70年代からオチがない。


論文を書く能力がついていくということは、漫才コンビが育っていく過程に似ているような気がします。優れたボケは「みんながほんとはわかっているけれどもうまく意識化できないことをなんとなくいってしまうひと」だと感じますが、それをみんなにわかってもらうためには優れたツッコミが必要です。ボケだけでもだめ、ツッコミだけでもだめ。ボケが走ってツッコミがそれを抑制する。これは、おそらく漫才コンビとしては基本ラインであり、それだけなら二流に留まるのかもしれません。ツッコミがボケを抑制しつつ、さらなるボケの加速を可能にする。だからこそ、漫才で笑う私たちは、もっともっと先に自分たちを連れて行ってくれることを期待しながら笑いころげれるのだと思います。


かくいう自分はどうかといえば、最初は完全なボケ型だったように思います。色んなヒトがツッコミ入れてくれました。恵まれていたと思います。その中で、ツッコミに負けないボケをかまそうとしている間に、自分の頭のなかにツッコミ君が次第に育っていったように感じます。そうなると、今度は全力でボケてる先人たちの全力さがわかるようになり、彼等のボケにツッコミいれながら自分のボケを磨いていくことが少しはできるようになってきたようにも思うわけです。
 色んなタイプの漫才コンビがいるように、色んなタイプの論文の書き方があります。ボケは優れた文献からの引用にまかせて、鋭く突っ込むことに冴えをみせる(ピンでもやれるツッコミ芸人的)論文。どこまでもボケつづけているようで、読者が有意なツッコミをかます契機を各所に用意している(ピンでもやれるボケ芸人的)論文。この世界全てにツッコミ入れる(さんま的)論文。この世界全てに対してボケ続ける(これを本当にやったら芸人は事故って死にます横山やすし的)論文。と、ここまでいければもはや論文ではなく、名著あるいは奇書のたぐいになりますが。


話はいきなり飛んで、やはりポストモダンというのはモダンが強固に完成したからこそ可能であったのだろうと感じます。モダンというのも、ガリレオ君やデカルト君たちがやり始めたときにはおそらく最強に笑えるボケだったのではないでしょうか。それにツッコミ入れてる間に、ボケとツッコミをバランスさせる強固なテンプレートができあがってきた。ような気がします。というのも、通俗的な意味でポストモダンという時、真っ先に思い浮かぶのは、モダンのツッコミを裏切りつづけていれば何かを言えたことになっているはずだというボケ至上主義(一部の文芸批評や記号論)、あるいは、モダンのボケにツッコミつづけていれば何かを言えたことになっているはずだというツッコミ至上主義(一部の批判理論、抵抗論、反科学論、文化相対主義、そしてカルチュラルスタディーズ。あくまで一部のではありますが。)であるわけで。それが可能だったのは、やはりモダンというのがあまりに強固にボケとツッコミをバランスさせてしまったように見えたからではないかと。そして、今となってはもはやどちらのやり方も笑えない。それははっきりしてきたように思います*1。正直、それが分かっていない方々には全て退場していただきたいと思います。でも、それをお願いするためにはちゃんと笑える漫才をつくっていかないと。
というわけで、がんばらないといけませんね。わたしもあなたも。

*1:こうした判断を明確に提示したという一点においてだけでも、ネグリ&ハート『帝国』はやはり評価すべき本だと思います。