をもとにつくり上げられる複雑な文法↓

諸分野との対応
・方位:
イニシエーション用の小屋では、
天と地は北と南として対立し、
陸と水は東と西として対立する。
・数字:
 六は天の半族に、七は地の半族に属する。
 その和13は、
 宇宙論的には朝日(=半太陽)の光線の数であり、
 社会的には、完全な戦士(=半人)が自分の勲功として数えるべき手柄の数。
・左右:(La Flescheによる報告)
地の半族はつねに人間もしくは動物の右側を、天の半族はつねに左側を代表する。
 靴を履くとき、前者は右から、後者は左から履く。

諸分野間の統一
・13という数字は緒次元における非対称、
↑      二つの社会集団(半族)、右と左、南と北、夏と冬etcを統一する。
:あらゆる生命の源泉として崇められる朝日の光線の数になぞらえる
・朝日をみようとして東を向けば、南(=地の半族)が右側、北(=天の半族)が左側にくることになる。
→ところが→天体に関するものであることから太陽の象徴性はとくに天の半族を結びつく。そこで地の半族の下位集団のために13という数字について別の具体的特性が考案される。
→熊の足跡13は「陸」に属する諸氏族の、柳13本は「水」の諸氏族の手柄を表す。
↓さらに↓
三つの自然元素によるコード化(天の13、陸の13、水の13)に種によるコード化が加わる。二つの半族はそれぞれ6種と7種の「動物」からなるが、その一つ一つに相手が現れて数は二倍となり、この体系のもっとも具体的レベル(=種)の単位数は26になる。

                   ・
われわれの考察した諸レベルの中で、種のレベルはもっとも特殊化されたものではあるが、それでも、体系の極限ないし終点となるものではない。体系は静止することなく、いろいろな面で新たな分解と再構を繰り返していく。
↓↓
氏族はそれぞれ「生命のシンボル」としてトーテムをもち、その名を氏族の名として使っている。各氏族は弁別的差異によって他と区別をつけて規定される。
↓ところが↓
区別のための種の選択はあらゆる種に共通と想定された普遍的性質の体系に基づいている。
(cf:p175典礼文)動物のそれぞれは、ある対応の法則(ex鼻面=嘴)にしたがって、部分に分解され、つぎに等価の諸部分が集められ、さらに全部が、炭の部分の存在という同一の関与性質によって一つにまとめられる。(cf:p176図)
                  ・
範疇から元素へ、元素から種へと移るための分析の手続きは、このように延長されて、それぞれの種の理念上の解体というべきものに至り、それが別の面で全体を再構成してゆく。

                 ・・
これによってわかるように、動物、「トーテム」、ないしその「種」は、いかなる場合にも生物学的実体としてはとらえらえていない。生物体のもつ二重性―ひとつの体系であるとともに、体系の中の一要素でもある種に属する一個体でもあるということ―によって、動物はいろいろな可能性をもつ概念の道具となっているのであり、それを用いることによって共時態と通時態、具体と抽象、自然と文化の間に位置するいかなる分野をも解体したり再統合したりすることが可能になるのである。

                   ・・・

中間的分類単元(中間的であるがゆえにもっとも効率が高く、またもっとも頻繁に使用される分類単元)である種のレベルは、その網目を広げて上方へ、すなわち元素、範疇、数の方へ向かうこともできるし、また網目を細かくして固有名詞の方に向かうこともできる。
この上下二方向への運動によって生まれた網目が、これまた各レベルで分割される。これらの諸レベルおよびその分枝を記号化する方法がたとえば名称、服装の差異、身体描画や入墨、挙措振舞、特権と禁忌、と、多数存在するからである。こうして各体系は、水平軸と垂直軸の二軸を基準にして規定されることになる。
↓そして↓
この二軸は、ソシュールの統合関係と連合関係 の区別にある程度まで対応する。しかし言語の場合とは異なり、「トーテム的」思考は神話的思考や詩的思考とつぎの共通点をもつ。すなわち[・・・]等価の原則が前期の二面のどちらにも作用するのである。
↓つまり↓
社会集団は、コード化に際し、メッセージの内容を変更することなしに、いろいろな語彙要素を用いることができる。「上/下」という範疇の対立の形でも、「天/地」という元素の対立の形でも、「鷲/熊」という生物種の対立の形でもよい。またメッセージの伝達についても同様で、社会集団は、名称、紋章、挙措振舞、禁忌などいくるもの統辞手段の中から選択することができ、それらを単独で、もしくは組合せて用いるのである。
                  ・
それが大変な仕事でなかったら、これらの分類法の分類を企ててもよいところである。(以下、アイディア列挙)しかしそれを実行するのは現時点では困難なので、ここでは私が便宜上、トーテム操作媒体と呼ぶもののごく簡単な特性に話を戻すことにしよう。

トーテム操作媒体(p181図参照)
*この図は種のレベルから始めているから組織体のごく一部を対象にしたもの。
*種や体の部分の数などを便宜上3つに限っておく。

1.種はまずその経験的実現すなわち<あざらし><くま><わし>という種を受け入れる。
2.これらの種にはそれぞれ一群の個体、あざらし1,2,3,…、くま1,2,3,…、わし1,2,3,…が含まれる。
3.それぞれの個体は、頭、顎、足、などの部分に分解される。
4.それらの部分が種ごとにまとめられる(あざらしの頭すべて、あざらしの顎すべて、あざらしの足すべて・・・)。
5.それらを一緒にして、(全ての動物の)体の部分の類型にまとめる(頭のすべて、顎のすべて、足すべて)。
6.最後にそれらをまとめると個体のモデルが完全にもと通り一体化した姿で再構成される。

こうして、全体としては一種の概念操作装置が構成されるのであって、それを用いて多数性から単一性が、単一性から多数性が、同一性から多様性が、多様性から同一性が濾過されるのである。この装置は、中間のレベルでは理論的に無限の外延をもっているが、その両極点においては純粋な内包に集約(もしくは展開)される。ただし両側の形は対称で、しかも一種のねじれを生じる。
               ・・・

セヌファ族の加入儀礼
 新加入者に一定の順序で見せる58の人形は、動物もしくは人物を表し、同時に行動類型を象徴したりする。すなわちそれぞれが一つの種もしくは一つのクラスに対応する。

「先輩たちは新加入者にいくつかの物品を見せる。・・・・ときには非常に長くなるこの目録は、いわばシンボルの辞典であって、いろいろ可能なその配列様式が示されるのである。」
(Bochet,p.76)

このように、この種の体系においては、観念とイメージの間に、また文法と語彙の間に、恒常的な転換があり、それはどちらの方向にも行われる。
↓しかし↓
私が何度も強調してきたこの現象には、一つ問題点がある。

このような体系ではあらゆるレベルに有縁性がある、という公準を立ててよいのだろうか
:この体系は、イメージが観念に、語彙が文法に、恒常的に厳密な結びつきをもっている真の体系なのだろうか?むしろ、具体的なレベル、すなわちイメージと語彙のレベルには、いくつかの偶然性、恣意性が含まれており、そのため全体の体系性を疑問としうることを認めるべきではないか?

これらに答えようとすると一つの難問にぶつかる。
一貫性をもち分節された体系を形成しているとされる社会は、同時にまた生きている人間の集団なのである。[・・・]このような社会にあっては、共時態(体系)と通時態(歴史)の争いは恒常的に繰り返され、その結果は通時態がいつも勝利するように思われる。
↓換言すれば↓
具体的集団の方に下れば下るほど、恣意的な区別や名称に出会うことが多くなると予想するべきである。それらの区別や名称は何よりまず偶然の事件や出来事(通時態)によって説明されるもので論理的手続ではどうにもならない。

言語学者はずっと昔からこの問題を知っており、ソシュールはそれを明快に解決している。

記号の恣意性という非合理的原則が無制限に適用されるとすれば、「複雑きわまりないものができてしまうであろう。ところが人間の知性は記号の集合体のあるいくつかの部分に秩序と規則性の原則をうまく導入しているのである。まさにそれが相対的有縁性の役割である。」(Saussure、p183小林英夫訳)
したがって、ソシュールにとっては、言語は恣意性から有縁性に向かうものであった。それに対し、我々が考察してきた対象は、有縁性から恣意性に向かうのである。概念図式は、外から持って来た要素を導入するために、つねにねじまげれられ、しばしば修正される。時には新要素が図式の中に入り込めなくて、体系の働きが狂ったり一時的に停止する。→歴史と体系の間の絶えざる争闘。Ex:p188〜190.
                  ・
伝統的解釈を保ちつづけることがもはや不可能となると、新しい解釈が作り上げられる。新しい解釈も昔のものと同様に有縁性と図式をもとに考えだされるのである。
                  ・
恣意性と有縁性が二律背反を構成する危険性は、体系のもつ論理的活力によって乗り越えられる。二項対立の展開によって、恣意的面が分類的体系の性質を損なうことなしに、合理的面(有縁的面)に付け加わる。
→[分類体系の樹木]
:有縁性の幹は恣意性の枝の展開に即して力のバランスを取る。
:その全体の分布は、細胞の遺伝子に書き込まれた設計図がだんだんスケールを小さくして反復適用された結果だといっても、統計論的変動の結果だといっても、どちらでもよい。その視造は出発点では可知的なものであるけれでも、分岐にしたがって無活動に至る。
もとの性質がひっくり変えることはないけれども、構造は多様な事件の影響を受ける。しかし、それらの事件が起こったところで、遅い段階になってからでは、観察者が構造の性質をみきわめ、種類わけする作業にとっては障害とはならないのである。
                   ・
分類の体系も言語の場合と同様に、恣意性と有縁性に対する位置は一定でないが、有縁性が作用しなくなることはない。南アフリカのロヴェドゥ族が言うように、「理想は自分の家に帰ることである。母の胸におれば、戻ってゆくことはけっしてないのである。」


[付録]

ジョルジュ・アガンベンホモ・サケル』p40

「言語活動の観点からすると、包含を意味と、所属を外示と同じものと見なすことができる。過剰点の定理に対応するのは、これこれの語は現勢力にあって実際に外示できる以上の意味をつねにもつという事実、意味と外示のあいだには埋められない隔たりがあるという事実である。この隔たりこそまさに、シニフィェに対してシニフィアンが構成的に過剰であるとするクロード・レヴィ-ストロースの理論において問題になっているものであり(両者のあいだにはつねに不等関係があり、これは神的な悟性によってのみ解消可能であって、このことは、実存においては、シニフィエに対するシニフィアンの過剰から帰結し、その過剰はシニフィエの上に措定されうる。)」また記号上のものと意味上のもののあいだに換言不可能な対立があるとするエミール・パンヴェニストの理論において問題になっているのもこれである。現代の思考はあらゆる領域で例外の構造に直面している。それはすなわち、ある不分明地帯を意味と外示のあいだに安定的に定めようとする企てである。その不分明地帯にあって、言語は外示対象を締め出し、外示から純粋な言語(言語の「例外状況」)へと身を退き、そうすることで外示との関係を自ら維持する。脱構築は、意味のあらゆる実行可能性に関して決定不可能なものを無限に過剰なものとして措定するが、そのときに脱構築がおこなっているのはこのことである。