人間の自然化


レヴィ=ストロースほどラディカルな人類学者はいない*1
そして従来の理解はその根本を完全に外している。
そろそろ、この根拠のない直感を実証するための準備を始めることにしよう。
構造人類学は野生人の認識論ではなく野生の存在-認識論である。
そんな妄想に近い確信へと自分を誘ってきた数々の断片から、
いくつかの結晶が生まれていくことを期待しつつ。



野生の思考

野生の思考


第8章 再び見出された時

p264
コントの考えでは知的進化はすべて「神学的哲学のもつ避け難い原初的支配力」に起源がある。すなわち人間が自然現象を解釈するためには、はじめはどうしても、「これに限っては生成の根源的様式を必ず把握できるという自信をもてる現象であるところの、人間自身の行為」と同化して考えざるをえないのである。しかしながら、同時に逆の手続きで、人間が自分自身の行為に自然現象と比べうる力と有効性を考えなかったとしたら、どうして自然現象と人間の行為を同化することができようか?人間が外化して作り上げるこの人間像は、自然の力が前もってその中に内化されていないかぎり、神の雛形とはなりえない。人間は自然と自己との間に類似性を認めてきた。それにもかかわらず、人間が自らの欲求にその自然の属性を見ることなしに、自然には人間の意志と同じような意思があるのだと考えたらしい、と思い込んだところに、コントおよびその後継者の大多数の誤りがあった。もし人間が自らの無力感だけから出発したのだとすれば、それはけっして人間に説明の原理を与えはしなかったであろう。


 強調部の含意はあまり明瞭ではない。ためしに、コントの主張を反転させると次のようになる。「すなわち人間が自らを理解するためには、はじめはどうしても、これに限っては生成の根源的様式を必ず把握できるという自信をもてる現象であるところの自然現象と同化して考えざるをえないのである」。これはあまり正確ではないと思われるので、ここでの主張の大意だけ示したい。つまり、人間の知性の源泉は自然の人間化ではなく、むしろそれに先行し可能にするものとしての人間の自然化あるいは―より正確には―自然の緒力との共通性を軸に人間が自らを構成することにあるということ。

p264-5
真実のところ、効率のある実際的活動と有効性のない呪術的儀礼的活動との差異は、世間で考えられているように両者をそれぞれ客観的方向性と主観的方向性とで定義してつかみ得るものではない。それは事がらを外側から見るときには本当らしく見えるかもしれないが、行為主体の立場から見れば関係は逆転する。行為主体にとっては実際活動はその原理において主観的であり、その方向性において遠心的である。その活動は自然界に対する行為主体の干渉に由来するからである。それに対して呪術操作は宇宙の客観的秩序への附加と考えられる。その操作を行う人間にとっては、呪術は自然要因の連鎖と同じ必然性をもつものであり、行為主体は、儀礼という形式の下に、その鎖にただ補助的な輪をつけ加えるだけだと考える。したがって彼は呪術的操作を、外側から、あたかも自分がやることではないかのように見ているつもりでいる。伝統的な見かたをこのように修正すると、誤った問題を一つ排除することができる。呪術的操作において欺瞞やトリックに頼るのが「常態」であるということを、ある人々は問題としている。ところが、自然の因果性に対して、それを補ったり流れをかえたりして人間が介入しうるという信仰に呪術の体系が全面的にのっかっているとしたら、その介入の量的多少は大した問題ではない。トリックは呪術と同質のものであり、本来的に、呪術師に「ペテン」はありえないのである。呪術師の理論と実際との差は、本性的な違いではなくて程度の問題である。

p265
ある意味において、宗教とは自然法則の人間化であり、呪術とは人間行動の自然化―ある種の人間行動を自然界の因果性の一部分をなすものであるが如くに取扱う―であると言うことができるなら、呪術と宗教は二者択一の両項でもなければ、一つの発展過程の二段階でもないことになる。自然の擬人化(宗教の成立基礎)と人間の擬自然化(私はこれで呪術を定義する)とは、つねに与えられている二つの分力であって、その配分だけが変化するのである。前に記したごとく、この両者はそれぞれ他方と連立している。呪術のない宗教もなければ、少なくとも宗教の種を含まぬ呪術もない。超自然の観念は、自ら超自然的な力ありと考え、代わりに自然には超自然的な力を想定する人間にしか存在しない。

p265-6
未開人と呼ばれる人々が自然現象を観察したりするときに示す鋭さを理解するために、文明人には失われた能力を使うのだと言ったり、特別の感受性の働きを持ち出したりする必要はない。まったく目につかぬほどかすかな手がかりから獣の通った跡を読み取るアメリカインディアンや、自分の属する集団の誰かの足跡なら何のためらいもなく言いあてるオーストラリア原住民のやり方は、われわれが自動車を運転していて、車輪のごくわずかな向きや、エンジンの回転音の変化から、またさらには目つきから意図を推測して、いま追い越しをするときだとか、いま相手の車を避けなければならないととっさに判断を下すそのやり方と異なることはない。この比較はまったく突飛に見えるけれども、多くのことをわれわれに教えてくれる。われわれの能力がとぎすまされ、知覚が鋭敏になり、判断が確実性をますのは、一つには、われわれのもつ手段とわれわれの冒す危険とがエンジンの機械力によって比較にならぬほど増大したためであり、もう一つには、この力を自分のものにしたという感情からくる緊張が他の運転者との一連の対話の中で働いて、自分の気持ち似た相手の気持ちが記号の形で表されることになり、まさにそれが記号であるがゆえに理解を要求するため、われわれが懸命に解読しようとするからである。
 このようにわれわれは、人間と世界が互に他方の鏡となるという、展望の相互性が機械文明の面に移されているのを再び見出すのである。そしてこの相互的展望はそれだけで、野生の思考の属性と能力を教えてくれるように思われる。異文化社会に属する観察者からみれば、おそらく、大都会の中心部や高速道路の自動車交通は人間の能力を超えるものと判断されるであろう。たしかにそれは人間の能力を超えているのである。そこでは人間どうし、自然法則どうしがそのまま面と向き合うことがなく、運転者の意図によって人間化された自然力の体系どうし、人間が媒介する物理的エネルギーによって自然力に変換された人間どうしが向かい合うのだから。もはやそれは動かぬ物体に対する行為主体の操作でもなければ、行為者の地位にまでもちあげられた物体が、代償をもとめることなく自分の地位を物体に譲った主体におよぼす逆作用でもない。すなわち、どちらから見ても、一定量の受動性を含むような状況ではないのである。登場する存在は、同時に主体として、また客体として、ぶつかり合う。そこで使われるコードでは、両者を隔てる距離の単なる変動が、声なき呪文の力をもつのである。


自然は人間として現れることによって、人間のうちに自らを表す。人間は自然として現れることによって自然のうちに自らを表す。この展望の相互性が野生の思考の根幹にあるとしたら、当然それは単なる「人間による自然の分類」ではないし、ましてや「精神の無意識的活動によって産出される論理的なカテゴリー」[田辺2003:76]*2の操作様式でもない。それはむしろ、人間のうちに自らの居場所を見出した自然による表現のかたちとでもいうべきもであり、その点において、<野生の思考>と<科学的思考>には変わりがなく、また、両者ともに表現のクオリティが問題にされるのだが、その基準がそれぞれ異なっているというだけのことではないだろうか(←かなりいい加減)。

p267
こうなれば、もっぱら具体性に向けられた綿密細心な観察が、象徴体系の中に原理と帰結とを同時に見出すことはすぐ理解である。野生の思考は観察の時点と解釈の時点とを区別しない。それは、話相手の発する記号を観察によってまず記録し、しかる後にそれを理解しようとするのではないのと同じである。相手が話せば、われわれの耳にきこえる音声は同時に記号化作用を運んでいる。言語音声を分解して取り出される要素の一つ一つは記号ではなく、記号を作る手段である。それは弁別的単位であって、ほかの単位に入れかえると、かならず意味が変化してしまう。しかしその単位自体は意味の属性を含んでいる必要はなく、他の単位との結合や対立によって意味を表現するのである。分類体系を意味の体系とみなすこの考え方をもっとはっきりさせるためには・・・

したがって、野生の思考とは解釈あるいは認識のシステム(あるいはそのメカニズム)ではなく、(人間を通じた)自然の記号作用に他ならない。
関連して、ネグリ&ハートの次の簡明な記述はフーコー理解として鮮明であるだけでなく、60年代の思想と現代を繋ぐ地点をマークするものとして理解することもできる(もちろん、エコやロハスとは直接的な関係はない)。

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

2章1節
フーコーの言う<人間>の死とは、<人間>を自然から切り離されたものとみなすべきなら<人間>は存在しないだろうという認識である。*3

*1:彼の議論は必ずしも首尾一貫しておらず、確実に言えることと本当に言いたいことをぎりぎりの記述法でのりきっていく。よく「ゆるぎない理念と純理論的な精緻さを併せ持った冷静な思想家」みたいに表現されるが、そんな風に見える人はうまく騙されちゃってるんではないだろか?。これほど尾奇想天外なことを確信をもって言おうとした人もいないのではないか、もちろん当の本人がそれを綺麗に隠し通そうとしているからやっかいなんだけどね。

*2:

生き方の人類学―実践とは何か (講談社現代新書)

生き方の人類学―実践とは何か (講談社現代新書)

*3:1<人間の死>において死んだ人間とはなにか:国家のなかの国家。全体としての自然の諸法則から独立した諸法則からなるもの。自然よりも高次の力を神に代わってあたえられた存在。この超越的な<人間>は超越的な神がそうであったように、階層秩序と支配をおしつける。2<人間の死>後にありうる人間主義とはなにか:いかなる超越的な<人間>形象をも拒否し、内在性の平面において生の創造的な緒力を追い求める探求であり、私たち自身と私達の世界を創造し再創造しつつづける絶え間ない構成的プロジェクト。