4.「妻を引き抜く」:構成的規則の無根拠性


 「妻を引き抜く」ことと「時間を使う」ことには違いがある。後者が不正確であるにしても別のより字義的な表現で説明しなおすことが可能であるのに対して、後者ではそれは困難であるということだ。この困難を生み出している機制こそが、<水甕を動かす→妻を引き抜く→妻の死>という一連の要素の結びつきの中核にあってそれを可能にするものである。この困難は二つの問いに置き換えられる。第一に、そもそも「妻を引き抜く」とはいかなる行為を意味するのかという問いであり、第二になぜ「水甕を動かすこと」が「妻を引き抜くこと」になるのかという問いである*1
 浜本はまず第一の問いに、サールの「構成的規則」という概念を用いて答えていく。通常の規則(規制的規則)はある行為を対象としてそれに規制を加えるものであり、行為は規制に先行して存在する。例えば、「道路の右側を走行してはならない」という規制があろうとなかろうと道路の右側を走行することはできる。一方、構成的規則においては、規制なしには規制される行為そのものが存在しない規制とは独立に規制される対象を特定することは不可能である。例えば「結婚するに際しては婚姻届を提出せねばならない」という規則においては、この規則そのものが結婚するという行為を定義している。この時「YするにはXせねばならない」という規則の表現は、容易に「Xすることをもって、Yすることとする」という別の表現に置き換わる。
 夫は水甕を動かしてはならないという規則も、「妻を引き抜く」という行為を定義しているのが当の禁止規則であるという点で構成的規則である。婚姻届を出さなければ結婚をしたことにならないように、水甕を据え付けた状態にしておかなければ(=引き抜いてしまえば)、妻も据え付けた状態にはない(引き抜かれる)ことになる。


*ただ、ここで浜本の挙げる二つの例(結婚とオフサイド)は、「規制なしには規制される行為そのものが存在しない規制とは独立に規制される対象を特定することは不可能である」という構成的規則の特徴を持つものであるのかは疑問である。婚姻届なしに結婚する「事実婚」が存在するし、オフサイドはもともと反則を指す語ではなくゴール前で好機をまちかまえる卑怯な態度を指すものであった*2。ただし、これらの例が、構成的規則の文法「Xすることをもって、Yすることとする」において、Y(婚姻、オフサイド、妻を引き抜くこと)を構成する具体的な行為Xが変化しうることを示すものと考えるならば、構成的規則の恣意性と諸記号間の有縁性の並置という浜本の分析を根拠づけるものとも考えられるだろう。しかし、規制対象が規制に必然的に後続するという規制とは独立に規制される対象を特定することは不可能であるという例としては認められない。その点で最適な事例はやはりインセスト・タブー(近親相姦の禁止)だと思われるが(禁止される前には近親も近親相姦も存在しない)、なぜ浜本はここでインセストに言及しないのだろうか。もし何らかの理由があるとしたら、それ自体重要なことと思われるが。


 水甕を動かすことは水甕を「引き抜くこと」として語られる。したがって、水甕と妻を等置する象徴論的図式と、妻を水甕になぞらえて「引き抜く」ことができるものとする構造的比喩が存在することから、「水甕を動かすことによって妻を引き抜くことが象徴されるのだ」と語りたくなる。しかし、以上みてきたように「妻を引き抜く」ことは「水甕を動かす」ことと独立して存在するものではない。「水甕を動かす」ことがすなわち「妻を引き抜く」行為そのものなのである。

こうして浜本は、「水甕を動かすことは妻を引き抜くことである」という現地のリアリティを「水甕を動かすことは妻を引き抜くことを象徴する」という人類学的語彙に置き換えることをせずに、「である」を「である」のまま説明することに成功する。しかし、その成功の度合いを測るには十分な注意が必要となる。最初に確認しなければならないのは、「現地の人がXする(水甕を動かす)ことはYする(妻を引き抜く)ことであると言っているのだから、それがいかに奇妙に思えてもそのまま認めるべきだ」という主張が、浜本の考察の結論ではなく出発点にすぎないということだ。問題は、浜本の考察がこの出発点からどこまで前に進んでいるかである。浜本はこの始点に次の三つの知見を付け加えている。

第一に、ドゥルマにおいて、Yすることが具体的に何を意味するのかと問われれば、Xすることだと答える以外に方法がないということ。我々は、「水甕を動かすことは妻を引き抜くことだ」というドゥルマの言い回しを、二つの独立した行為の因果関係を示すもの、例えば「人に向かって銃を撃つことは人を殺すことだ」という言い回しと同じようなものとしてみなしたくなる。しかし、「妻を引き抜くこと」がどのような行為なのかを、「水甕を動かすこと」と切り離して独立に決定することはできないので、「人に向かって銃を撃つことは人を殺すことだ」という知識と「水甕を動かすことは妻を引き抜くことだ」という知識は全く異なる。


第二に、ドゥルマにおいて、ある行為に対する二つの記述がXとYに対応していることによってX=Yの同一性が確保されているわけではないこと。アンスコムの提示した「同一の行為が異なる記述において眺められる」という構図は、「水甕を引き抜くこと」と「妻を引き抜く」ことの関係には適用できない。Aが記述している行為を異なる観点、異なる関係からとらえたときにその行為はBの記述のもとにおかれると言おうとしても、そもそも「妻を引き抜く」という記述が行為のどのような姿を指しているのかが全く見当もつかないからである。


第三に、ドゥルマにおいて具体的な行為X(水甕を動かす)がYする(妻を引き抜く)こととして禁止されていること。X=Yという等式はXをしてはならないという禁止によって支えられている。したがって、浜本の議論において、この禁止の根拠をめぐる問答は次のようになる。

A:何故水甕を動かしてはならないの?
B:それは妻を引き抜くことだからだ。
A:「妻を引き抜く」ってどういうこと?
B:水甕を動かすことだ。
A:何故、水甕を動かすと妻を引き抜くことになるの?
B:水甕を動かすことが、妻を引き抜くことだからだ。


このように、何故「水甕を動かす=X」ことが「妻を引き抜く=Y」ことであるのかという問いにはいかなる説明もできない。XとYの結びつきには―それがXすることがYすることであるという規約性(構成的規則性)によって生み出されるものである限りにおいて―いかなる根拠も存在しない。


 こうして浜本は、「妻を引き抜く」とはいかなる行為かという問いに対して、それは「水甕を動かすこと」であるというドゥルマの語りを認めるならば、1両者の同一性には何の根拠もないこと(恣意性)、2「妻を引き抜くこと」を「水甕を動かすこと」という記述と独立に定義することはできないこと(規約性)を認めるしかないという結論を出す。「妻を引き抜く」という行為の記述は、他の行為との同一性によってしか定義できないにもかかわらず(規約性)、その同一性にはいかなる根拠もない(恣意性)、という形で行為のリアリティを構成するのである。
 さらに、「水甕を動かすことは妻を引き抜くことである」という知識は、単なる構成的規則ではない。「婚姻届を出すことは結婚することである」が、構成的規則の体系からなる制度の存在を前提にしてはじめて意味をなすのに対して、水甕を動かすことが妻を引き抜くことになるのは、別にそうなるように取り決められているからではない。それは規則として従われるというよりも、単に生きられてしまっているような規約性である*3

*1:この二つの問いは、第一の問いの答えが直接的には「水甕を動かすこと」でしかない限りにおいて混同されやすいが異なる問いである。

*2:中村 敏雄 2001『オフサイドはなぜ反則か 』 平凡社ライブラリーオフサイドはなぜ反則か (平凡社ライブラリー)

*3:この点については『秩序の方法』第5章p140〜で詳しく論じられている。