コネクショニズム

「シリーズ心の哲学<2>ロボット篇」信原幸弘による序論より続き。
ここまでの流れ:古典(的計算)主義とコネクショニズムの類似と相違

  • 類似
    • 心の状態には心的表象が含まれるという立場(表象主義)を取る。
    • 認知過程を表象の変形過程とみなす→身体性認知科学等(表象なしの知性)とは対立。
  • 相違
    • 古典主義は認知過程を心的表象の構文論的構造にもとづく形式的な変形過程とみなすが、コネクショニズムは構文論的構造を欠く心的表象の非形式的な変形過程とみなす。
    • 古典主義はコンピュータ、コネクショニズムは脳の神経ネットワークを認知過程のモデルとする。

コネクショニズムにおける<構文論的構造を欠く心的表象の非形式的な変形過程>とは次のように段階的に設定されるものである。

  • 心とはニューロンに相当する単純なユニットを多数結合してできたネットワークである。
  • あるユニットが興奮すると、その興奮はそのユニットと結合された他のユニットに伝達される。
  • ユニット間の結合には重みがあり、大きな重みをもつものほど、興奮をよく伝達する。
  • ネットワークへの入力は、各ユニットの興奮の連鎖を経て最終的な興奮状態として出力される。
  • このようなネットワークの振る舞いは、一部のユニットが興奮してできる「興奮パターン」が次々と変形され最終的に出力となる興奮パターンを形成する過程と見なされる。ユニット間の結合の重みによって変形過程ならびに入力と出力の相関関係は決定される。

コネクショニズムにおいて心的表象とは一群のユニットの興奮パターンを意味する。この表象は、対象や性質が表象全体に分散して表わされ、それらの重ね合わせにより複合的な内容が表象されるため、「分散表象」と呼ばれる。分散表象は構文論的構造を欠くために、その変形過程も構文論的構造にもとづく形式的な過程ではない。

コネクショニズムの強みは学習による認知能力の獲得を容易に説明できる処にある。例えば顔の識別ができるネットワークは各結合の重みの微調整を繰返すことで入力に対する出力の誤差を減らしていくことによって顔を正しく識別できるようになっていく(誤差逆伝播法)。顔識別や機雷音と岩からの反射音の識別、文字の音読など、さまざまな認知能力をもつ人工ネットワークが作られたことでコネクショニズムは80年代に人気を博した。

80年代末から90年代にかけてコネクショニズムには様々な批判が寄せられるようになる。ここでは主なものを二つ挙げておく。

  • 認知能力における体系性が欠如している(フォーダーやピリシンなどによる批判):われわれの思考能力には、ある思考をもつことができる人はそれと関連する思考をもつことができるという「体系性」がある。例えば、「AさんはBさんを好き」と考えることができる人は、「BさんはAさんを好き」と考えることができる。古典主義では、前者の心的表象は「Aさん(主語)」+「好き(述語)」+「Bさん(目的語)」と表されるため、思考の言語の文法的規則に従って後者へ変形することは容易である。しかし、コネクショニズムでは、表象=興奮パターンは構文論的構造を持たないため、、「AさんはBさんを好き」を表す興奮パターンと、「BさんはAさんを好き」を表す興奮パターンは共通の要素および構造をもたない。したがって一方の興奮パターンを形成できるからといって他方を形成できるとは限らない。したがって、コネクショニズムでは思考能力の体系性が説明できない。
  • 消去主義を帰結する(S・スコウィッチら):心に関する日常的な理解を扱う素朴心理学(folk psychology)では、信念や欲求のような心的状態の存在が認められるが、こうした心的状態は、一定の命題にたいして一定の態度をとる状態であり、命題的態度と呼ばれる(ex地球が丸いという信念=「地球が丸い」という命題+信じるという態度)。命題は構文論的構造をもつので、命題的態度はまさに古典主義が想定するような心的状態である。しかし、コネクショニズムでは、命題的態度はその存在を否定され消去される。命題的態度は行動の原因として想定されるが、行動の原因となるのは脳状態である。したがって、もし命題的態度が存在するなら、それは脳状態と同一でなければならない。だが、コネクショニズムの立場では、脳状態(ニューロン群の興奮パターン)は構文論的構造をもたない。したがって、構文論的構造をもつ命題的態度は脳状態と同一ではありえない。こうしてコネクショニズムが正しければ、命題的態度は存在しえないことになる。