『野生の思考』7章


クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』読書ノート


7章 種としての個体


固有名と分類体系

►厳密な意味で固有名と認められる名前と、一見そうではない名前の関係はいかなるものか。

Exペナン族の人名体系

£三種類の名

個人名(固有名)
  親名:誰々の父(母)
喪名:喪父、喪姪(例、祖父が死ぬとTupou、父の兄弟が死ぬとIlun)

£名前の規則

         親族の誰かの死:喪名

誕生:個人名X⇒ 兄弟の死:喪名(「喪兄(弟)」)⇒兄弟の誕生:個人名X

         子供Yの誕生:親名(Yの父(母))⇒子供の死:喪名
                          子供Zの誕生:親名(Zの父(母))

►分析(諸規則はいかに結びつくか)

この体系は3つのタイプ(自名、喪名、親名)の周期性によって規定される。
 :尊族に対しては喪名から喪名へ、兄弟に対しては自名(固有名)から喪名へ、子供に対しては親名から喪名へ移る。
►これら3つのタイプの周期性の間の論理的関係はどうなっているか?

1[自名→喪名、親名]
親名と喪名は親族関係に依拠する「関係」名であるが、自名はこの性質をもたない。
 自名は、固有名であるかぎりにおいて、一つの自己を他の自己との対比で規定する。
 親名は、固有名を含むかぎりにおいて、他の自己への関係を表現する。
 喪名は、表示されない他者と表示されない自己との関係(「他者関係」)を述べる。

2[親名→喪名、自名]

2-1親名と喪名との関係
出発点:ニーダムの着眼:西洋における未亡人(Veuve)という語の使用と喪名の類似性。
女性X    Yとの結婚:Y夫人   Yの死:Y未亡人

結婚によって彼女は自名を放棄して他の主体との関係を表現する名前をとる(親名)。
私の自己が他の自己との関係で規定されているがゆにこそ、その他者=夫を失うと、
その関係を保持したままマイナスの負号(喪名)を帯びることになる。
喪名がつけられるのは前に親名にあたる名称をもっていたからなのである。

►ペナン族の場合はどうか?

£兄弟系列

Q:兄弟の死によって喪名となった後、新たな兄弟の誕生によって自名に戻るのは何故か?
(何故、親名と同じように「某の兄」などと名乗らないのか)

A:他者関係が解消されているから
① 誕生した子の名は両親の親名に使用されており、
② 誕生によって体系全体の記号が死の音部記号から生の音部記号に移ったために
兄妹は誕生した末子によっても、死亡した兄妹によっても規定されなくなるので、
のこる唯一の方法である彼ら自身の名前に戻る。

£親名と喪名
残る問題は、
Q:親による親名の使用と、喪名中の固有名欠如が何故起こるのか?

A:死者の名は口にしないから。これだけで喪名の構造を説明するには十分である。
   ①そのため喪名は関係(の消失)を提示するのみで(死者の)名を欠いており
②子の誕生は親を死者とするから。誕生は加入ではなく交代。
(Ex:ティウイ族、擬娩)
►この分析から引き出せる結論は

鄯固有名は独立した範疇を構成するものではなく、
他の名前と構造的関係によって結びつき一群を形成する。
鄴この体系のなかで固有名は従属的位置を占めるにすぎない。

 固有名は論理的に低い評価。それはクラス外の人間の印である。
固有名の使用は、将来クラスに「入る」べき人間の一時的な義務(自名にもどる兄弟)、
あるいはクラス外の人間との関係によって自らを規定する(両親が親名を持つとき)立場にあること、の印である。
一方で、
喪名は論理的に絶対優先。
誰かが死ぬと社会組織に空隙ができるとクラス外の人間は生気を与えられる。
彼は、単なる順番待ちの印にすぎない固有名に変えて体系の中の位置付けを得る。
                  

外部(死と誕生)と内部(人名体系)の均衡

►では死者の名の禁忌をいかに説明すべきか

 それは信仰の結果ではなく原因。命名体系の構造的特性の一つ。

固有名は最も低いレベルでクラスになる(極端な場合にはクラス外:ペナン族)。

£新加入者すなわち生まれてくる子供だけが問題。

これらの体系は個別化を一つの分類とみなすが、新しいメンバーが加わるごとに構造があらためて問題になる。

£二つの型の解決方法
 ①位置のクラスからなる構造:人口よりも多めの固有名を予備的につくっておく。
②関係のクラスからなる構造:死者と生者の関係の把握によって出入を統合する。
                →ないし潜在的な死者=親名をもつ親
                
►かような次第で、死者の名の禁忌はそれだけを切り離してあつかえない。

£死者が名を失うのは、ペナン族において
① 生者が体系に入るに際し、名を失い喪名になることや
② 親名を使うことで定数外の人間の出産によって生じた問題を解決すること、
と同じ。

はじめに体系外にあった人間とあらたに体系外に出る人間は同一視されて、
体系を構成する諸関係のクラスの一つにおさまる⇒体系の均衡維持

►名前を大事にし固定する社会も、人が死ぬごとに始末し新しくつくる社会もある。

両者は体系の恒常的特性の二面を表すものにすぎない。
どの社会も連続的な世代の流れに非連続的な格子を押し当てることで構造の型をつける。
違いは、固有名の体系が、濾過装置の最も細かな編目として組みこまれているか、
装置の外におかれて連続体を個別化することで分類の前提条件たる非連続性を設定する機能は保持しているか、のどちらか(クラスの底辺ないしクラス外という個別化)の選択でしかない。

西洋の分類体系

p245〜250 フランスの動物命名

鳥:鳥社会と人間社会の類似(隠喩的)。人間の名の一群から選び名付ける(換喩的命名)。
犬:人間社会に従属している(換喩的)。芝居の登場人物の名をつける(隠喩的命名)。
↑種の間(人と動物)の関係が隠喩的なら換喩的な命名が行われる、その逆もまた。
牛:人間社会に客体として従属(換喩的)。修飾形容詞から名をつける(換喩的命名)。
馬:(競走馬)人間社会に属さない非社会(隠喩的)。言説からの非描写的な単語の抜き出し(隠喩的命名法)。


*<命名系図


  社会的(範列集合) 非社会的(統合連鎖) 
      |          |
隠喩――鳥――――――馬―(負の隠喩:肯定的ではなく否定的)
      |          |
      |          |
      |          | 
換喩――犬――――――牛――(負の換喩:主体ではなく客体)
      |          | 

上図の説明:
横方向では、上の線が隠喩関係に対応し、それは+と−にわかれる。人類社会と鳥社会の間は正の隠喩関係、人間でできた社会と馬の対立社会との間は負の隠喩関係をなす。下の線は人間社会と犬・牛との換喩的関係に対応する。犬は人間社会の主体的成員であり、牛のほうは客体的(モノに近い)成員である。
縦方向では、左側の欄は社会生活に関係をもつ鳥と犬を結びつける。鳥のもつ関係は隠喩的であり、犬のもつ関係は換喩的である。右側の欄は、社会生活に無関係な馬と牛をつなぐ。
  さらに斜め方向の2軸が加えられる。鳥と牛につけられる名は換喩的抽出(一方は範列集合、他方は統合連鎖の)でできているが、犬と馬の名は隠喩的再生(一方は範列集合の他方は統合連鎖の)で作られる。こうして一貫性のある体系ができあがっており、心理・社会学的差異の体系の言語による等価物が呼称の面に見出される。

►このささいな慣習の分析が示すもの
 ①固有名詞の性質をより一般性を持って捉えることの可能性。
民族誌の対象となる慣習から謎にみちた我々自身の慣習の解読可能性が見えてくる。

Exティウイ族の事例
  Q:誰かが死ぬと、その人の持っていた、あるいはつけた固有名は禁忌の対象とされる。
   では、いかに新しく名を生み出し、体系を維持するのか?

  A:固有名詞の禁忌を普通名詞に感染させる。その普通名詞は日用言語(統合的連鎖)から追放され、神聖言語(範列集合)に移り、それに接尾語を付すことで新たに固有名詞が形成される。

►ティウイ族とフランスの動物命名の類似は
  体系が、(日常言語の)統合連鎖と(単語が意味をうしない統合連鎖を作る力を失っていく神聖言語においてはその本性として現れる)範列集合との間の調停に基づいている、こと。=隠喩的関係と換喩的関係との間の等価性。固有名詞は音声上の(正の)類似性の働きで普通名詞に換喩的に結ばれるが、神聖言語の単語は、意味内容の欠如もしくは貧困に基づく負の類似性の働きによって、固有名詞に換喩的に結合する。
補足例:ティウイ族における固有名の変換とフランスにおける花の名の変換
・ティウィ:固有名詞の禁忌→普通名詞への感染→普通名詞の神聖言語化
→神聖言語+接尾語→新たな固有名詞
・西洋:日用言語(バラ=rose)→固有名詞(女性の名Rose)
→「神聖」言語(新たな品種名Princesse Margaret=Rose)
→日用語(一品種としての普通名Princesse Margaret=Rose)

種としての個体

►固有名詞と種名とは同一群に属していて、二つの間には本質的な差異はない。

ただし具体的な現れ方は多様。種の観念と個体の観念は社会学的かつ相対的。

人間は生物学的にみれば同一種に属す。個々の人間は一本の木に咲いた花々のひとつであり、任意の動植物の種の成員に較べられる。
しかし、社会生活による体系の変換がなされる。
このとき、個性とは、「単一個体」的観念であり、一人一人独自の種としてある。

►この観点からみれば
 トーテミスムとは普遍的な分類様式であり、西洋ではそれが人間化(個人化)されているだけである。個性=自分のトーテム。

►固有名詞は全体的分類体系の周縁部をなす。
 それは体系の延長であり限界である。
  名詞がどれだけ「固有性」をもつかは、名詞の内的性質からは決定されず、他の単語との比較からは決められない、それは社会が分類作業をいつ打ち切るかで決まる。
固有名詞は常に分類の側にとどまり、その下のレベルではもはや指示するしかない。

►パースとラッセルの誤り

パース:「指標」としての固有名詞。ラッセル:指示代名詞としての固有名詞。
両者は意味行為から指示行為に移行する連続体の中に命名行為を位置付けた。
しかし、この移行は非連続的なものであることを私は明らかにした、つもりである。
もっともその限界線の決め方は文化によって異なるものだけれども。