非言語的メタコミュニケーション


 このところ、ブログに費やせる時間が不足しているので、二年前に書いた文章を採録する。あまりに単純なクリプキ理解や、乱暴な論の展開は恥ずかしいかぎりだが、指示的=言語的メタコミュニケーションと身体的=非言語的メタコミュニケーションの間にいかなる関係があるか、という、この当時は全く歯がたたなかった問題は本論の展開にも関わってくる可能性があり、そろそろ再考するべきタイミングだと考えるので。


*あとこちら(http://blog.drecom.jp/chimidoro/)に、軽めの文章を書くスペースを作りました。本来の研究分野からは離れた批評というかエッセイに近いものを書いていくつもりですので、興味のある方は御覧下さい。文体はかなり違いますが、やたらと長いのはあまり変わらないかもしれません。こちらはなるべく読みやすくを心がけたいと思ってはいますが。


固有名と人格とそのいずれでもないもの


1.二つの立場


 ロールズは、はだの色、地位、性別、才能、欲望など個々人の持つ属性を無知のベールによって見えなくし人々が契約を結ぶことで正義の社会をつくることができると主張する。対してコミュニタリアンたちは、無知のベールで隠したあとに残るものは何もない、それらの属性を互いに知らない人間は判断の能力さえ失うだろうと批判する。
 この論争はWhat I am(わたしがそうであるもの)とWhat I have(わたしがもっているもの)をいかに区別するかという問題として整理される。コミュニタリアンの主張は、上記の属性は決して資源(What I have)ではなく人格(What I am)である、という確信に支えられている。一方で、これらの属性は自分にとって偶発的なものにすぎず、それによって差別されることは不当であると感じる人々にとってはロールズの主張は説得力がある。本稿の目的は、この2つの立場を支えている日常的な感覚が実は同じ源から発していることを明らかにすることで両者の対立を乗り越える地点を示すことである。


2.コミュニタリアンラッセ


ある個人Xについて可能な記述、「Xは・・・である」は固有名Xについての記述と言いかえることができる。Xとはどんな人か、と尋ねられたとき私達はXを含む記述を連ねることでそれに答えようとする。ここで、Xについて可能な記述を全て並べあげたうえで、それを一つづつ否定していくことを考えてみよう。その時、X本人や知人は記述が減少していくにつれて、それらが指し示すXという人物がしだいに自分の知っている彼(女)とは似ても似つかない人になっていくように感じるだろう。この実感がコミュニタリアンの主張を支えている。確定記述が減少することでXがXでなくなるという感覚が、Xについて可能な記述は、Xにとって本質的なもの(What I am)と単なる性質にすぎないもの(What I have)に分けることができるという確信を支えているのだ。「Xは一日に平均三回トイレにいく」という記述が否定されてもXはXのままだと言うことはできるが、「Xは男性である」という記述が否定されたらXは今までのXではなくなると考えられる時、前者はXの偶発的な性質であり、後者はXの本質に関わることになるだろう。このように考えると、固有名Xは有限個の記述の束によって表すことができることになる。これはラッセルの記述主義に対応する考え方である。

 
3.ロールズクリプキ


しかし一方で、私達はどんなに本質的とされることでも変わることがあることを経験から知っている。「Xは小心者であると言われてきたが実は勇気ある人間である」とされたり、「Xは男であるとされてきたが実は女性であった」とされることは可能である。こういった時、男性から女性への変化を可能にしたものこそ私の本質ではないのか、と考えるのは自然なことに感じられる。属性は変化しうる以上、本質は属性を超えたところに存在するという実感がロールズの主張を支えているわけだ。これはラッセルを批判したクリプキの反・記述主義に対応する考え方である。ある個人を表す名「アリストレス」は記述主義によれば、「プラトンの弟子」「『自然学の著者』」「アレクサンダー大王の師」云々といった諸属性の集合に還元することができる。


しかし、例えばいま、アリストレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかったという新事実が判明したとする。このとき、我々はアリストテレスに関する経験的知を修正するだけであって、アリストテレスが消え去ってしまうわけではない。したがって、名「アリストテレス」は「アレクサンダー大王の師」という確定記述とは等置されない。この思考実験は原理的に複数の属性に拡張可能であるから、(アリストテレスはAもBもCも行わなかった・・・)結局、名「アリストテレス」は有限個の確定記述と等置されない。つまり固有名は確定記述には還元できない。


4.記述をこえて


固有名は確定記述には還元できないのならば、固有名の中には確定記述に還元できないある種の剰余が宿っていると考えることもできる。この剰余に、変化を可能にする力の源や個人の本質を見出そうとする誘惑にかられても無理はないだろう。現に、個人の「意思」や「精神」や「愛情」が、はだの色や性別や地位によって生み出された困難に打ち勝っていく物語を私達は子供のころから読み聞かせられてきた。しかし、これらの神話にはごまかしがある。コミュニタリアンの立場に立てばすぐにその欠陥を指摘することができる。無知のベールによって個人の物理的精神的属性を全て隠してしまえば、彼の「意思」や「精神」や「愛情」は見えなくなってしまうではないかと。この時、これらの概念は再び失墜しいくつかの属性の複合にすぎなくなるだろう。
どうやら私達は袋小路に迷いこんだようだ。個人(固有名)は属性(確定記述)の集合であるという記述主義的思考を分析すれば、個人(固有名)は属性(確定記述)の集合には還元できないという反・記述主義的思考にいきつき、反・記述主義的思考を分析すれば記述主義的思考へといきつくというダブルバインド、それは次のように図示できる。

個人は属性で説明するしかない→個人は属性の束ではない→属性の束に還元できない剰余に個人の本質がある→そのような剰余は個人の持っているいかなる能力とも無縁である→→個人は属性で説明するしかない→・・・(以下、無限に続く)

 もう一度、問題を整理しよう。ロールズは人種などの属性は個人にとって偶発的な性質(What I have)にすぎず、それらを隠したときに現れる個人の本質(What I am)によって社会を作るべきだと論じた。前述したように、「個人の属性(確定記述)は変化しうる」という日常的感覚が彼の主張の説得力を支えている。一方、コミュニタリアンは人種などの属性こそ個人の本質(What I am)であると論じる。「個人は属性(確定記述)で表すしかない」という日常的感覚が彼らの主張を支えている。
 つまり問題は、二つの日常的には並存している感覚が、矛盾する主張をそれぞれ支えていることにある。日常的感覚に説得力があるゆえに、属性は個人の本質であるという立場(コミュニタリアン)と個人の本質は属性を超えたところにあるという立場(ロールズ)のどちらに依拠してもどちらも肯定できないというダブルバインド状態から抜け出すことができないのだ。袋小路にはまらないためには、二つの感覚に同時に依拠しながら個人の本質(What I am)と属性(確定記述)を別のやり方で関係づけることが必要である。それはいかにして可能だろうか。以下ではG・ベイトソンが1954年に発表した「遊びと空想の理論」に依拠してこの問題を考えていきたい。

 
5.個人の自由から社会の自由へ


 ベイトソンは、戦うふりをしてじゃれあっているサルの観察から出発して、動物が「これは遊びだ」というシグナルを交換していることに注目する。動物は人間のように言葉にして「これは遊びだ」とは言えないが、「今噛みついたのは、本気で噛みついたのではなく、噛みつきごっこをしたのだ」というメッセージを、噛む行為そのものの中で伝えている。
 彼は、ラッセルの言う「論理階型の混同」という規則違反がここで起こっていると指摘する。「これは噛みつきごっこだ」というメッセージは、「これは噛みつきだ」というメッセージについてのメッセージ、つまりメタメッセージである。前者は後者より一段高いレベル(論理階型)に位置している。しかし、サルは実際の「噛みつき」によって「これは噛みつきごっこだ」ということを伝えているのだから、同じレベルにおいて本来異なるレベルに位置する事柄が語られていることになる。ここに「論理階型の混同」が起こっている。
 重要なのは、サルの相互行為において(「噛みつく」という)行為そのものによって、その行為が把握されるところのフレーム(「これは噛みつきごっこだ」ひいては「これは遊びだ」)が構成されているということだ。このようなメタコミニケーションのモデルを、ここでは身体的なメタコミニケーションとする。
 それに対して、人間はサルと違い、「これは遊びだ」と口に出して言うことによって行為のフレームを指示することもできる。このようなメタコミニケーションのモデルを、「指示的denotative」メタコミニケーションとする。
 それに対して身体的メタコミニケーションの特徴は、「これはAだ」というメッセージを「これは<Aではない何か>ではない」というメッセージによって伝達することである。サルは「これは遊び(=かみつきっこ)である」ということを「これは<あそびではない何か(噛みつき)>ではない」という形で表現する。これらのシグナルは、<Aではない何か>という現実には存在しないことを具体的に指し示すところに特徴がある。「かみつきっこ」は「噛みつき」を具体的に表したうえで、それが現実には存在しないことを表現することで可能になっている。これに対して、指示的(言語的)な伝達では、「これはAである」は「これは<Aではない>ではない」を表すにすぎない。
 身体的メタコミニケーションの特徴はメタメッセージが不安定なことにある。ベイトソンはアンダマン島の停戦の儀礼を取り上げて考察している。この儀礼では、双方が相手を自由に攻撃する儀式を経たあとで、正式な停戦が訪れる。しかし、平和のための儀礼的攻撃が、「本気」の攻撃にうけとられ、そこでまたホットな戦闘に逆戻りするというケースがときに見られるのだ。つまり、「これはAである」が「これは<Aではない何か>ではない」という形で伝達される時、常に「これはAではない何かである」を表してしまう可能性がある。
 個人の本質とその属性をめぐる私達の日常的なやり取りを、身体的メタコミュニケーションとして考えると、前述した二つの日常的感覚を支えている共通の基盤が見えてくる。個人を属性で表そうとする「XはAである」というメッセージが、「Xは<Aではない何か>ではない」という形で伝達されているということが、「Xは<Aではない何か>である」という属性の変化を肯定するメッセージが生じる可能性を支えているのである。


 この時、<Aではない何か>が現実には存在しないにも関わらず具体的なものとして示されることが決定的に重要である。指示的メタコミュニケーションでこれに相当するのは<Aではない>という純粋に論理学的な概念でしかない。個人を属性で表す言明が具体的な空想を宿していることが変化の可能性を支えているのだ。例えば、「マイケル・ジャクソンは黒人である」という言明が「マイケル・ジャクソンは黒人でない何かではない」という形で伝達されているとしよう。<黒人ではない何か>が例えば「肌の色が黒い」という肉体的特徴と結び付けられたとき、「肌の色が白い」現在の彼は黒人ではないことになる。だからといって、実践的コミュニケーションが常に変化を導くわけではない。色白のマイケル・ジャクソンを黒人に戻すことはそれほど難しくない。例えば、白人にあこがれるという精神的特徴を持たないことを<黒人でない何か>の具体的内容として想定すれば、彼の肌の色の変化は白人になりたいと願う黒人の願望として理解され「マイケル・ジャクソンは黒人である」という言明が再び伝達されるようになる。この言明を再び覆すことは可能であるが、それができるかどうかは、実際のやり取り次第である。<黒人でない何か>は具体的な形をとる以上、それを現実化できないという経験を繰り返すことで「Xは黒人である」という言明の説得力は増していくのである。


 個人が属性で表せることと、属性が変化しうることの並存は、このように「XはAである」という情報の伝達が「Xは<Aではない何か>ではない」というかたちでなされていることによって説明できる。<Aではない何か>がつねに具体的であることが、それを現実化することの可能性と、それが現実化しないという確信を支えている。ロールズコミュニタリアンの論争が出口のないダブルバインドに迷いこんでしまう原因は、彼らが、自由(属性が変化しうる可能性)と同一性(属性が変化しないという確信)を、個々人のうちにあるものとして描き出そうとしたことにある。
自由と同一性を支えているのは、指示的ではないコミュニケーション、二重の世界を結びつける日常的なやり取りである。筆者自身は属性を変化させる力を尊重する社会は、それが「正義」かどうかは別として望ましいと考える点でロールズに賛同する。しかし、その実現のために必要となるのは、「無知のヴェール」という概念道具によって浮かび上がる属性から自由な剰余としての個人ではなく、やり取りにおいて自由な社会であり、身体的なメタコミニケーションを尊重する制度であると考える。


6.結論にかえて


以上の議論を踏まえた上で、個人を捉える別のやりかたを提示したい。それは個人の表象を美術作品との類比から説明するものである。例えば、絵画においてその作品を他の要素から切り離すものとして額縁がある。ベイトソンによれば、ルオーやブレイクは絵の中の人物や事物を輪郭で縁取って描いた。その輪郭線が<図>と<地>を画す線になっており、さらに<地>が額縁によって括り取られているという二重の構造が作品を作品たらしめている。これは単に枠の中に枠があるということではない。それは<図>を浮き立たせるうえで<地>自体も枠づけられなければならない、という心的過程における必要の現れなのだ。この必要が満たされないとき(例:古物屋のウィンドウに彫像が立っている場合)われわれは落ち着かない気分になる。一つの作品を可能にするものを、<図>と<地>と<図>でも<地>でもないもの、という3つの領域の相互作用に求めるベイトソンの主張を個人の表象に置き換えてみよう。この時、Xという個人は、Xの属性(<図>)とXの属性ではないもの(<地>)とXでないもの(<図>でも<地>でもないもの)という3つの領域によって表される。本稿で提示した個人のあり方の動態は、Xをめぐる人々の実践的メタコミニケーションが<図>と<地>の流動的な変化をもたらし、それによって(そのたびごとに)、XとXでないものの境界が設定されていくすがたとして描き出すことができる。


デュシャンが便器を美術館に置いたときに、第一に変化したのは便器の属性(<図>)ではなく便器を縁取る具体的な空想<地>と便器の属性の関係であり、そうして、どこにでもある便器が美術作品としての属性を帯びるようになったのだ。同様に、私達の自由は属性を変化させることにあるのではなく、属性とそうでないものの関係をくみかえる流動的なコミュニケーションにこそあるのではないだろうか。