デリダの穴

下記の論文については、いずれ詳細に検討する必要があると思われるが、
まずはレジュメをアップしておく。


J・デリダ(1967)1983「人文科学の言語表現における構造と記号とゲーム」)

(『エクリチュールと差異』第10章。野村秀雄訳 法政大学出版局


➠<<事件>>とでも称しうるような何事かが、構造という概念の歴史のなかで生じた。
                        ↓
*構造という概念や、さらには構造という言葉までも、いまやエピステーメーの年代すなわち西欧の科学と同時に哲学の年代に達している。しかし、<<事件>>の起こるまでは、構造、というよりむしろ構造の構造性は、つねに中立化され還元せしめられてきたのである。すなわち、それに一つの中心を与え、ある現前点に、ある固定した起源にそれを引きもどそうとすることによって成立するような行為によって。

➠中心とは、構造の(全体の形式の内部における諸要素の)ゲームを許すものであり、
と同時に、それを制限し閉じるものであった。
↓というのも↓
中心においては諸要素の交換や変形は禁じられる。したがって中心は、本来的に独自なものであるが故に、任意の構造の中にあってその構造を支配しながら構造性から遁れてしまうところのものそれ自体を構成する、というふうにいつも考えられてきたのである。つまり、それは構造の中にあると同時に外にあるものであり、全体の中心にありながら、全体に属してはいないところのものであった。
↓したがって↓
➠中心のある構造という概念は矛盾した形で統一している。
:基礎としての一種の不動性と、それ自身ゲームから遁れているがために安定した一種の核心とによって構成された、基礎付けられたゲームという概念。
    ↓そこにおいて↓
ゲームの渦中における繰り返し・代替・変形・変換とそれに伴う苦悩は、現前の形のうちにいつでも起源(アルケー)を喚起し終末(テロス)を見越すことのできる、意味というものの歴史において把握され制御されてきた。終末論も考古学も、構造のもつ構造性を還元し、ゲームの外にあって充実した現前から構造を考えていこうという動きを示してきた。
↓したがって↓
構造概念の歴史、形而上学の歴史は中心から中心への一連の代替、連鎖の歴史であった。
  ↓しかし↓
➠<<事件>> の以後、構造の中心を求める欲求を支配していた法則が再考されるようになる。
 ・中心はなんらかの現存する実在の形において考えられないものとなった。
  →この時、言語が普遍的な問題性の領域に侵入し、
中心が不在なために、すべてが言語表現(ディスクール)となってくる。
(ただし、それは、中心、起源、超越性などの意味されるものが示差性の体系の外においては絶対に現前しないような体系としてディスクールが了解される限りにおいてである。)
    ↓
超越的な意味されるものが不在であれば、意味作用のおよぼす領域とその活動は無限に拡大されることになる。

➠構造の構造性の思考としてのこうした脱中心化現象は、どこでどのように生じたか?
:時代の総体に属す現象であるが、最も根本的な形で展開しかけたのは、
 ニーチェ形而上学、特に存在と真理の概念に対する批判。
 フロイト:自己現前(意識、主体、自己同一性など)に対する批判。 
 ハイデガー:現前としての存在の決定に対する破壊。

しかし、これらの破壊的な言語表現はすべて、ある種の循環に捉われている。つまり、命題が、それによって否定せんとするところのもの自体のもつ形式や論理や公準の中へと忍び込んでしまう。

例えば:記号によって感覚的なものと知的なものの対立を超越しようとするレヴィ=ストロースの試みは不可能である。何故なら、記号は常にその対立によって決定されるものだから。

循環への捉われ方は様々だが、大なり小なり循環の公式化および形式化に近づいている。
 :「人文諸科学」においては、ある一つが特権的な地位を占めている。民族学である。
 ↓というのも↓
 民族学は、脱中心化現象によって初めて可能になった科学であるから。
民族学成立の条件である民族中心主義批判は、
必然的に、形而上学とその諸概念の歴史の解体と同時に生じた。

➠だが民族学は、伝統の諸概念を利用するヨーロッパの科学である。
そのため、民族中心主義(形而上学)を告発する瞬間に、必然的に民族中心主義の諸前提(形而上学)を自らの言語表現の中に受け入れることになる(←循環の典型例)。
 ↓循環が不可避的であるにしても、問題にすべきは↓
形而上学の歴史に対する批判的な厳密さによって計られる言語表現の質である。
     ↓
➠以下ではレヴィ=ストロースのテキストを考察する(主に4つの論点に対して)。
:その理由は、彼の仕事において、批判的な言語表現に関する一つの理論を構成する源となる、<ある選択>が明白に述べられているから(+その選択をデリダは批判したいから)。


①<自然と文化:『親族の基本構造』>
 レヴィ=ストロースは、自然/文化の対立図式を利用する必要と、それを信頼することの不可能性を同時に経験してきている。
➠『基本構造』の出発点は次の定義と、そこから導かれる一つのスキャンダルである。
[定義]
・いかなる文化にもいかなる規範にも依存せず普遍的に見られるものは自然に属する。
・各社会の規範体系に依存し異なる社会構造において変化するものは文化に属する。
 [スキャンダル]
・近親相姦は社会的な規則でありながら同時に普遍性という性格を持っている。

➠だが、自然/文化を対立させる概念体系の内部においてしか、スキャンダルは存在しない。
:この時、近親相姦は、自然/文化という対立とともに体系をなす一切の哲学的概念に
先行し、おそらくはそれらの諸概念を可能ならしめる条件のごときものとなる。
↓こうして↓
(西洋-哲学的)言語がそれ自体を批判する必要を内に有していることが明らかにされる。
  (括弧内はレジュメ作成者による)
 この批判は二つの仕方で行われうる。
①哲学の外への脱出:哲学の歴史全体の基礎的な諸概念に不安を抱き、解体すること
②方法と真理の区別(レヴィ=ストロースの取った道筋)
伝統的概念に真理や厳密な意味を付与することを放棄し、ただそれらが所属する古い機械を壊すために役に立つ道具としてそれらを使用すること。
          ↓
➠人文諸科学の言語が自己を批判するには、このようにしてなのだ。
レヴィ=ストロースは以後常にこの二重の意図、すなわちその真理としての価値を批判するところのものを道具として保存することを保持していく。

              ↑(<ある選択>の第一の内実=循環の形式化*1

(↓そして、本稿においてデリダは以後常にこの意図の二重性を批判していく↓)


②<ブリコラージュ(寄せ集め細工):『野生の思考』>
ブリコラージュの形式の中には言語についての一種の批評というものがみとめられるのであり、それは批評の言語そのものである。

➠しかし、不完全なテクストの遺産から諸概念を借用することをブリコラージュと称するならば、一切の言語表現はブリコラージュだと言わねばならなくなる。したがって、レヴィ=ストロースが、それとの対比でブリコロール(寄木細工師)を定位するところの技師(エンジニア)は、自らの言語の全体を<他からは何も借りずに>構成する、絶対的な言葉の創造者、言葉そのものでなければならなくなる。一切のブリコラージュから無縁なエンジニアという発想はしたがって神学的な発想に他ならない。
 
➠このようなエンジニアあるいは歴史的な受容を拒む言語表現というものを信じることをやめてしまえば、完全な言語表現は全てブリコラージュとなってしまい、ブリコラージュという発想に意味を与えていた相違はただちに解消してしまうことになる。
(再び循環の形式化)

③<神話:『神話論理学』>
 レヴィ=ストロースの努力は、単に神話に関する構造的な科学を提起することに向けられているだけではない。同時に、というよりも第一に、神話に関する彼の言語表現=「神話学:が自らを反省し、批評するという契機に彼の努力は向けられている。また、この自己批判の契機は人文科学の諸領域における全言語に関わる。


➠「神話学」について何が語られているのか
 :ある一つの中心、主題、特権的な参照、源泉、あるいは絶対的な始まりなどに対するあらゆる参照の明白な放棄=脱中心化の現象である。
  ↓その結果↓
 科学的あるいは哲学的な言語表現の絶対的要請であるところのエピステメーは放棄され、それに対立して、神話-論理的言語表現(神話についての構造的な言語表現)それ自体が神話-形態的なものでなければならないものとして提示される。つまり、それは、それが語るところのものの形をとらなければならないのである。

(参照:p228神話論理学Ⅰからの引用)

➠しかし、レヴィ=ストロースの仕事のもつ必然性は納得されるにしても、それに伴う危険を看過するわけにはいかない。                              
 :もしも、神話-論理的なものが神話-形態的であるならば、神話についてのあらゆる言語表現が同じ価値を持つことになるのであろうか。それらの言語表現の質を区別できるような認識論を求める要求は全て放棄しなければならないのだろうか。この問いに答えるためには、哲学的な論旨と神話素との関係の問題が明瞭に提示されなければならず、レヴィ=ストロースはその問いに答えていない。

➠危険性は、構造主義と経験主義の関係において明確に現れる。
レヴィ=ストロースの神話分析は、
経験主義への批判(「神話の構文法を素描するためには完全なデータは必要ない」)であると同時に、経験的な試論(「新たなデータが出現すればいつでも補足したり否認できる」)として提示されている。
↓しかし、この主張には二重の公準が含まれている↓
鄯:神話の総体化の作業は、古典的な様式では不可能とされる。この場合、有限の言語表現をもって制御不可能なまま無限の分析の豊かさを求める経験的努力が示される。
鄱:非総体化の作業はゲームという概念のもとに規定される。この時、ある分析領域の無限性は具体的な有限の言語表現によって被いえないかわりに、それをゲームの領域(:有限な一総体という囲い枠の中で無限に行われる代替作業の領域)へと読み替えることで分析の可能性が担保される。


④<浮遊するシニフィアン:『マルセル・モースの業績解題』>
➠ゲームの領域において無限の代替作業が許されるのは、ただその領域において、代替作業のゲームを捉え正当化する一つの中心が欠けているからこそである。
 ↓
➠中心の不在によって可能となるこのゲームの働きは、代補作用の働きである。
記号が中心の不在の状態においてそのかわりになるのだが、さらに代補としてそこに付け加えられているために、中心が決定されて総体化の作業はし尽くされることがない。この付加作用は、意味されるものの側の欠如を補い、そのかわりをなそうとするものであるために、浮動的なのである。「それ自体に固有の意味を持たず、ただ意味の不在に対立することのみをその機能とする」記号(マナ型の観念)による、意味の「代補的な配分量」が意味するものと意味されるものとの補完的な関係を可能にする。

➠それゆえ、意味するものの過剰やその代補的な性格は、ある有限性に、すなわり代補されねばならぬある欠如によるのである。
 :この時、レヴィ=ストロースにおけるゲームの概念の重要性が理解されうる。
↓しかし、ゲームに対する参照は主に以下の二つの緊張関係のうちに行われる↓


鄯<歴史とゲームのあいだの緊張>
レヴィ=ストロースの仕事において、構造性や構造の内的独自性への敬意のために、時間と歴史が中立化されているのをみとめなければならない。
・新たな構造は、その本質的条件として、過去や源泉や原因との断絶を通じて出現する。
・構造的な組織の固有性の規定は、ある構造から他の構造への移行の問題を無視することによってしか、つまり歴史を括弧にいれることによってしか、できない。
・このような「構造主義的」な瞬間においては偶然や不連続という概念が不可欠となる。だからこそ彼は「言語は突然にしか発生しえなかった」としか言えなかったのである。


鄱<現前とゲームのあいだの緊張>
➠ゲームとは現前の遮断である。
なんらかの一要素の現前は、いつでも、何かを意味してその代替物となるひつとの参照なのであって、示差性の一組織体系の中に組み込まれており、ある連鎖の動きをたどるのである。


ゲームはいつでも不在と現前のゲームなのだが、しかし根本的にそれを考えようとするならば、現前か不在かという二者択一の以前において、それを考えてみなければならない。
ゲームというものの可能性から出発して、存在を現前か不在として考えなければならないのであってその逆ではない。

➠解釈や構造や記号やゲームについて、二つの解釈がある。
①不可能となってしまった不在の源への郷愁
レヴィ=ストロース民族学的な企画の動機として示す論理、郷愁、良心の呵責にこめられた一種の現前の倫理、源への郷愁の倫理、古風で自然な無垢とそれへの直接的なアクセスの破れという、ルソー的、否定的なゲームの思想。ゲームや記号の領域からのがれ出るような真理と起源を判読しようとつとめ、また判読できると夢見て、解釈の必要なぞまるで別世界のことのように見放すもの。

②世界のゲームと生成の無垢の肯定
積極的な解釈に委ねられた、誤謬も真理も源もない記号の世界のニーチェ的な肯定。もはや起源のほうには向かおうとせず、ゲームを肯定し、人間と人間主義の彼岸に達しようと試みる、というのは、人間とは、形而上学や存在-神学の歴史を通じてつまりみずからの歴史の全体を通じて、充実した現前や安定した根底などを夢想してきたあの存在の名なのであるから。

これら二つの解釈は、はなはだ問題のある仕方で人文諸科学と呼ばれているものの領域を分有しているのである。私としては、今日いずれか一つをえらぶ必要があるとは考えない。両者に共通の土壌、非還元的な相違の示差・遅延性を考えるべきである。そこには、今日の我々にはその受胎や生成や懐胎機関や働き等を垣間見ることしかできないある問題が存在するのである。

*1:うがった見方をすれば、デリダはこの時点(1967年)において、西洋近代批判としての人類学的言説のその後の混迷をある程度予言しているとも取れる。つまり、西洋批判としての人類学は、形而上学の諸理念をその価値を批判しながらも分析の道具として保存することによって可能となった。その結果、人類学的命題がそれによって否定せんとするところのもの自体のもつ形式や論理や公準の中へと忍び込んでしまうという循環が形式化される。より具体的には、近代的諸概念を適用すると分析しきれないということを指摘するだけで論文の結論部となりうるとか、あるいは近代的諸概念の否定形として新たな概念を作ることが有意とされそれ以上の分析が明確になされないといった帰結を生じているようにも思われる(exストラザーンの「非メログラフィー」)。おそらくこの循環の形式化は、意図的選択的なものとしては可視化されにくくなっていき、いわば人類学の学的無意識として拘束力を保持し続けてきた面もあるだろう。ただし、「脱構築」など、デリダ自身の言説もまた人文科学のなかで一般化されるなかで循環の形式化に一役買ったことは否めないが。しかし、レヴィ=ストロースを批判する彼の意図が、こうした形式化を乗り越えることにあったことは確認しておきたいところである。