8.補論


浜本儀礼論についての考察4の特定箇所を削除し記述を書き換えた。
ここではその理由について説明しながら、浜本の構成的規則論を検討していきたい。

浜本の記述を読みかえしたところ、構成的規則の特徴として「規制なしには規制される行為そのものが存在しない」とは明記されていないことに気づいた。規制的規則において「規制の対象となる行為が規制に先行する」と明記されているので、構成的規則はその逆になると早合点したようだ。浜本氏ならびに読んでいただいている方にお詫びします。大変申し訳ありませんでした。


したがって、オフサイドの例で明記されている『「最終ディフェンスラインよりも奥でパスを受け取ってはならない」という禁止とは独立にオフサイドが何であるかを言うことなどできない。同じく水甕の禁止とは独立に妻を引き抜くことがどうすることであるかを言うこともできない」をもとにして「規制とは独立に規制される対象を特定することは不可能である(のが構成的規則の特徴)」と書き換えた。ただ、こう置き換えた上でも、結婚とオフサイドの例が浜本の定義する構成的規則の例としては妥当ではないと言えると考える。


ここで問題となるのは、そもそも浜本の定義する構成的規則の例として妥当なものなど存在するのだろうかということである。結婚の定義が「婚姻届をだすこと」の上位概念として「社会的に承認されて、男性が夫として、女性が妻として両性が結合すること」(三省堂大辞林 第二版」における結婚の定義)を持つからこそ事実婚という形態が可能になっているように、構成的規則においても、規制と独立に規制される対象を指示することはできるのではないだろうか。


ただし、浜本の構成的規則の定義がすこし不十分なだけで彼の定義が近似的に抑えている規則の形態はあるという結論もありうるだろう。前述したように近親相姦のタブーにおいては、禁止なしには禁止される行為もその対象(近親)も存在しない(とレヴィ=ストロース以来されてきた。もちろんこの前提自体を疑う可能性についてもいずれ考察していきたいが、現時点の理解では否定しきれない)。しかし、浜本の定義を字義通りに捉えると構成的規則の例と呼べるものは限られているのではないだろうか。現にドゥルマの事例においても浜本自身次のように記述している。

「妻を引き抜く」ということについて人々に説明を求めた場合、それがどういうことであるかを直接に答えるかわりに、しばしば例えば次のような説明が返ってくるだろう。だって「妻は屋敷にきちんとおかれているものではないだろうか。というわけで彼女は引き抜かれるのだ。屋敷にもってきたものは、きちんと置く(据える)必要がある。ただもってくる、そんなことはだめだ。それは(もってこられたものに)病気を注ぎ込むことになる。妻を引き抜くのは、彼女を本当に憎んでいることだ」(『秩序の方法』p110)


さて、たしかにこれらの説明は直接的な答えではないかもしれないが、水甕という言葉は一切使わずに妻を引き抜くということについて説明していると言えないのだろうか。「水甕の禁止とは独立に妻を引き抜くことがどうすることであるかを言うこともできない(『秩序の方法』p117)」
という浜本の主張は少し強すぎるように思われる。


この点については詳細に論じていく必要があるだろう。とりあえず以上の書き換えの含意を吟味した上で現時点での仮説を以下に示す。

構成的規則においては、
①規則と独立に規制される対象が特定できないもののまま存在する。
②特定されない規則される対象と規制の施行が関係することを通じて、規制される対象がその度ごとに特定される。


例えば、ここで書き換えた定義をそのまま敷衍すれば、オフサイドは構成的規則ではないという考察4での主張は本来退けられるべきものである。確かに昔は「オフサイド=卑怯な態度」だったかもしれないが、現在では「オフサイド=最終ディフェンスラインよりも奥にいるときに最終ディフェンスラインよりも手前にいる味方選手から出されたパスを受け取ってはならない」なのだ、と主張するのであれば。しかしあえて残したのは次のような事情があるからだ。


サッカー史においてオフサイドのルールは変化し続けている。ちなみに、これはいわずもがなのことだが、(サッカー好きとしてはどうしても言いたくなってしまうのだが)浜本の記述はオフサイドの定義としては誤っている。「最終ディフェンスラインよりも奥にいるときに最終ディフェンスラインよりも手前にいる味方選手から出されたパスを受け取ってはならない」というのが妥当な説明だろう。しかし、実際にはこの記述でも全く正確ではない・・・以下工事中(続きは06/9/24の記事で