3. 妻を引き抜く→妻が死ぬ:構造的な隠喩における論理的帰結


「妻を引き抜く」と「妻が死ぬ」のは、隠喩的な論理における必然的な帰結である。「妻を引き抜く」と記述される出来事は屋敷と妻をめぐる以下のような体系的な語り口のなかに位置づけられている限りにおいてのみ意味をなす。


1妻は屋敷に据え付けられた存在である。
2据え付けられたものはもちろん引き抜くことができる。
3引き抜かれた存在は、そこでは生きながらえることはできない。
4したがって、妻を引き抜いてしまったら妻は生きながらえることはできない。

「妻を引き抜く」という表現は字義通りに受け取られるものではない。妻は実際に据え付けたり引き抜いたりできるものになぞらえられているのである。この表現は隠喩にすぎない。しかし、人間はいったんある隠喩を使うことになれるとその隠喩のもつ構造を通じて世界を経験するようになる。例えば、我々は時間について(時間を)浪費する、節約する、使い切る、などの時間を金銭や財になぞらえる言い回しをごく普通に使っている。我々は、その隠喩性をめったに意識することなしに、これらの言い回しによって時間をめぐる経験を構造化している。つまり、時間を使ったり貯めたりすることが現実的な行為である世界に生きているのである。しかし、こうした表現になじんでいない人々(例えばドゥルマ人)にとっては、「時間を使う」というのは奇妙に修辞的な比喩表現に見えるだろう、まさに「妻を引き抜く」という言い回しが我々にとってそう見えるのと同じように。
したがって、妻(時間)を実際に据え付けたり引き抜いたり(使ったり貯めたり)できる何かになぞらえる隠喩の構造の内部では、その論理的帰結として、妻を実際に据え付けたり引き抜いたりすることが現実的な行為となるのである。
さらに、「実際に据え付けたり引き抜いたりできる何か」の(「置いたり動かしたりできる何か」ではないことに注意)一つが水甕であり、この限りにおいて、構造的隠喩の論理的帰結が可能にする「妻をひきぬく」→「妻が死ぬ」の二項関係は、第三項たる「水甕を動かす=引き抜く」へと比喩の手をのばすのである。
しかし、構造的比喩のみによって、<水甕を動かす→妻を引き抜く→妻の死>という一連の結びつきが保障されるわけではない。このことは、時間の比喩の内部で、「時間を使う」→「時間がなくなる」という因果関係がリアルにみえるとしても、実際に使ったり貯めたりできる何か、例えばお金を第三項に挿入して、<お金を使う→時間を使う→時間がなくなる>と言っても全くナンセンスであることからもわかる*1。この三項関係の左の二項(水甕を動かす→妻を引き抜く)は、構造的隠喩とは異なる論理によって関係づけられるのである。

*1:この「お金を使う」と「時間を使う」との間に比喩的な関係があることに変わりはない。しかし、この二項の関係は、比喩の構造の外部にあるものであり、むしろ我々が修辞として把握する比喩の働き、例えば「タイム・イズ・マネー」に相当する。したがって我々にとっても理解可能な比喩の構造に訴えるだけでは、こうした「呪術的」実践を実効的な行為とみなすことはできないので、しばしばこれらの実践は、比喩的関係を因果関係と取り違える「劣った未開人」の所業とされるのである