うーん、気になる2


ダン・スペルベル1984『人類学とは何か――その知的枠組みを問う』菅野盾樹(訳)紀伊国屋書店
(=Dan Sperber 1982 La savoir des anthropologues, 1979 La pensee est-ele pre-rationnele? )

p27

彼(クリフォード・ギアツ)は、ディルタイの解釈学的伝統と現代記号論の両方に依拠しつつ、文化事象を記述する正しい、唯一でさえある方法はまさにそれを解釈することだと論じている。なぜだろうか。その理由は、文化現象とは意味の乗り物、つまり記号、メッセージ、テキストであること――ギアツは書いている、「ある民族の文化とはテキストの総体である」と――また解釈とは記述の特殊な形態、つまり意味を持つ文化事象にあつらえむきの記述であること、これらの点にある。人類学は、それゆえ、科学にはちがいないが、特殊なタイプの科学、すなわち解釈をこととする科学なのだ。

(伏線の)本筋には関係がないが、
念のため、スペルベル本人の評価もあわせて前後の文脈をまとめておく。


「人類学は本当に科学なのか。そうであるとしても、それらは自然科学と同じような科学なのか」
この問いに対して、スペルベルは三つの代表的な回答を挙げる。


1、ラドクリフ=ブラウン
「人類学は社会に関する自然科学だ。人類学が自然科学に発達する場合の唯一の障害は、克服されるべき偏見と改められるべき因習にすぎない」

エヴァンス=プリチャード
人類学は科学ではなくむしろ人文学(ユマニテ)に属する。つまり、
「人類学は社会を自然に属する体系としてではなく精神的体系として研究する[・・・]、人類学は過程よりむしろ意図(デザイン)に関心を持つ[・・・]、それゆえ人類学は科学的法則ではなく、型(パターンズ)を探求し、説明より解釈をこととするのである。

そして、3つめが(『今日、数多くの擁護者を見出している』)ギアーツの見解である。
もちろんスペルベル自身はギアーツの見解をも退ける。

p28

しかし、文化現象を記号へ、文化を意味の体系に還元できるだろうか。『象徴表現とは何か』で私はそのような還元が許されぬことを長々と説明した。もし「意味」という語を広義に解するなら、任意のものが意味することになってしまう。たとえば、雲は雨が降りそうだということを意味する、というぐあいである。こうした意味で「意味する」ということは文化現象の特徴ではなく、それゆえ当面する問題にとって意義を欠くのである。もし「意味」をもっと精確に、たとえば言語学でそうするように定義する場合、たしかに意味現象は文化の全般にわたって見出されるが、しかしそれだけが唯一のものではない。つまり意味現象は別種の、たとえば生態学的事象や心理学的事象と織り合わされているだ。「テキスト」にそれにふさわしい特別な記述を適用するという、人類学者のイメージは確かに魅力的だ。とはいえそれは、人を誤らすイメージである。

本書については、後にあらためて検討するつもり。


もうひとつ資料を↓


太田好信 学際性とは何か
『比文創立十周年・記念文集』(2004年刊行)、92-101頁

七十年中盤、アメリカ合衆国での人文・社会科学系学問――とくに、文化人類学社会学政治学歴史学(とくに社会史)、一部の哲学、ならびに文学理論――は、大きな転換期にあった。これは、日本においても山口昌男記号論を中心した「人文系学問の再編成」を主張し始めた時期と同一である。アメリカ合衆国で、この兆候をもっとも象徴的に体現していたのが、文化人類学者クリフォード・ギアツであった。とくに七三年に発刊された『文化の解釈』(邦訳では『文化の解釈学』」となっているが)は、アメリ社会学会でソロキン賞を受賞した事実からも明らかだが、アメリカ合衆国文化人類学界よりも先に社会学界において高い評価を獲得していた。社会学の大御所タルコット・パーソンズのもとで薫陶を受けたギアツであるから、驚くに値しないことなのかもしれない。
 六十年代後半のラディカルな社会変革への機運が七十年代に残した知的遺産は、既存の学問の壁を乗り越えようという積極的意志である。社会学では、(シュッツによる)現象学理論が脚光を浴び、(ペリー・アンダーソンのいう)西洋マルクス主義――ルカーチグラムシらがその代表だった――が社会学文化人類学政治学、だけではなく文学理論にも大きな影響を与えていた。
 ギアツのこの著作は、これらの時流に合致していた。この著作には、文化人類学的資料が、哲学者(ディルタイ、ランガー、ライル、ウィトゲンシュタイン、グッドマン、ジェイムズなど)、社会学者(デュルケイム、ウェイバー、パーソンズやシルス)、精神分析家(フロイト)、文学理論家(バークなど)の仕事により再解釈された論考が満載されていたのである。
 これまでの文化人類学の書物とは異なり、学問を横断的に移動した思索が生み出した、きわめて混淆的テクストであった本書の重要性は、人文系・社会科学系の諸学を巻き込んだ具体的運動を生み出したことにある。とくに、記録に残っている事実として、サンフランシスコ近郊の三大学――カリフォルニア大学・バークリー校、サンタ・クルーズ校、そしてスタンフォード大学――でさまざまな学問領域で研鑽してきた研究者たちが、このギアツの著作にひとつの「共通言語」を見出したということは銘記する必要があろう。たとえば、その運動に参加していたひとりレナート・ロザルドの回想によれば、これまでお互いに語ることばをもっていなかった研究者同士が、自らの研究を相手にも理解してもらえるようなことばで語ろうと試みるようになったという。
 七十年代初頭、『文化の解釈』が刊行されるまで、ギアツの実践する分析は、行為のもつ意味を重要視する「象徴人類学」であるといわれていた。人間は意味により媒介された世界を生きる存在であり、その世界を内在的視点から捉えようという試みである。そのとき、意味を媒介する運び手が「象徴」である、と彼は考えていた。
 しかし、本書の刊行以降はそれに代わり、ギアツ自身も「解釈学的人類学」(interpretive anthropology)という名称を積極的に使用する。(八十年に刊行された『文化の解釈』の続編にあたる『ローカル・ノレッジ』の副題に注目してほしい。)そして、学問を超えたコミュニケーションを目指した研究者たちは、自らの運動を「解釈学的社会科学」とよび始めていた。その運動の結果を可視化したのが、七七年に刊行された(その名もズバリ)『解釈学的社会科学』という編集本である。
 アメリカ合衆国の社会科学では、五十年代以降スキナーに代表される行動主義に対抗するように、人間行為をその意味の側面から把握しようという勢力が存在した。しかし、ギアツの仕事はその対立のなかから生まれたかもしれないが、その対立の局面を再編成している。対立は学問間の対立ではなくなり、複数の学問が共通言語により団結し、共同戦線を組み、「共通の敵」(行動主義だけではなく、七十年代末の社会生物学のような還元主義、環境決定論や「俗流唯物論、自然科学を社会科学のモデルとして採用しようという実証主義、さらにはローカルな社会現象の細部を切り捨てる一般化論も含む)に対峙するのである。
 この時代に、学問の壁を越えようとする意志が「解釈学的社会科学」のもとに知的勢力として結集したこと、さらにプリンストン大学の高等研究所――その創立時にあたる七十年にはギアツが最初の教授として任命された――でも、その意志をもつ研究を「最先端」の研究として位置づけたことなどから、学際性とは学問間のコミュニケーションをはかることを目標にした、それまでにはない斬新な試みであったことになる。

長い間、敬遠してきたけどようやく読む気になってきた↓


文化の解釈学 / C.ギアーツ著 ; 吉田禎吾 [ほか] 訳
(岩波現代選書 ; 118-119)岩波書店 1987.5-1987.9
http://www.library.osaka-u.ac.jp/cgi-bin/opac/books-query?mode=1&code=22106212&key=B116899552203969