『親族の基本構造』1章


レヴィ=ストロース親族の基本構造』読書ノート
福井和美訳 2000 青弓社


序章 第一章「自然と文化」


自然状態と社会状態の区別にかかわる原理ほど確信をもって退けられてきたものはない。しかしこの区別にはもっと価値ある解釈を受け入れる余地がある。


エリオット・スミスとペリーを開祖とする学派の理論:
人間文化の二つの水準の深い対立=ネアンデルタール人新石器時代の人類
なかでも重要なのは、
自然状態と社会状態の区別は容認できる歴史的意味は欠くが、現代社会学が当の区別を方法上の道具に用いることに正当な根拠を与える論理的価値をもつ、こと。

     人間は一個の生物であり、同時に一個の社会的個体である。
外的、内的刺激に対する人間の応答には、
人間の本性にまるまる由来するものもあれば、人間が置かれる状況に由来するものもある。
【ex】生物としての人:瞳孔反射⇔社会的個体としての人:手綱を持つ騎手の手の位置

だが、区別がいつも簡単とは限らない(【ex】子どもが暗闇で感じる恐怖心)
さらに、
いちばん多いのは、生物的源泉と社会的源泉が主体の応答に、まさに統合されるケース。
(【ex】子どもに対する母親の態度、軍事パレードを見物する人々の感情の働き)
つまり、
文化は単に生命に並置されているだけでも、単に生命に重なり合っているだけでもない。ある意味で文化は生命に取って代わりもし、別の意味では、新しい次元の総合を成し遂げるために、生命を利用したり変形したりもする。

原則的区別をつけることは簡単だが、分析に入ると二つの可能性を前に困惑が生じる。

鄯個々の態度についてその原因が生物次元にあるか社会次元にあるかを決めていく
(もしくは、)
鄱文化的起源をもつ態度がいかに生物的起源をもつ行動に接ぎ木されているかを追求する。
(この二者の選択を前に困惑が生じる。)
どこで自然は終り、どこで文化は始まるか。この二重の問い(鄯、鄱)に答える方法は、いくつか考えられるが、いままでのところ、いずれの方法も期待を裏切ってきた。

【ex】
①新生児の反応
得られる成果は断片的で限定的。特定の時点である反応が現れないのは、その反応が文化に発するからなのか、反応の出現を条件づける心理機構がまだできていないからなのか、一概にはいえない。

②「野生児」の事例
  こうした子ども達の多くが先天的不適応児であり、捨てられたから知能が劣ったのではなくその逆である。またブルーメンバッハによると、人間は自分で自分を飼いならした動物であり、家畜とちがって孤立した個体が帰っていける種本来の習性などない。

「野生児」は文化的な怪物でこそあれ、文化以前の状態の忠実な証人ではありえない。では動物生活の高度な水準において文化の前兆を認めることはできるだろうか。↓

③昆虫などの社会形態
  こうした社会例においてこそ、本能や、遺伝を介した伝達など、紛れもない自然の属性がまとまって見出せる。動物社会のような集団的構造物には、普遍的文化モデルさえ入りこむ余地はない。

④大型ザルの研究
  単語の分節や、相互関係、宗教的感情など普遍的文化モデルの基本的構成の兆候を見出すことはできる。しかし、それらの兆候は原初的な現れの域を決してでない。さらに、サル達の社会生活には、明確な規範を形成する準備が全く整っていない。
大型ザルはすでに種としての行動から離れるだけの力はあるが、代わりに新しい平面でなんらかの規範をつくるところまではいけないようだ。自然が去ったあとには更地しかない。

要するに、
文化を前提とするもの、つまり制度的規則について、その起源を自然の中に求めることがそもそも推論間違いを含む。恒常性と規則性は自然にも文化にもあるが、ただ文化の内部でそれが現れる領域(=外在的伝統)は自然の中では微弱にしか現れず、自然の中でそれが現れる領域(=生物学的遺伝)は文化では微弱にしか現れない。
自然と文化が連続しているという誤った見かけに、二つの次元の対立地点を見出すことはできない。


結局、
いかなる実証的分析も自然と文化の間の移行点を、またそれらの結合の仕組みをつかませてくれない。しかしこれらの議論から一つの積極的な結論をひきだせる。
つまり
本能による決定を免れている行動のなかに規則があるかないかをもって、社会的態度を判別できる。その場に規則が現れるなら文化がある。反対に、自然の判別基準は普遍的なものの中に認められる。全ての人間に共通する恒常的なものは必然的に、習俗など人間集団の相違と対立を形作るものの領域外にあるからである。

理論的分析の原理=<文化:規範>/<自然:普遍>

人間のもとにある普遍的なものは、なんであれ自然の次元にあり、自然発生を特徴とする。規範に拘束されるものはなんであれ文化に属し、相対的・個別的なものの属性を示す。規範に拘束されるものはなんであれ文化に属し、相対的・個別的なものの属性を示す。

こう仮定するなら、ひとまとまりの事実がゆゆしき事態として現れてくる。

インセスト禁忌である。
  自然と文化という相容れない二つの次元に属す矛盾し合う属性を規範および普遍性に認めるとき、インセスト禁忌はこの二つの性格を合わせもつものとして現れる。各集団において異なる多様な規則としてインセスト禁忌はあらわれるが、しかしいかなる社会集団にも必ずこの禁止が存在する。いかなる婚姻型も禁忌とされない集団は存在しない。

自然現象のもつ特徴的性格と文化事象のもつ‐理論的には前者の性格と矛盾する‐特徴を同時に示す現象がここにある。インセスト禁忌は、性的であり本能でもあるという普遍性も、法であり制度であるという強制的性格も併せ持つ。

ではインセスト禁忌はどこからくるのか。