分裂生成

デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化

デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化

P240
あらゆる社会的・個人的・生物学的生命体は、それ自身の文法ないしはコードを持っているのだ。むろん、人は自分にあてがわれているコードを嫌い、それに反する行動をとることは可能である。だが規範とはまったく無関係な行為をすることはまず不可能である。さらに、こうしたパターンは一般に二極性を持つことが多い。つまり、あるパターンの一極に組み込まれている人間は、そのパーソナリティのどこかにもう一方の極の種を宿しているという推測がなりたつだろう。とすれば、夫が支配的行動を身につけ、妻が服従的行動を身につける、というふうに別々に事が進むと考えるのはあやまりである。
〔・・・〕
夫婦そろって支配/服従という一個の全体的パターンを仕込まれたのだ―これがベイトソンの主張である。

これはAである=これは「Aではない何か」ではない=これはBではない。
ベイトソンの着眼の一つは、認識の論理は具体的なものに依拠しているという観察にあったように思う。だからこそ、通常の論理式<これはAである=これは「Aではない」ではない>が当てはまらない領域があることを示すことができた。ただし、二つの領域(指示的ないし言語的な次元と実践的ないし身体的次元)がどう関係するのかについては問題は残る。久しぶりに読み返してみようか「精神の生態学」。まだ早いかな。