『野生の思考』6章


クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』読書ノート


第6章 普遍化と特殊化


 歴史と体系の間に

►歴史と体系の間には二律背反性が見出されると信じる人もいるが、いままで検討してきた例には、そのような二律背反は見出し得ない。

両者の間には、移行相を形成する通時的かつ非恣意的な構造体のための場所がある。
もっとも単純な体系の例である二項対立をもとにして、その両極に新たな項を付け加えていってこの構造体はできあがる。付け加える項は、それぞれの極と対立、相関、もしくは相似の関係をもつものが選ばれる。だからといって、これらの関係は全て均質でなければならないというわけではない。

►体系の論理が、体系内に組みこまれている局部的論理の全体とあらゆる点において一致する必要はない。

 全体の論理は違った種類のものであってもよい。それは、用いられる軸の数と性質、一軸から他の軸に移る為の変換の規則、体系固有の慣性、すなわち無縁的な動因に対する、ケースごとに異なる受容性の大小によって決まる。

►トーテム分類法や関連する信仰、慣習は、この一般的な体系活動の一様式にすぎない。

体系における種操作媒体の論理効力

種操作媒体が可能にするもの:普遍化と特殊化

①普遍化:初期の集合の外にある分野へ進出すること。
EX.1:病気や薬といった限られた領域の組織化(米国南東部のンディアン、ピマ族)。
EX.2:空間の組織化(アルリジャ族、ペノブスコット族、スーダン)。
EX.3:集団外部、人間以外への拡張(オーストラリアの族際的体系、アルゴンキン族)。
②普遍化と特殊化の中間領域

►普遍化と特殊化の二つの操作は見かけほど隔たったものではなく、現地の体系の中では重ね合わせさえできる。

 場所も個人もひとしく固有名詞によって名づけられ、しかも地名と人名は互いに置き換えうることは多くの社会に見られる。

⇔地理的個別化と生物的個別化の間の対応。

EX1:アランダ族の神話(p201)。
 EX2:オーストラリア原住民(p202): 社会体を形成する諸親族を人体の部位ないし筋肉によって名づけられる5つのカテゴリーに分類。初対面の人間に対しては、対応する筋肉を動かすことによって自分の親族関係を告げる。
 
►社会的関係の全体系は、宇宙体系に連結しているうえ、また身体の面に投影され得る。

  体系に対するこの相同的特殊化の一般的関係は次のように定式化できる。

もし、(集団a):(集団b)::(種「クマ」):(種「ワシ」)
ならば(aの成員x):(bの成員y)::(クマの足l):(ワシの足m)である。

この図式は有機的社会観の問題を際立たせる。種の分類と並んで生物の形態を分類する機構が働いていて、この機構は解剖学的解体と有機的再統合の2面に作用するのだから。

►社会は対応関係の体系を抽象的に考えているだけではない。部分社会の個々の成員に、行動によって自分の個別性を示す動機を与え、ときにそれをそそのかす。

EXソーク・インディアン:理屈としては範疇対立が直接に個人の気質や適性に作用することになっていた。この作用を可能にする制度の枠組みは、個人的天命の心理面と個人命名に由来する社会面との関連性を証明する。

►►かくしてわれわれは分類法の最終レベル、個別化に到達する。

③特殊化:分類作業を、その自然限界の彼方、すなわち個別化にまで延長すること。

►体系は個体をいくつかのクラスに配分するだけではない。二分法に基づく思考によってそれは存在の固有性を表現する。

 ►固有名詞は言語学者にとって以上に、民族学者にとって問題である。
  
・第一に、固有名詞は『meaningless』であるとするミルらの主張を認めなければならないのであれば、固有名詞が体系(別の意味を表す事項に転移することによって意味を固定する手段としてのコード)の構成部分であることを明らかにすることは困難。
  ・第二に、この体系、この思考が新石器革命を引き起こす力となったと本稿では考えてきたのだが、もし具体的事物にどうしても除き得ぬ不可解性が残ったのであれば、この思考がそのような力を持ったとは考えにくい*。

*そして究極のところ具体性なるものがこの不可解性の残滓が本質的に意味作用に反抗するものであるなら、この思考が、どうして満足しえたであろうか、また具体界と有効に取り組むことがどうしてできたであろうか?二分思考に基づく思考にとっては、すべてか無かの原則はただ発見法としての価値をもつだけではない。それは存在の固有性を表現する。すべてに意味がある。さもなくば何物にも意味がない。(「すべて」と言ったが、存在の存在は例外である。それは存在の固有性ではない。本書308頁参照)

つまり、課題は
「固有名を体系によって説明すること、固有名を説明できる体系を論じること」。

民族誌における固有名詞

►本章で例にあげた社会では、ほとんどが氏族名によって固有名を作る。
 
ソーク族:氏族動物と固有名の密接な関係。
オセージ族:固有名はクランとサブクランに帰属するex熊の氏族の「背中の脂肪」。
 ツピ・カワイプ族:各氏族が名祖動物から派生した固有名を持つ。
つまり
⇔トーテム氏族と固有名は結びついている。

►個人呼称が、集団呼称と同じ体系に属することは明らか。

 集団呼称を媒介とし、変換を援用することで、個別化の地平から一般的なカテゴリーまでを移動しうる。個人が集団の部分であるように、個人名も集団呼称の「部分」である。
 集団呼称がある動物の全体で、その一部または一面が個人名に相当する。
 (ex 「熊の目」「怒れる野牛」)

►►固有名は概念的存在としての動植物の一面を表し、同時に個体としての人間の一面に対応する。
P209
   種を体の部分や態度に、また部族社会を個人や役割に、という二種類の解体過程は、しかし再統合の形の下で進められる。(5章のトーテム操作媒体の仕組みと同じ)。

►固有名が体系によって説明されうることにはいくつかの根拠がある。

カルフォルニアミウォク族(クローバーの観察)。名前は単一のトーテムの一面を指示すると想定されているものの、実際には特定しえないことが多い。
⇒固有名は、種を解体し、その一局面を取り出して作られる。しかし、抽出された局面だけを表面にだして対象となる種を不確定のままにしておくことで、局面抽出(=名づけ)は全てなんらかの共通点を持つ。多様性のなかに統一性を先取りして要求する。この観点からも固有名の名づけは体系と同じ型の手続きである。

・禁忌の体系が同じ性質を持って個人呼称と集団名称の両面に見出される。

固有名使用の禁止は、食物禁忌と類似し、(「口にしてはならない」)しばしば連動する。さらに、同じ禁忌の対象になる単語には固有名詞も普通名詞も入っている。これは、この二つの型の名詞の間には大きな差がないと考える根拠を一つ加える。
(p212同音性による単語間の禁忌の「感染」。)

►►しかし、このような命名法は西洋以外の全ての社会に見られるものではない。

 多様な命名法の分類:
① ある条件が客観的に成立するとその人間につけられる名前。
② 特定の個人が特定の個人の為につける、一時的な気分を表現する名前。
(一方はクラス、一方は個人を指すが、どちらも固有名詞であり、互換性を持つ。ルグバラ族の母親は、必要に応じて、この2種類の命名法のうちから選ぶ。)

►つまり、固有名詞は両極に二つのタイプがありその間に一連の中間的なタイプが存在する。
 一方では、名前は名づけられる個人があらかじめ定められたクラスに帰属することを確認するする。他方では、名づける個人の自由な創作で、命名者自身の主観性の一時的状態を表現する。►►したがって、人間は決して名づけてはいない。
人は、(名づけられる)他人を分類するか、(名づける)自分を分類するか、しかしていないし、多くの場合は両方を同時にやっている。固有名詞と普通名詞との関係は、命名と軌道作用との関係の問題ではない。対象が他者か自己かの別はあるけれども、いずれの場合も記号表示をしているのである。識別可能な対象を一つのクラスに分類するか、対象を分類の埒外に置き、それを自己分類の手段にして自己を表現するかの選択でしかない。

固有名詞?普通名詞?

►ウィク=ムンカン族の命名

 固有名は次のように形成され、各個人は三種の個人名を持つ。
1大名(トーテムの頭ないし上半身に由来)
2小名(同じく足ないし下半身に由来)
3へそ名(胎盤がでた瞬間に発せられていた名)

  ここに、客観性の要求と人的関係の偶然性を妥協させる人名形成法が見られる。

►分類によってクラスへの帰属を明示する名(1,2)と、偶発的な出来事によって賦与される名(3)を連結させるこのやり方は、西洋の動植物の学名から、アルゴンキン族まで広く見られる。

►►固有名詞は多次元的体系の中での位置を指定する手段である、としか定義しようがない。

EX.西洋の例:
デュポンの中のジャンと、ジャンの中のデュポン。(ジャンは固有名とはいえなくなる。)
►►このように、同一項がその位置の違いだけでクラス標識項から個人規定項の役割を果すものへと移行してしまうなら、特定の呼称が本当に固有名詞であるかを問題にするのは空しいことになる。

推移は問題になる名前の内的性質には関係がなく、それらが分類体系の中で演ずる構造的役割から生じる。名前を分類体系から切り離そうとするのは空しいことであろう。