9.恣意性を廃棄せよ


前節では、浜本の議論が「恣意性」という結論をどこかで前提にしていることが問題なのではないかと指摘した。しかし、その指摘は印象論に留まっている。ここでは、「恣意性」という結論の問題点を、異なる視点から明らかにする。


浜本の議論は、次のような対話によって「呪術的」知識のあり方を説明するものである。ドゥルマのやりかたを全く理解できない読者に対して、浜本はドゥルマの人々に成り代わって説明していく。それは、質問好きのドゥルマの子供とその親の対話に比せられるものである*1


1.ドゥルマの子供(A)と親(B)の会話


B:結婚したら台所の水甕を動かしてはいけないよ。
A:何故水甕を動かしてはならないの?
B:それは奥さんを引き抜くことだからだ。
A:なんで奥さんを引き抜いちゃいけないの?
B:そんなことをしたら奥さんが死んでしまうからだよ。
A:なんで引き抜いたら奥さんは死んじゃうの?
B:奥さんはおうちに据え置かれていなきゃいけない存在なのだよ。引き抜かれたものはそこでは生きていけないから、奥さんはおうちをでていかないかぎり死んでしまうのだよ。(構造的隠喩の論理性)

A:それはいやだなぁ。でも「奥さんを引き抜く」ってそもそもどういうことなの?
B:水甕を動かすことだよ。(構成的規則性)
A:よく分からないよ。結局、なんで水甕を動かすと奥さんを引き抜くことになるの?
B:水甕は土器の壷だ。例えば土器の壷を叩き割ったらその人の母さんとこのクランのみんなが死んでしまう。水甕ってのはある意味で女の人そのものなんだよ。(記号間の有縁性)

A:でもお隣の水甕は土器壷じゃなくてプラスチックの容器つかってるじゃん。よく分からないよ。結局、なんで水甕を動かすと奥さんを引き抜くことになるのさ?
B:水甕を動かすことが、奥さんを引き抜くことだからだよ。
A:なんで?
B:なんでもっ!もういいからあっちいきなさい。。(構成的規則の<無根拠=必然>性)


乱暴に言ってしまえば浜本の主張は、「水甕を動かすことは妻を死においやることだ」という言明がドゥルマにおいて世界の秩序についての当たり前の知識の一部になっているのは、みんながその根拠を問われたら上記の親のように言うことで自分や他人を説得できるからだ、というものだ。この親の言い分は、<構造的隠喩の論理性>、<記号間の有縁性>、<構成的規則の無根拠=必然性>をフルに活用したものであり、これらが「水甕を動かすことは妻を死においやることだ」という言明を現実的なものにしていると浜本は主張しているのだから。しかし、本当にそうなのだろうか。むしろ、この言明は、別の理由によって世界の秩序についての当たり前の知識の一部になっているのであり、その結果として、みんながその根拠を問われたら上記の親のように言うしかなくなっているのではないだろうか。浜本は原因と結果を取り違えているのではないだろうか。
より慎重に言えば、浜本の議論は、これらの知識形態がある種の現実性の現れ方であることを解明したとは言えても、その現実性を生み出しているものが何かについては全く説明できていないのではないだろうか。


この点については、次の例と比較するとわかりやすい。


2.日本の子供(A)と親(B)の会話


A:何故ママとセックスしちゃいけないの?
B:それは近親相姦だからよ。
A:なんで近親相姦しちゃいけないの?
B:そんなことしたら人間じゃなくなっちゃうからよ。
A:なんで?
B:だって近親相姦をするのは動物だけですもの。
A:それはいやかなぁ。でも「近親相姦」ってそもそもどういうこと?
B:ママや妹とセックスすることよ。
A:よく分からないよ。なんでママや妹とセックスしちゃいけないの?
B:私たちは血がつながっているからよ。血がつながってる人同士がセックスしてもし赤ちゃんが生まれたりしたら血が重なっちゃうからその赤ちゃんによくないことがおこるの。
A:いとこの○○ちゃんとは?
B:○○ちゃんともだめ。
A:じゃ○○ちゃんのいとこの誰かとは?その誰かのいとこの誰かとは?親戚じゃなくても血がつながってるかもしれないじゃん。よく分からないよ。結局何故ママや妹とセックスすると近親相姦したことになるの?
B:ママや妹とセックスすることを近親相姦っていうからよ。
A:なんで?
B:なんでもっ!もういいからあっちいきなさい。


さて、「近親相姦」もまた「妻を引き抜くこと」と同様に構成的規則であり規約=恣意性という特徴をもつ。しかし、だからといって、その特徴が「近親相姦」の現実性を生み出していると言えるとは限らない。その原因は全く別のところにあるかもしれないのであり、それを探求することを恣意性の名のもとにあきらめる必要はない。このことはレヴィ=ストロース親族の基本構造』が雄弁に物語っている。レヴィ=ストロースによれば、交換による関係生成の駆動が「近親相姦」の現実性の背後にあり、上記の様な語りがなされるのはその副産物にすぎない*2。もちろん浜本の分析の全てがこうした探求に全く寄与しないものだとは思わない。しかしその有効活用のためにも、恣意性を結論に持ってくることは放棄しなければいけない。


浜本の議論は結局、「呪術的」知識が世界の秩序と化している場合、これらの知識の根拠に対する問いは水掛論に終わる、つまりこれらの知識は外部からは恣意的に見えるという特徴を持つといっているだけで、これらの知識が何故世界の秩序となっているかについては全く説明できていないのではないだろうか。ここで浜本が描き出した「呪術的」知識の諸特徴は、「呪術的」知識が現実的なものとなっていることの原因ではなくその結果にすぎないのではないだろうか。


ただ、浜本の記述にはこうした批判には当たらないと思われる箇所もある。というのも浜本の主張は揺れているからだ。彼は、自らの議論を、一方では「呪術的」知識がなぜ現地の人にとって現実的なものになっているかという問いに対する答えとして提示し、一方では「呪術的知識」がなぜ現地の人以外の人間特に人類学者にとって非現実的なもの(=呪術)と見えるのかという問いに対する答えとして提示している。確かに後者の問いには明確に答えていると思われる。しかし、後者の問いへの答えをあたかも前者の問いに対する答えであるかのように提示することは許されることではない。浜本の提示する理論的装置を作り変えることで前者の問いに答えることは可能と考えるが、このままでは、浜本の議論は「呪術」論ではなく「呪術論」論としての意義しかもたないだろう。

*1:浜本の議論において、この対話は、言語ゲーム内部の住人=親と言語ゲーム外部の人間=子供の対話として把握される。本節で主張したいのは、浜本の議論は、言語ゲームが何故成立しているのかを解明するものではない、それで本当にいいのか、ということである。浜本は、言語ゲームの外部にいる他者(子供、人類学者)を言語ゲーム内部の人間に対置する。しかし、その他者とは結局自己の反転像でしかない(この問題は浜本のウィトゲンシュタイン理解が依拠している柄谷行人『探求』の問題点でもあるように思われるが、『探求』批判は本考察の目的ではないし、骨の折れる作業ではあるのででここでは行わない)。したがって、言語ゲームが成立していることの不思議さにただ感嘆するだけに留まってしまう。結局、その態度は言語ゲームが成立することを始点(かつ終点)にしているように見える中川敏氏の規約論の反転像でしかない。両者ともに自己と他者の協約不可能性を前提にして他者理解を論じているようにみえる。本考察において目指すのは、他者が自己になり、自己が他者になることを日常的な事態として捉え直すこと。子供(言語ゲームの外部)が大人(内部)になったら、昔とは違う大人(内部)になるという当たり前の事実に基づいた規則論を組み立てること。つまり、言語ゲームが生成し変容する具体的な過程を分析しその変容のメカニズムを取り出すことである。ただ、言うだけなら簡単である。この目的のために必要な理論的装置を少しづつ組み上げていかなければならない。ここで注意しなければならないのは、人類学において「言語ゲーム」概念がかなり安易に流用されている可能性である。

*2:この辺りの記述についてはより慎重に分析しなければならない。もちろん、交換の原理が近親相姦の現実性を生み出していると単純に言うことはできない。ここで問題になるのは、そもそも現実性とは何か、それはいかに生み出されるのかということだ。構造主義ポスト構造主義の違いがもしあると言うならばこの点についてのスタンスの違いを分析することが有用と思われる