うーん、気になる4


三島憲一 1980 「現象学と哲学的解釈学」読書ノート2(後半)
(『講座・現象学③ 現象学現代思想』 pp. 63-266 弘文堂。)


<注>この文章は、哲学的人間学、社会思想史、フランス現代思想文化人類学等を専攻する院生が参加する勉強会のために作成したものであり、要約型のレジュメになっています。つまり抜粋ではありません。興味をもたれた方は、直接本文に当たってみて下さい。ここに要約したもの以外にも、興味深い論点が多々提示されていますので。


*以下フッサールからの引用文には(hus)、ディルタイからの引用文には(dil)と表記。



3 意味の産出と意味の自体存在――ディルタイの意味論へのフッサールの影響


ディルタイの展開>
ディルタイにおいてロマン派解釈学の影響は、前述したように全体概念のすりかえというネガティブな側面をもたらしたが、しかし一方で<意味の産出>という主題をも与えた。
つまり、主観精神という<全体>が歴史の中で、客観的な意味・価値・理念を生むという考えからである。理性とか理論というものが、産出されたものでありながら相対的なもの主観への遡行に還元できないという側面、それらが自己に内属させている自体存在としての性格に目が向けられる。

「意味や意義は、人間とその歴史の中で成立していくるものである。だがそれは、個別的においてではなく、歴史的人間においてである」(dil)

:生の根源的な産出力によってイデア的客観性を伴った意味が成立する、しかも、それは歴史をもつ人間の相互交渉のなかで成立するものである。テクストの中で、著者の位置の主観的意図とは別に客観的な意味が成立するからこそ「著者が理解したよりもよく理解する」ことが可能になる。この原理は意味の自体存在の根拠であり、解釈の客観性を保証するものとして提示されている。

「(ある文学作品の)理念は、作品の構成のうちに働いている無意識の連関として存在しており、この連関の内部形式から理解がなされる。・・・解釈者がそれを取り出すのである。」

「作品の構造のうちに働く連関」は<成立してくる>ものだが、それはどういうことか。
個人の生は、次第に発展・展開していくにつれて、それまでの過去の全体がなんらかの構造的なまとまりを見せてくる。生の自己形成の歴史は必ずこうした構造連関を、その諸局面の間に示し始める。この連関をディルタイは「意味」と名づける。これは、ある時点での意図や心情とも、人生を振り返ってその意味を問う時の意味とも区別される。なんらかの<関係>によって、全体の項を中心に構造化されている状態のことである。


こうした意味を内在させた個人の生は、他者と相渉る歴史的人間の生であり、彼が属するグループ、社会、時代、文化、という高次の連関、さらに究極的には歴史的生の全体の連関に組み込まれている。個々の意味構造をもった連関としての統一体はそのつど上位の全体の中で構造の項となり、その意味要素の一つとなることによって、また新たに自己の意味構造を変更し、新たな意味を受け取る。


それぞれの全体=<作用連関>は、客観精神として構造化された意味を担うという点で普遍的なカテゴリーに属しながら、また新たな個々の意味を産出する母体である。
つまり、主観精神の産出作用と客観精神の所産性が、生成しつつある意味と沈殿し定着した意味とがともに入り組みあい作用しあう場所である。作用連関のうちで意味=作品の構成連関としての理念が浮かび上がるゆえに、後世の解釈者の方が著者よりもよく理解できるということになる。


フッサール意味論>
意味概念の媒介によるディルタイ思想の深化に、大きなインパクトを与えたのがフッサールの(意味の相対性に甘んじる心理学主義を解体した)『論理学研究』であり、特に第二部第一論文における意味志向と意味充実をめぐる議論である。


フッサールは次のように考察を展開する。表現は意味によって生命を与えられてはじめて表現となる。表現とは「あらゆる言説および言説の部分である。またそれと本質的に同質の記号である」(Hus)。この表現は三つの要因からなる。①表現の物理的側面、②「表現に意味を与え、場合によっては直観的充実を与える作用(Akt)」(Hus)、③「表現された対象に対する関係が構成される作用」(Hus)。②によって言語表現に意味が与えられる、例えば感覚的な音がただの音ではなく、表現となる。しかしそれだけでは空虚な表現でしかない。その意味を通してなんらかの<対象性への関係付け>がなされて初めて意味機能が公使される。例えば、現実かつ具体的に現前にある物体が名指されることによって、初めて意味が実現する。自体存在としての意味の志向が、なんらかの対象性に<関係づけられることによる意味実現>という考え方によりながら、ディルタイは、精神科学の対象である記号表現を理解することがいかなることであるかを考察していく。


ディルタイによる受容と変容>
第一にディルタイフッサールから受け取ったのは、記号表現の<内的統一>に基づく判断体験の<構造的統一>という考え方である。意味は直観に関係づけられ、そのうちで証示されることにより充実するが、この判断体験の表現そのもにはまた、イデア的諸法則が働いている。

「判断が諸単語を結び付けて文を作る側面に目を向けてみよう。すると受容の次元で新たな構造関係が浮かび上がってくるであろう。つまり、言説の諸部分を結び付けて陳述にする規則となっている関係である。ここで扱われているのは、純粋文法と名づけうる問題を解くことである。言語は『「生理的・心理的・文化的基盤をもっているだけではなく、アプリオリな基盤も持っている。その基盤は、本質的な意味形式であり、その組み合わせや変形に関するアプリオリな法則である。こうした法則によって本質的に規定されていない言語というものは考えることができない」。言語の意味は、ここに存在している法則に縛られている。したがってその法則を破れば、出てくるのは無意味である。『丸いまたは、一人の人間、そしてであるなどといっても、この結びつきに相当する表現された意義(ジン)がでてくるような意味は存在しない』。ここには外的な形態から内的な意味を読み取る方法の面白い例がある。意味の領域ではアプリオリな法則性が支配している。『この法則によれば、あらゆる可能な形式は、実在法則によって確定されたごく少数の原初的な形式との体系的従属関係のうちにある。この法則性はアプリオリなものであり、かつ純粋に範疇的なものであるから、それによって理論理性の構成の主要部分ないし基礎部分が学的認識にもたらされることになる』(以上、「」内はdil、『』内はhus)

われわれの思考の結合を支配するこの絶対的妥当性をもったアプリオリな法則性を、フッサールは純粋文法をめぐる考察のなかで、範疇的形式と呼んで探求する。ここにディルタイは「外的な形態から内的な意味を読み取る」可能性を見ようとする。その作業は、①歴史的世界(:表現の世界という対象性)に関する有意義な判断体験の構造の解明であり、②歴史的世界という表現の背後の意味、つまりこの世界の構成に関する考察となる。この二つの問いによって、「個別的直観から普遍的なものへの道」を切り開くことが試みられる。
しかし、その後のディルタイの議論では、判断構造に関する第一の問いが、意味の世界の構成に関する第二の問いに吸収されてしまっている。それゆえ、意味充実に関するフッサールの考え方も、自身の「理解のための全体への遡行」の考えに合わせて変質を受ける。


ディルタイにとって「意味というカテゴリーは、生の部分を全体の関係を表すものであり、この関係は生の本質にその根拠をもっている」。この考え方において、名称をそれが意味している対象に<関係づけ>、直観をもたらすとするフッサールの<意味充実>の概念が受容される。この時、名称とは表現である以上、客観精神であり、従って生の部分として把握され、名称が関係づけられるのは生の全体となる。そのため、生の全体への関係づけこそが意味充実であり、表面から得られる内部である、ことになる。表現が生の全体に関係付けられ、それを思念することにより意味が立ち上る。だが、生の全体が流動性のうちにある以上、意味は決して完結した自体存在には成りえない(解釈学的循環の再介入)。自体存在である個々の部分は、<規定されている>のに、全体に関係づけられると未規定なもの=規定されるべきものとなる。この最終的な規定を行うのは解釈者である。解釈者が自らも属している生の全体、つまり作用連関に客観精神としての文を関係付けることによって意味充実がもたらされることになる。


<作用連関>と<遡行>の考え方が結びつくことによって、生のなかに可能な意味の総体が潜勢的にあり、それが表現にもたらされることによって、それを産出する創造力としての生と表現との相関関係(作用連関の場)で、意味が顕在化する。こうした曖昧ながら伸縮時再な考え方によってディルタイは、ある時は意味の客体的側面に、ある時は生の創造力に焦点をあわせながら、具体的な歴史的対象の解釈と叙述を成功させていった。ここにある相剋、「言葉の純粋に論理学的な使い方としての<意味>」と「生自身から獲得されたカテゴリーとしての<意味>」との間の相剋は、フッサールの立場では、現象学のプログラムが完成した暁には、原理的には克服可能なものである。彼の目標は「意味の純粋形態論」である。だが、この<意味>はやがて彼においても、ディルタイの客観精神と同質のものへと変じて行く。


4 ディルタイフッサールの接点――遡行的理解――


意味を論じる時にフッサールにおいて常に問題となる<イデア的対象性>の特徴は、思考可能な反復と変奏を通じての同定可能性である。いっさいの反復を超えて、テクストはその同一性を保ち、かつ同定可能である。しかもそれにもとづいて、「意味内容を純粋に取り出した場合」の同定可能性も常に前提とされる。つまり意味以前の言語のイデア性である。

(「言語のイデア性」についての性格づけ→)言語のもっている客観性は、いわゆる精神世界もしくは文化的世界の対象性に備わる客観性であって、単なる物理的自然の客観性であない。客観的な精神的形態としての言語はそれ以外の精神的形態と同じ特性を持っている。

レアルな表現を想像のうちで反復し変奏することのうちにイデア的なものが浮かび上がる。換言すれば、レアルな表現が、イデア性にプラトン的に<参与>している。フッサールのこうした思考をディルタイは非難するが、両者の距離はそれほど開いてはいない。なぜなら、「精神的世界もしくは文化的世界の対象性に備わる客観性」と言語のもつイデア的客観性は同質であると言われているからである。表現(外部)の客観性と内部(意味)のそれの統一のもつイデア性、これはまさにディルタイの客観精神に対応する。客観精神とは、①人間精神の外化され客観化された形態、つまりイデア的に同定可能なレアルな表現、②「形象のうちに表現されたものの理念性」(hus)、③「言語の身体と表現された意味の統一体としての言語形態」の三層からなるからである。


ディルタイはレアルな現実から出発し、解釈によってそれを支える理念への到達を目指すのに対して、フッサールは理念的な存在を前提にし、そちら側から出発する。しかし、そのためには、あくまで実際のレアルな産出からの出発が暗黙のうちに行われる必要がある。ディルタイは循環と遡行、フッサールは反復と変奏と、方法意識に相違があるのみである。


フッサール自身、超越論的主観の意識生活におけるイデア的意味の歴史的産出を問う発生現象学へ向かうにつれて、ディルタイと共通の問題性を明らかにしていく。超越論的自我が純化されればされるほど、相関そのものである<生活世界>から出発せざるをえなくなるのである。


Ex「幾何学の起源」:「理念的客観性は、文化的世界のあらゆる部分の精神的所産(学問や文学の諸形象もこれに属する)に特有のものである。ピタゴラスの定理、さらに幾何学全体は、たとえそれがどれほど頻繁に言及されてきたにせよ繰り返し同一なのである」(hus)。ここでは、意味の産出がもっとも明確に起きている文学などと、意味の自体存在に重点が置かれていた幾何学的諸対象とが、「文化的世界の精神的所産」に備わる同じ理念的同一性を保証されている。この保証は、身体的イデア性を備えた言語と、それの表現する主題の理念性の統一によってなされる。

「語、命題、言説といったそのあらゆる特殊形態をとる言語そのものは、文法的態度に立てば容易に見てとれるように、徹底徹備理念的な対象によって構築されている[・・・]問題は、幾何学において主題となる理念的諸対象である。幾何学的理念性は・・・それが最初の発明者の心の意識空間内にある形象として置かれているもともとの人格内部的な起源から、いかにしてその理念的客観性に達するのであろうか。われわれがあらかじめ見るところでは、それがいわばその言語身体を受け取る言語を媒介とすることによってである」(hus)

いまやレアルな歴史の中で相対的に発生した意味が、言語身体の理念性を受け取ることによって、反復による同定可能な意味へ、理念的客観的な「独特な相互主観的存在に達する」その過程が問われる。しかもこの相互主観的存在は、単なる論理学的自体存在ではなく、レアルな歴史に内属した具体的な形成物=文化の所産であると同時に、客観精神のもつイデアルな自己同一性、つまり表現という具体性(embodiness?)でもあるものとして定位されるようになる。それゆえ、文化的所産である幾何学の発生を遡行して、理念化の道筋を辿ることが試みられる。ディルタイから見れば、これこそ「外部(人類の歴史の中に感覚的に与えられたもの)から内部(決して感官に触れ得ないが、やはり外部に作用し外部に表現されるもの)へ(遡行していく)という理解の運動である」。


この遡行が絶えず可能であることが、表現の学問的真理性の不可欠の条件となる。明証的意味の成立が、構成の人によっても「追理解」できるようになっていなければならない。「追理解」とは個別的妥当を全体的妥当にまとめあげる<解釈>への志向に裏打ちされた能動的な理解である。


フッサールにおいて、こうした「作業」いっさいの前提となるのは、①(テクストなどの)形成物がすべて超越論的自我の産出物であり、②それゆえに歴史性をもち、③したがって歴史とは、この超越論的自我の<能作する生>を根拠にし、それによってのみ歴史であありうる、ということである。この全てにディルタイとの並行関係が認められる。
イデア的対象としての精神的伝統は、能作によって外界に生み落とされ、表現となったのであるが、この表現はレアルな歴史的世界に織り込まれたままイデア的であり続ける。
生の遂行による客観精神の誕生、生自身の理念的客観化である。
②この客観化のみが、われわれに歴史性を自覚させる。「すべてはここ(生の客観化)で精神的行為によって成立したのであり、それゆえ歴史性なる性格を担っているのである。それは、歴史の産物として感覚的世界そのもののうちに織り込まれているのである」(dil)。
「文化的事実は、それ自身において本質的にある歴史的なものであり、そのようなものとして本質必然的にみずからのうちに歴史の地平を担っている」(hus)。
③<能作する生>の流動性のうちに歴史の発生する根拠が認められる。この生とは、「世界が存在するか否かにかかわりなく、私と私の生は不可触である」とするデカルト的還元を受けた超越論敵自我の「認識する存在と生の絶えざる流れ」である。能作とは、したがって志向性の遂行である。ディルタイも、生の遂行に伴う自己還帰的能力のついに、客観の成立を、つまり志向性の遂行を見ていたといえる。この生=精神という概念こそが実証主義の非歴史的な前提を覆すのである。


以上から、ディルタイが(解釈において)「遡って翻訳する」と性格づけ、フッサールが「遡行」と名づけたものこそ、意味充実の志向性分析であることがほぼ明らかになる。学の対象構築そのものが、つまり歴史、社会、自然等の「範疇的に形成された対象そのものが、それぞれに相応した意味形態の充実された判断にほかならない(G・ミッシュ)」のである。
それゆえ歴史化する精神の志向性分析の必要性が強調される、「絶対的で究極的な固有性をもつ精神的存在と、この精神の中でまたこの精神から生じたものとの真の分析、すなわち志向性分析が必要となる」(hus)のである。従って、『危機』書における<歴史への転換>なるものは、歴史化されていく志向性の分析というプログラムの徹底化なのである。それは「人類と文化的世界との相関的な存在様式の(すなわち志向性の)普遍的歴史性という全体的問題」(hus)の解明の企てである。しかも、結局のところ、能作する生=精神の律動性の探求であるこの志向性分析に、フッサールはやはり<理解>の名を与えざるをえない。外部から内部への遡行というディルタイ的意味での<理解>である。


こうして主観性の生こそが歴史の根拠、歴史そのものであり、それゆえ外化とそこからの立ち帰りとしての分析的遡行が必要であるというテーゼにおいて、両者は出会うのである。
そうである以上、ディルタイの<作用連関>の考え方と同様なものがフッサールにも見出される。作用連関とは意味を担いながら、新たな意味形成作用の単位であり、時代や文化として現出するが、最終的には歴史の全体のことである。この主題がフッサールでは次のように述べられる。「もともと歴史とは、根源的意味形成と意味沈殿が相互に共存しあい、相互に内在しあう生き生きとした運動以外の何ものでもない」(hus)。この共通性はまた、歴史についての両者の目的論的確信の類似と表裏一体をなす。ディルタイにおいてそれは、歴史とは人間の生の自己経験の場であり、従って生が姿を表すこの歴史こそが、歴史を扱う精神科学の体系的認識論的根拠づけでもあるという目的論的確信として帰結する。歴史と体系、理解行為とその認識論的根拠づけとは、作用連関の全歴史的目的論的性格において合流する。対応するようにフッサールには、ヨーロッパの歴史に内在的に働く理性の目的論が、歴史理解の根拠であるという確信がある。「認識論的起源と発生的起源を原理的に分離する支配的ドグマは・・・・根本的に誤っている」(hus)。


5 ディルタイおよびフッサールの「思想のほころび目」


だがディルタイフッサールの共通性はとりあえずここまである。分岐点は、歴史のアプリオリな本質構造についての考え方をめぐってである。(以下省略・・・)