「マルセル・モースの業績解題」

クロード・レヴィ・ストロース
「マルセル・モースの業績解題(『社会学と人類学』への序文)」読書ノート

*「マナ型の観念」と「浮遊するシニフィアン」に関連する箇所の抜粋


P240
マナといった型の諸概念は、あまりに頻繁にみとめられ、かつ広く分布しているので、われわれが普遍的で恒久的な思考の一形式を目の前にしているのではないかと自問するのがもっともなほどである。こうした思考の形式は、ある限られた文明や、人間精神の進化上に設定された、いわゆる古代的または半古代的「段階」を特色づけるものであるどころか、事物を前にした一定の精神状態の機能であり、だからこうした状況が与えられるごとに現れるはずのものなのだ。

<マナ型の諸概念>
Ex1
P240
モースは「素描で」、アルゴンキン族のマニトゥ(manitou)の観念にかんするタヴネ神父の意味深い評言を引用している。
「・・・それは、特にまだ共通名をもたず、なじみのない存在の全てを指示する。山椒魚についてある女の言うには、自分はそれがこわい、それはマニトゥだ、だからその名を時運に告げる者は自分をからかってそうするのだ、ということであった。交易商人の所持する真珠はマニトゥの鱗で、あのすばらしい品物、ラシャ布はその皮なのである。」

Ex2
P240
ナンビクワラ族の人々は、1915年以前には絶えて牛をみたことがなかったのだが、つねづね星を指してそうしていたように、アタス(atasu)という名で牛を指示した。この語の内包は、アルゴンキン語のマニトゥにきわめて近いのである。

Ex3
P240-241
この同一視はそれほど突飛なものではない。われわれが、未知の物(オブジェ)、あるいは使用法がよくわからない物、その効力がわれわれをびっくりさせる物を、truc(何とかいうもの)とかmachin(例のもの)とか称するとき、もとより多くの保留つきではあるが、それと同じ型のことを実行しているのだ。Machinの背後には、machine(仕掛け)があり、さらにさかのぼれば、力ないし能力という観念が控えている。Trucに関していえば、語源学者たちはその語を、器用さや偶然がものを言う遊戯における幸運な手を意味する中世の用語に由来する、としている。これはすなわち、ある者によればマナという語の起源とみなされているあのインドネシア語の用語に与えられている正確な意味の一つにほかならない。

P242
われわれがマナの意味からずっと遠ざかっているかどうか、おぼつかないものだ。相違はいたるとことで精神が無意識裡にこしらえあげているような諸観念そのものにあるのでない。むしろ、われわれの社会では、こうした緒観念が流動的で自然発生的性格をもつのに対して、他の社会においては、それらはよくよく考えられた公的解釈の諸体系を基礎づけるのに役立っていること、いいかえれば、われわれ自身が科学にとっておく役割をそれが果たしていることに存するのだ。

ともあれ、つねに、またいたるとことでこの類の諸観念が介入するのは、いささか代数学のもろもろの記号に似て、意味作用の不定の価値を表現するためであって、それらの観念自身は意味を欠き、したがって、どのような意味をも受容することができるのである。そしてこの意味作用の不定の価値の比類ない機能は、意味作用部と意味内容部との偏差をうめること、あるいはよりいっそう正確に言えば、かくかくの環境、かくかくの機会において、またその種の観念のかくかくの発顕において、意味作用部と意味内容部との間に不適合の関係が樹立され、以前の両者の相補的関係が損なわれている事実について合図することである。

*注意:マナ型の観念の作用は恣意的(いつでもどこまで機能するわけ)ではない。それは、「事物を前にした一定の精神状態の機能」であり、「だからこうした状況が与えられるごとに現れるはずのもの」である。「こうした状況」とは「意味作用部と意味内容部との間に不適合の関係が樹立され、以前の両者の相補的関係が損なわれている」「かくかくの環境、かくかくの機会」に相当する。

<モース批判を介したデュルケム(秩序の基盤としての集団的感情)批判>
P243
こうして、われわれは、モースがマナの観念をある種のアプリオリな綜合判断の基礎として援用した方途に酷似する立場にあるのだ。しかし、彼がマナの観念の起源を、それを基礎として構成される諸関係とは別の秩序の事象に探し求めるにいたって、われわれは彼の立場に合流することを拒否する。彼の探求する秩序は、感情、意思、および信念といったものだが、しかしそれらは、社会学的解明の観点からは付随現象なり神秘なりにほかならず、いずれにせよ探求の領域外の諸対象なのである。思うにかくも豊かで深い洞察にみち、裨益するとことの多い探求が、急旋回してがっかりさせるような結論に帰着してしまう理由がここにある。つまるところ、マナは、「あるいは宿命的かつ普遍的にか、あるいは偶然にか、いずれにせよ、多くの場合恣意的に選ばれた一定の事物に対して形成される社会的感情の表現」にすぎないことになろう。しかしながら、感情、宿命、偶然、恣意といった観念は科学的な観念ではない。それらは人の解明しようとする現象に光を投じるのではなく、それらが当の現象に属するのだ。それゆえ、少なくとも一つの事例において、マナの観念が秘かな能力、神秘的という諸性格を呈することがわかる。すなわち、これらの性格を、デュルケムとモースの二人がマナの属性として与えたのだった。いわば彼ら自身の体系のなかでマナの観念がはたす役割が、そのようなものなのである。
P244
社会的事象(レアリテ)、未開人にせよ人がそれについて抱く考え方に還元しようとするものならば、それは社会学の滅亡であろう。

<マナとハウ>
P244
モースが交換についてわれわれに形成するよう促している概念を、マナの観念に遡及して投影したとすれば、いったいどのような結果にいたるだろうか。ハウと同じように、マナが、知覚されない一つの全体性の要求を主観的に反映するものにほかならないことを認めなければならないだろう。
交換は、贈与、受容、返礼という3つの義務から、感情的かつ神秘的なセメントを援用して構成された複合的な建造物ではない。それはシンボル的思考に対して、またそれによって、直接的に与えられる綜合なのである。そしてこの綜合は、他のすべてのコミュニケーションの形態においてと同様、交換においても、この交換に内在する矛盾、
P245
すなわち事物を、一方で、自己と他者との関係の下で知覚し、しかし同時に他方で、本性上両者の片方から他方へ移項するよう定められている要素―そのような対話の要素として知覚するという矛盾を止揚するのだ。もろもろの事物が対話のどちらかの要素に属すかが、その初次的な関係的性格との関連で派生する状況となって現れる。
しかしそれは呪術にとって同じことではないだろうか。雲や雨を喚ぶために煙をたてる、という行為に含意される呪術的判断は、煙と雲の原初的区別を基礎にして、それらを互いに接合するためマナに訴えるというのではない。そうではなく、思考のもっと深い平面で煙と雲とが同一視されているという事実、少なくとも、ある関係のもとで両者が同一の事物であるという事実にもとづくのだ。この同一視が、後続するもろもろの連想を正当化しているのであって、その逆ではない。
すべての呪術的作用は、ある単一性(ユニティ)の復権に拠っている。そして、この単一性は、失われてはいないが、(というのも、何もけっして失われないからだ)、無意識なのであり、あるいはそうした作用ほどには完全に意識的ではないのである。マナの観念は実在の秩序に属するのではなく、思考の秩序に属するのだ。

P244
シンボル的思考のこうした関係的性格のなかにこそ、われわれは問題の解答を探求しうるのだ。言語が動物的生活の段階で出現したとき、その契機や状況がどうだったにせよ、言語は一挙にしか生まれえなかった。事物が漸次的に意味するようになったことなどはありえない。ある変換―その研究は社会科学ではなく生物学や心理学に依存する―に引き続いて、何ものも意味をもたなかった段階からすべてのものが意味を所有した段階への移行が成った。ところで、みたところ月並みなこの注記は重要である。というのも、この根本的変化は、ゆっくりと漸進的に仕上げられる認識という領域には、それに匹敵するものをもたないからである。言い換えれば、<全宇宙>が一挙に意味作用をなすようになった瞬間に、だからといってそれがよりよく認識されたわけではないのだ。たとえ言語の出現が認識の発展のリズムを早めたはずだとしても。したがって、人間精神の歴史上、不連続性の性格を呈するシンボル作用と、連続性で特徴付けられる認識との間には、基本的な対立がある。
このことからどのような結果が生じるか。一つには、意味作用部と意味内容部という二つのカテゴリーは、あたかも二個の嵌め込み式の積み木のように、同時にかつ相連繋しつつ構成されるということである。にもかかわらず、認識―つまり意味作用部のある側面と意味内容部のある側面を互いに同定すること(意味作用部と意味内容部のそれぞれの総体のなかで、もっとも満足のゆく相互の適合的な関係を提示する部分を選び出すこと、といっても過言ではないだろう)を可能にする知的過程は、ごくゆっくりでなければ進まない、ということだ。