メモ(構成的規則とタブー)


浜本の議論とサールの議論の違いは↓


サール:「YするにはXせねばならない」→「Xすることをもって、Yすることとする」
浜本:「Xしてはならない」→「XすることはYすることである」


以前のエントリーからの抜粋。

浜本はサールの構成的規則論を援用しつつ、分析を進める。通常の規則(規制的規則)はある行為を対象としてそれに規制を加えるものであり、行為は規制に先行して存在する。例えば、「道路の右側を走行してはならない」という規制があろうとなかろうと道路の右側を走行することはできる。規制とは独立に規制される対象を特定することは不可能である。例えば「結婚するに際しては婚姻届を提出せねばならない」という規則においては、この規則そのものが結婚するという行為を定義している。この時「YするにはXせねばならない」という規則の表現は、容易に「Xすることをもって、Yすることとする」という別の表現に置き換わる。夫は水甕を動かしてはならないという規則も、「妻を引き抜く」という行為を定義しているのが当の禁止規則であるという点で構成的規則である。婚姻届を出すこと(X)をもって結婚すること(Y)とされるように、水甕を動かす(X)ことをもって妻を引き抜くこと(Y)とされるのである[参照→浜本2001:117]。

以前書いたボツ論文からの抜粋 このポイントについてはいずれきちんと展開したい。

サールは通常の規則を統制的規則(regulative rule)と呼び、それとは異なる規則の有様を指すものとして構成的規則(constructive rule)という概念を提示した。統制的規則が、その規則とは独立に存在している行為を統制するのに対して、構成的規則は成立の如何そのものがその規則に論理的に依存している行為を構成し、または規制する(Searle, 1969=1986:58)。例えば、車は道路の右側を走行してはならないという規則は統制的規則である。何故なら、この規則において、それが規制する「道路の右側を車で走行する」という行為はこの規則が存在するか否かとは無関係に特定できるからである。一方、「チェックメイトがなされるのは、キングがどこに動いても攻撃を免れないような仕方で攻撃されたときである」というチェスをめぐる規則は構成的規則である。何故ならこの場合、「チェックメイト」という行為自体がこの規則によって定義されているからである。つまり、統制的規則が、「Xせよ」あるいは「YならばXをせよ」という形式をとるのに対して、構成的規則は、「XをYとみなす」という形式をとるのである(Searle, 前掲書:58)。

構成的規則を主に行為の定義という側面から捉えるサールに対して、浜本は定義であると同時に規制でもあるというその両義に注目する。つまり、構成的規則においては、「『YするにはXせねばならない』あるいは『Yしないためには、Xしてはならない』という規則の表現は、容易に『XすることをもってYすることとする』という別の表現に言い換えられる」(浜本,2001,117頁)。浜本の論じる構成的規則は、規制と定義の両方を伴っている点で、後者を主とするサールの構成的規則論とは異なる。しかし、サールの提示している例においても、浜本の主張は有効である。つまり、「チェックメイトがなされるのは、キングがどこに動いても攻撃を免れないような仕方で攻撃されたときである」という規則の表現は、「チェックメイトするためには、キングがどこに動いても攻撃を免れないような仕方で攻撃しなければならない」という規則の表現に置き換えられる。
 浜本はこの置き換えによって、サールの構成的規則論にはない主張をそこから引き出してくる。つまり、構成的規則が規制と定義の両方を伴って成立している場合、何故その規制に従うべきなのかの根拠が問えなくなるのである。「どうしてYするためにXしなければならないのか」あるいは「どうしてYしないためにXしてはならないのか」という問いには、「なぜならXすることがYすることだからだ」という答えが返ってくる。例えば、「どうして結婚するためには婚姻届を出さなければならないのか」という問いには、「なぜなら婚姻届を出すことが結婚することだからだ」という答えが返ってくるのである。つまり、構成的規則として把握できる様々な実践においては、「当の実践が自分自身を自らの存在の根拠として持ち出してくる」という構図が見て取れるのである(浜本,2001,117頁)*浜本2001=『秩序の方法』。

以前から関連があるような気がしていた文章をようやく先日確認できたのでメモしておく。しかし関連あるのかなぁ?
↓ジョルジュ・アガンベン『残りの時 パウロ講義』p164〜166から抜粋

トゥルベツコイにおける欠如的対置という概念は、二つの項のうちの一方はある一つのマークの存在によって特徴づけられ、他方はその欠如によって特徴づけられるといったような対置関係を定義したものである。ここで前提となっているのは、マークされていない項はマークされた項にたいして、現在しないもの(無)が現在するものにたいするように単純に対置されるのではなくて、現在しないものはなんらかの仕方において現在するものの零度に相当するということ(すなわち、現在するものはその不在において「欠如している」ということ)である。このことはトゥルベツコイによれば、対置関係が中立化されるときには――ここでトゥルベツコイは止揚(Aufhebung)という語を用いているが、これは偶然のことではないのであって、その語はヘーゲルの『論理学』においては、まさに対立物の統一を意味しているのである――、マークされた項は価値を失い、マークされていない項がもっぱら価値あるものとして残って、元音素、すなわち二つの項に共通する識別特徴の総体を代表したものとしての役割を引き受ける、その事実において明らかにされるという。すなわち、止揚においては、マークされていない項は――記号の欠如の記号であるかぎりで――、元音素、シニフィアン・ゼロとして妥当し、対置関係は取り去られると同時に差異の零度として保存されるのである

1957年、レヴィ=ストロースは、これらの概念をシニフィエにたいするシニフィアンの構造的過剰の理論として展開した。この理論によれば、意味作用とは本来それを詰め込むことのできるシニフィエ群に対して過剰なものであり、ここから、それ自体においては意味をもたず、その唯一の機能はシニフィアンシニフィエの格差を表現することであるような、自由なシニフィアンあるいは浮遊するシニフィアンの存在が要請されることとなる。それは非記号、あるいは無為(désoeuvrement)の状態にある記号なのであって、「零象徴価として、たんに代補的な象徴内容の必要性を表現しているにすぎない」(Levy-Strauss, L)のであり、なんらかの個別的なシニフィエを随伴することのないまま、意味作用の不在に抗するのである。