言語と生命2

 
前回はすこし軌道がズレた。余計なことを考えている余裕はない。簡潔に、できるだけ直接的に。たいしたことは書いてない。あくまでアイディアとして機能するものを。


最初に興味をもったのはこの2冊(『言説分析の可能性』『生と権力の哲学』)におけるフーコー理解が明確に分かれるポイント、「生-権力」概念の扱いについて。前者では、前期から中期、特に『言葉と物』と『知の考古学』が主に扱われる。後者では、『知への意思』以降の展開を軸に全体の著作が配置される。『言説分析の可能性』において、「生-権力」が言及されることはほとんどない。例外的に言及している第一章、遠藤知巳論文ではその有効性はほぼ否定されている。遠藤は、前述したように、「全域を見渡す超越的視線を想定させる何か」を解体することが(フーコーの)言説分析の目的であるとした後で、次のように述べている。

フーコー自身にも、時に全域的な視線に身を委ねてしまう瞬間がある。[・・・]もっとも分かりやすいものから言えば、後期における「権力」への傾斜と、『知への意思』以降の「生-権力」概念が、そうした危険さをよく示している。「権力とは至るところで産出される関係の総体である」−記述の出来事としてしか成立しえないはずのあの多角形の全域が、ここでは「権力」という語によって名指されてしまっている。[・・・]ことに、「生-権力」が、十九世紀近代が有していた全域性への独特の素朴な信頼を―たぶん、彼にしてはかなり凡庸に―追認してしまう概念であるだけに、さらにまずい。「全体的かつ個別的に」というのはあまりにも十九世紀近代の理念そのままであって、近代的言説としての社会学からのずれが発生しないのだ。p49-50

遠藤の議論には独特の前提があるように思われる。


1「社会」とその全域性は言語によって担保されている。

われわれの知っている「社会」は、実体的な諸実践や可視的な諸要素の配列でありながら、しかし最終的にはどうしようもなくコトバ(による解釈)からできている。[・・・]社会的な営みはコトバからできているのではないが、「社会」を一つの全域として可視化しようとするのはつねにコトバなのである。p33

2言説分析とは、「社会=全域を見渡す超越的な視線を想定させる何か」との戦いである。
3その戦いにおいて、コトバにならない実践を持ち出すことはできない。

言説外実践を言説に対して独立的に定義したり、社会性の領域として実態視してみても意味がない。言説分析の論理に従うかぎり、言説自身の身分を二重化することによってしか、言説外実践の領域を設定することはできないからである。p42

遠藤の議論をまとめると(おそらく非常に乱暴ではあるが)次のようになる。通常の社会学が依拠する社会実在論では、コトバ(資料)の収集と集積によって再構成された「社会」がリアルな実体としての<社会>を的確に指し示す。しかし『社会=全域』はコトバによって作られるという知見を経由すれば、コトバの集積(言説)によって構成される「社会」は<社会>とは絶対に一致しない。というよりも、実体としての<社会>など存在しない。したがって、言説分析は、<社会=実体>と結び付けられた「社会=言説」に、他の「社会=言説」をぶつけることで、<社会=実体>の実現を無限に遅延していく試みである。


そんな試みを社会学者以外の誰が欲しているのか、とか、「近代的言説としての社会学からのずれが発生しない」のが何故(それだけで)問題なのか、とか非難する気はない。ここで興味があるのは、コトバをめぐる問題の配置のみだ。


対して、檜垣は次のように言う(別に社会学者のフーコー理解に抗してというわけではないし、おそらく遠藤のような記述に檜垣は哄笑をもって応えるだろうが、ここではポイントを明確にするために対置する)。

ある時期までのフーコーの議論は、確実に「言語」を、「人間」を超え、それを構成する事象として根源視していた。エピステーメーとは、「言説」の秩序によって構成されるものであった。しかし権力論以降、フーコーは、「言語」を基本的な思考軸にはしなくなる。
『生と権力の哲学』pP68

では、権力論以降、70年代からのフーコーにとっての基本的な思考軸とは何か。それこそが「生命」であると檜垣は続ける。遠藤にとっては否定すべきものでしかなかった「コトバの外」の導入は、檜垣にとってはフーコーの議論の中心軸として位置づけられる。


「言語」から「生命」への強調点の移行は、「人間」をめぐるエピステモロジー(科学認識論)としてのフーコーの試みに沿って起こる。ある対象が認識可能になること(対象が認識可能なものとして成立すること)の条件を分析するエピステモロジーを、近代的な「人間」概念に適用すること、それがフーコーの一貫した試みであると檜垣は位置づける。その試みは、「真理への意思」を統括するものとして、「自由」や「平等」や「人権」といった近代的政治理念の源泉となってきた「人間」という事象の形成と解体を描きだすものである(p66-7)。


前期の著作(とりわけ『言葉と物』や『狂気の歴史』)においては、「理性的」存在としての「人間」の成立において、「非理性」、「非真理」つまりは「非人間」の<排除>が果たした役割が重視される。「非人間」と「人間」の混在していた(としか今では表現できない)ルネッサンス期から、「非人間」が対象化され始めた17世紀を経て、18世紀には「正常な人間」に対して「非人間=狂人」が明確に対象化され、組織的な排除の体制が確立される。人間「ではない」ものとしての「非人間」が対象化されることで、初めて成立する「人間」という事象。ここでは、「ではない」=排除及び分割、の働きを担うもの、つまり言語が中心的な役割を果たすものとして位置づけられる。そこでは、排除されたものとしての狂気の言語(精神病者である作家や芸術家が紡ぐ言葉)にフーコーのシンパシーは向けられている。


しかし、権力論への移行のなかで、「排除」という図式と「排除されたもの」へのロマンチックなシンパシーが次第になくなっていくと檜垣は論じる。そこでテーマになるのは、もはや「人間」とその外部との排斥関係ではなく、むしろ「人間」を形成する力の組成に焦点が当てられる。「『非人間』であるものが、どのように『人間』を生み出していくのかを辿ることが大きなテーマとなる」(p73)のである。このシフトチェンジにともなって思考の基軸も以下のように変化する。

「排除」の分析において中心を占めていた「言語」のモデルは、率直に「生」にとって代わられる。「言説」の装置が含意している「排除」的な分節化という原理が、「生命」に備わった、秩序の「生産」という論脈に移行するのである。p73


檜垣によれば、60年代までのフーコーは、「言語」を「理性」や「人間」に対してより根源的な位相にあるものとする思考に少なからず依拠していた。「言語」による排除や分割や禁止によって「人間ではないもの」が対象化され、それによって「人間」という事象が成立するというこの図式はしかし、70年代の権力論への移行の後には姿を消していく。その明確な転回点となるのが、『性の歴史』第一巻における<生権力>概念の登場である。


ここでフーコーは二つの権力のあり方を対置させる。


1法的、超越的権力
臣下の生殺与奪の特権をもった、君主の至上の権力によって象徴化されたもの。
「死なせるか生きるがままにしておく」権力(『性の歴史 第一巻』p175)。


2生権力
強化、管理、監視、増大、組織化によってそれ自身の機能をはたすもの。
「生きさせるか、死の中に廃棄する」権力(『性の歴史 第一巻』p175)。


前者の権力は、死に対して積極的に介入し生に対しては消極的に(「介入しない」という形で)配置する
後者の権力は、生に対して積極的に介入し死に対しては消極的に(「介入しない」という形で)配置する


前者から後者への移行において、権力は生物体としての身体の生存を、自らの対象として発見する。「それは歴史の中への生命の登場に他ならず―つまり知と権力の次元に人間という種の生命に固有な現象が登場したということであり―政治の技術の領域へのその登場だったのである。」(『性の歴史 第一巻』p179)。権力は生の排除ではなく、生に寄生しつつそれを組織化していく種々の働きのなかで機能するものへと変容する。このようにして近代的な「人間」が存立し、「人間」の正常性に依拠する政治が成立していく。


遠藤論文と対応させるならば、<生権力>概念以降のフーコーにおいては、人間やその関係の総体としての「社会」の実定性を支えるものが、言語から生命に移行していく、と言えるだろうか。


檜垣は、フーコーが歴史的展開のなかに対置した、法=超越的権力と生権力という二項を、アガンベンを援用しながらより一般的な局面へと展開していく。アガンベンによる<生権力>論の展開を乱暴にまとめると次のようになるだろう。以下工事中・・・

(↓以降追記06/7/25↓)
この記事は、当初の計画で考えようとしていたことに先に結論がでてしまい長々と放置していたが、
このままではおさまりも悪く、ここからの展開も多少考えられようになってきたので現時点での考察を以下、非常に乱暴ではあるが記述してみる。

まず、檜垣の議論では、フーコーが前者から後者への歴史的推移として描き出した超越的権力/生権力という二項が、アガンベンを介してビオス/ゾーエという通(西洋)史的な対立概念に関係づけられる。

超越―抑圧型の権力は、言語的な段階で「主体化」された構成員を念頭に置く。それは「意識的」なコミュニケーションによって構築される共同体のモデルである。他方、<生政治学>的な権力は、言語的「主体」の段階に先立つような、身体・生命レヴェルでの生けるものの働きに焦点を定める。それは明示的なコミュニケーションや合意以前にすでに果たされてしまっている、無意識の力の伝播を対象とする。
この両者は、アガンベンが、ビオスとゾーエという、生命を意味する二つのギリシア語を区別した事情と重なり合う。アガンベンによれば、ビオスによって提示されるのは、言語を使ってポリスの仕事をこなす、公共的な生のことである。そして、ゾーエが意味するものは、生物的に唯生きることとしての「剥き出しの生」のことだという。ゾーエは、ギリシア的な政治哲学の範囲では、家屋という私的な領域において扱われていた。それは、食事や性に関する家政的なものを指し、まさに公的で政治的な生の舞台からは排除されていた。P41*1


アガンベンは、生権力論を、<超越的・法的・言語的>な権力による<ただ生きていること=剥き出しの生>の排除と包摂が主権権力の基本的な機制である、という形で読み替えていく。フーコーが歴史的推移として描きだした生権力の働きは、むしろその機制の歴史的な一局面、つまりゾーエが私的空間に留まるものではなくなり、まさに「公的で政治的な生の舞台」の中心として登場する契機において把握される。


さて、ここで一度まとめてみよう。後期フーコー読解の一般的展開としての本書の強みは、まさに『言説分析の可能性』で支配的だったような言説-権力分析としてのフーコー受容に対して、生命を中心とする対立軸を明確に提示したことにあるだろう。アガンベンを経由することで、生権力論における生命の位相を、言説分析の結果取り出された歴史的事象としてではなく、言説が生み出す社会性と対峙する領域をマークする分析概念として配置することが可能になっている。


個人的には、流通する言語とともに切り出されるリアリティの実質を、言語外の領域との関係において捉えるという視点を提示したことが本書の一番のポイントだと感じる。

「個人」によって行われる言語的なレヴェルでのコミュニケーションや合意、「個人」を前提とする支配の力、それは「生命」という水準での関係性を必要とするのではないか。
[・・・]人間の身体は、「言語」と「自己意識」をもった「主体」であると同時に、無意識のうちに相互に統制し、そのありかたを変容させる生命の「主体」でもある。もちろん、人間の身体には、昆虫や鳥や魚が示すほどの可塑性はない。それは生命体としての人間の進化が、ある段階までに行き着いたことの結果であるのかもしれない。しかし、人間の身体は、まさに共同体としての働きを発達させてもいる。それはやはり、生命的な水準で、集団総体の結びつきや繋がり、そこでの流れや動きを鋭敏に察知し、それは基盤としながら「私」であるものの実質を定めるのである。<生権力>という描き方は、こうした生命としての「主体」の水準に踏み込んでいくものである。p39


「抵抗」というキーワードを依然として前面に出していることで思想的な色彩が強いように思われるのかもしれないが、フランス現代思想系の議論は、しばしば「最も論理的であることは最も倫理的であることだ」という前提から成り立っていることは見過ごさないほうがいい。日本での受容過程はしばしば倫理的-思想的な側面のみが先行して理解されることで、その論理的把握が軽視される結果になっているとも思われる。本書もまた、外見的な思想的言明と表裏一体となっている論理的配置をいかに取り出しうるかに読解の可能性が生まれてくる。ただ、その有効性は本書を含む生命-社会論の今後の展開しだいであり、本書だけで判断するのは難しい。


例えば、ゾーエとしての生命という概念があまりに茫漠としていて有用ではないという批判が十分考えられるが、本書ではビオス<言語-超越-法>という通常の社会分析の基本となっている事項に対して、それらによってはおさまりきらないものとして生命の位相を取り出すという戦略が取られているため、生命に関わる理論的精緻化が貧しいのはある程度仕方のないところだろう。対して、檜垣の専門領域内での展開においてはベルクソンドゥルーズラインの「生の哲学」に依拠しながら、生命の側から歴史ないし社会へのビオス的視界を解体していくという戦略が取られている((檜垣立哉2006「<生の哲学>における身体・空間論の展開」『年報人間科学』第27号』)。


むしろ、問題なのは、どちらのラインでも、ビオスとゾーエの関係、特に言語と生命の関係とはいかなるものかという問いが十分に追求されていないことにある。ここでの問題は、生命が非言語として提示されることによって両者の関係づけが停止してしまうことにある。アガンベンの議論は、言語あるいは法がビオスと結びついてゾーエを排除しつつ包含するという図式に基本的には立っているようにみえる。そのためそもそも生命からいかにして言語が生まれてくるのかという問い、生命と言語はわれわれの生(ゾーエとビオスの交点)においていかに関係しているのかという問いが十分に解決されていない。


この点から派生する問題として、「生命としての<主体>」というアイディアが我々の日常といかにリンクされうるかということが気にかかる。言語を操作するものとしての<主体>、つまりビオスと結びついた個人という自明の前提は非常に広範囲で強固な基盤をもっている。言語ないし記号の社会性との関連において精緻な理論化がなされないかぎり、「生命」をただ賞賛する党派的な主張に堕ちる危険性は高い。例えば檜垣は、本書で、デリダレヴィナスの展開したラインをドゥルーズフーコーが展開したラインに対置させる。その上で、前者が超越的-言語的-法的な「真理」の根拠づけという前提に依拠しながら、その前提の崩壊を刻印した上で、それを崩壊させる契機を「正義」や「他者」という形で再び根拠として持ち出してくることを指摘する。「真理」の不在に対し生真面目に応答するデリダ-レヴィナスラインに対してフーコー-ドゥルーズラインの展開は次のように描かれる。

「真理」の「不在」が強く意識されるのは、そもそもが「真理」を規定するような、根本的な認識の原理が変更されたこと以上でも以下でもない。そこでは「真理」を想定する時代とは、別の時代が現れているのである。それに対して、積極的な姿を与えること、これがフーコーの議論の行き着く先を示している。P65

 ここで第一文と第二文には微妙なブレがある。檜垣の言う現代は、「真理」を規定する(近代的ではない)新たな認識の原理が現れている時代なのか(第一文)、それとも「真理」を規定する認識の原理が存在しなくてもよくなってしまった時代なのか(第二文)。この微妙なブレは、第三文における「積極的な姿を与えること」の内実を―さらにはドゥルーズアガンベンネグリを経由したフーコーの生命論的展開の有効性を―曖昧なものにしていると思われる。檜垣は「真理」なしの「生命」を肯定したいのか、それとも「生命」と結びついた新たな「真理」を提示したいのか?。そもそも「生命」と「真理」は結びつくのか、つかないのか、明確ではない。このあたりの曖昧さは、檜垣が(前前書『ドゥルーズ―解けない問いを生きる』での見せ方と同様に)依然としてドゥルーズ-フーコーのラインをデリダ-レヴィナスのラインとの対比あるいは反転像によって際立たせていることとも関連する限界であると考えられる。


とはいえ、6月の時点ですでにここで書いたようなことは頭のなかに出揃っていた。なかなか続きが書けなかったのは、むしろ、この後に課題となるものがはっきりしてしまったからだ。つまり生命と言語の接点としての記号であり、その世界/社会との関わりとしての技術=テクノロジーである。本書で提示された議論を最も有効に活用することができたとしたら、もはや必要なくなった梯子として捨て去ることができるだろう。その試金石として、個人的には<生命、記号、技術>の人類学的展開としてのレヴィ=ストロース再考が主題となる。その道筋において、現在一休みしている浜本儀礼論の考察をまとめていくことになる。


最後に。全く個人的な見解だが、本書のポイントは、解釈の無限ループによって衰退しつつある人文社会科学理論系の議論を、生命論を介し更新することによって、近い将来決定的になるであろう文化ないし社会理論の自然主義化の動きに喜んで吸収されながらそれを内側から破壊し変形させる契機を孕んでいることである。しかし、そのために必要な準備としてはまだまだ進んでいないだろう。このままではおそらくなすすべもなく無力であり、感傷的な語彙に逃げることには何の価値もない。もはや「抵抗」などと言ってる場合ではないのだ。

*1:ビオス/ゾーエ概念については小泉義之氏による次の定義が直感的な理解としてはわかりやすいと思う。「「生きるに値しない生命」といった時に、前半の「生きる」という語で示されている生命のあり方がビオスで、生きるに値しなくてもただ生きているということそのものとして後半で言及されている「生命」のあり方がゾーエ」:雑誌『談』における金森修氏との対談での発言より要旨抜粋←多少うろおぼえのため詳細は間違っているかもしれません