『今日のトーテミスム』3章


クロード・レヴィ=ストロース 『今日のトーテミスム』読書ノート
 [1970仲沢紀雄訳 みすず書房


三章 機能主義的ト―テミスム


マリノフスキーの総合>


エルキンは、一方でラドクリフ・ブラウンの教訓から先人達よりも緻密な分析を行い、他方ではマリノフスキーにならってより大まかな総合に支えを求めた。

マリノフスキーのトーテミスム解釈は、自然主義的、実利主義的、情緒主義である。
彼にとっていわゆるトーテム問題は個々で取り上げれば解答の容易な三つの問いからなる。


Q1なぜトーテミスムは動植物に訴えるのか?
A動植物が人間に食物を提供し、食物の受容は未開人の意識において感動を呼び起こすから。


Q2人間と動植物間の関係にもとずく信仰、増殖の儀式、禁制および飲食の儀式は何故なされるのか?
A動物は自然と人間の仲介者であり、畏敬、危惧、渇望等の感情をおこさせる。その種を掌握しようとする願望に祭祀は対応する。人間が動物に働きかけるためには同じ本性を分け持っていなければならず、そこから殺害や食事の禁制や種を増殖させる力の肯定が生じる。


Q3トーテミスムにおける社会学的面と宗教的面はいかに並存するか?
Aあらゆる儀礼は呪術へ向かい、呪術は個人ないし家族の専門化の傾向を示す。家族自体が氏族に変貌する傾向をもっているので、各トーテムと各氏族の対応は問題ではない。


かくしてトーテミスムはあたりまえのこととなる。
「トーテミスムは、未開人が環境から自己に有益なものを引き出すための努力および生存競争において、宗教によって与えられた祝福よしてわれわれに現れる」(マリノフスキー)


問題は二重に逆転されている。
トーテミスムはもはや一文化現象ではなく《自然な条件からの自然な帰結》である。ここでトーテムミスムは生物学及び心理学の領域に属し、その存在の理由や多様な形態を考察することは二次的な興味にしか値しない。


ラドクリフ・ブラウンの第一理論>


第一理論はその原理においてマリノフスキーより分析的かつ緻密だが結論は似通っている。ボアズ同様、ラドクリフ・ブラウン(R・B)はトーテミスムを、神話や儀礼が表明している人間と自然種との関係の一つの特定の場合に還元するという企てを告げる。

経験的事実の複雑さを帰納的方法で解決しようとするこの試みはデュルケームによって初めてなされた。R・Bはデュルケームを批判し彼の解釈を逆転させる。


デュルケーム:秩序維持のための標識としてのトーテム→トーテムへの儀礼的態度>
氏族の恒久性と連帯性を確保し社会秩序を維持する必要⇒恒久性と連帯性が依存するのは個人の感情であるから⇒個人の感情が有効に表明されるためには⇒その集団的表現が必要とされ⇒集団的表現は具体的な個物に固定される(→社会を象徴する標識ex国旗、王など)。したがって、トーテムが標識となったのは動植物が手近にあり象徴となりやすいから。


<R・B:トーテムへの儀礼的態度→秩序維持の為の標識としてのトーテム>
 動植物と人間の間の自然な利害関係がその儀式化された行為を引き起こし、社会的分化に従って儀礼上の分化がなされることでトーテムは社会の各部分を区切る標識となる。


R・Bにとっては、自然は社会に従属するというよりも、むしろ合体されている。トーテミスムの最終的な解釈は、儀礼的、宗教的分化をして社会的分化に歩を譲らしめることになりうる。どちらの分化も《自然な》利害関係に左右されつづける。マリノフスキーと同様、ある動物はそれが《食用に供せられうる》のでなければ《トーテム》とはならない。

実利主義的憶測vs経験的根拠
いかにしても実利性を求めると、トーテムの動植物に原住民の文化という観点からいかなる実利性もみいだせない数知れぬ例につきあたる。
(Ex病気、嘔吐、死骸、《近親の死を告げる》流星、はえ、蚊などのトーテム。)


フォースが研究したティコピアにおいて、トーテム植物をその食糧としての有用性から解釈すると、食用の魚がトーテム体系から除外される理由が説明できない。人間とその需要との間では文化が媒介をなしており、両者の関係を自然の言葉で考えることはできない。
植物種にかんしてさえ経済的利点から序列づけた表はトーテム体系とは対応しない。P108

 トーテムとなる動植物は捕食に適したものであるというよりも観察に適したものであり、人間とそれらの関係は生きた関係ではなく概念的に考えたものだ。関係をことばで表すことによって、精神は実際の目的性と言うよりも理論的な目的性の導くままに身を委ねる。


<呪術と感情>


トーテミスムの理論を打ち立ててから十年後、R・Bが呪術をめぐってマリノフスキーと対立したことはR・Bの後期の思想の進展を示している。

マリノフスキーは首尾一貫しており呪術の問題をトーテミスムと同じ仕方で処理した。⇒<呪術のあらゆる儀礼および慣行は、人間にとって結末がさだかではない企てに自己を委ねるさいに覚える不安を除き、ないしは軽減する一手段にすぎない。>

呪術と危険(リスク)の間の連関は少しも自明なものではない。あらゆる企てには危険が伴う。いずれの社会においても呪術はいくつかの企てを包含する限定された分野をしめている。人間社会が、どのような企てが危険(リスク)が多いあるいは少ないとみなすのかを決定する客観的基準はないのだから、包含された企てがまさに社会を不確実なものにするとの主張は論点の先取りになろう。

実際に危険が伴う活動形体が呪術に無縁であるような社会集団も知られている。
Ex儀礼のともなわないヌギンド族の養蜂p110。

マリノフスキーが措定した経験的関係はしたがって確認されない。彼の論法はR・Bが気づいたように反対の命題にしても、もっともらしいものとなる。つまり、人々はある状況におかれて不安を覚えるから呪術に訴えるのではなく、呪術にうったえるからこれらの状況が不安を生じせしめる、のだ。


この論法はR・Bのトーテミスムに関する第一理論にも当てはまる。彼は、人間は有益な動植物種に対して儀礼的態度をとると主張するが、むしろ人々が何らかの利点を見いだすに至るのは、これらの種に対して守っている儀礼的態度のゆえだ、とも言えるだろう。

不安に訴えることが説明の輪郭なりとも提供するためには、不安は何に存しているのか、ついで無秩序な感動の構造と的確で範疇に分けられた行為との間の連関を明らかにしなければならない。不安はひとつの原因ではなく、人間が内的同様を主観的に知覚する仕方である。知性で捉えうるも関連は行為と感受性という未知の現象の陰との間にはない。

情緒性は人間のもっとも不明確な面であるため、人々は説明できないものはまさにそれゆえに説明に適さないことを忘れて、これに訴えようという誘惑に常時誘われた。理解できないという性格は、もし説明が存在するなら、ほかの次元にもとめるべきだということを示しているにすぎない。さもなければ、問題を解決したと信じながら別の名札をつけて満足していることになるだろう。


このような錯覚がトーテミスムに関する省察を歪曲したということは、初期のR・Bと同様、『トーテムとタブー』におけるフロイトにも見られる。

クローバーは、フロイトにおいて父親の殺害が回帰の潜在性の象徴的表現(=トーテミスムやタブーのように、繰り返し見られる現象ないしは制度となって現れる心理的態度を代表する非時間的類型)とされていることを見て取る。

しかし真の問題はそこにはない。フロイトの主張に反して、社会的制約は、その起源も執拗さも、異なる時空間に存在する人々を跨いで同じ性格を示しながら繰り返し現れる推進力ないし感情の働きでは説明できない。

制度および慣行が、その最初の起源となった個人的感情に似通った個人の感情によってたえず活力を得ているのなら、制度や慣行はつねに情緒的豊富さを有しそれによって肯定されることになるだろうが、事実はそうではなく、制度、慣行への忠実さの多くは因襲的態度に由来していることが知られている。慣行は内的感情を生じせしめる以前に外的規範として与えられ、これらの規範が、感情が現れうる境遇を決定する。

我々はデュルケームの方に歩み寄っていたように見える。しかし窮極的に分析すれば彼もまた社会的現象を情緒性から派生せしめている。彼の理論は必要から出発し感情へ訴えることで完結する。

彼にとってトーテムの存在は、最初は恣意的に選ばれた象徴でしかなかったものに動植物の像を認めたことに由来する。しかし人々は自分たちの氏族への所属をなぜ標識によって象徴することになったのか。彼の答えは《共同生活によって結び合わされた、自己の身体にこの生活共同体を想起せしめる映像を描き彫りこましめる本能》にゆえに、である。

これまで批判してきた理論同様、神聖なものの集団的起源において完結する彼の理論は論点の先取りに依存している。儀式の際に感ずる感動が、儀式をうみ維持させるのではなく、儀礼活動が感動を兆発するのだ 。すなわち、“わきたつ社会環境とその興奮そのもの”が宗教的理念からうまれたどころか、社会環境は宗教的理念を前提としている。

推進力及び感動はつねになにものかに由来している。それらは帰結であって、決して原因ではない。原因は、生物学のように有機体の中に求めるか、それでなければ知性のうちにのみ求めることができる。後者こそ心理学及び民俗学に与えられた唯一の道である。