5. 水甕を動かす→妻を引き抜く:有縁性による動機づけ


 第二の問いに移ろう。なぜ「水甕を動かすこと」が「妻を引き抜くこと」になるのか。
象徴論的解決では答えは単純であった。水甕は妻の象徴であるから、というのがその答えである。この主張を支えているのは、水甕と呼ばれるのが土器の壷であり、土器の壷と女性あるいは子宮を等値する様々な儀礼が存在するという事実である。    
 例えばドゥルマでは、自暴自棄になった人が(とりわけ年老いた女性が)呪詛の言葉とともに土器の壺を地面に叩きつけて壊すことが、当人も含め、彼女の母系集団の成員全員に徐々に死をもたらす極めて危険な行為とされる。また、女性が呪詛の言葉とともに自分の性器を殴りつけることによっても同じことが起るとされている。さらに、この二つの行為は、ともに「土器片の呪詛」と呼ばれている。
こうした儀礼に目を向けると、土器の壷が女性(の性器)を象徴することは自明のことのように見えてくる。ここに、「水甕=土器の壷を動かすことが妻を引き抜くことであるとされるのは、土器の壷が妻の象徴であるからだ」という象徴論的解決の根拠がある。
しかし壷と女性の連関は絶対的なものではない。例えば、ドゥルマ語では新生児の大泉門(ひよめき)が閉じることを「壺に蓋がされた(ku-finika dzungu)」と言う。ここでは壺と頭が等値となっている。したがって、水甕をめぐる禁止と土器片の呪詛だけをみれば二つの慣行を根拠づけているようにみえる「土器の壷=女性」という図式は、「壷に蓋がされた」という慣用表現には適用できない。さらに、現在のドゥルマにおいて水甕はもはや土器の壺ではなく、プラスチック製の容器やバケツにとって代られてしまっている。しかしプラスチックの容器を動かしてしまうことは、今でもなお「妻を屋敷から引き抜く」行為である。
 このように諸慣行から観察者=人類学者がみてとる共通のパターン(象徴的図式)の根拠は、それらの慣行自体の存在にしかないから、そのパターンから外れる慣行が現れればその妥当性は失われる。したがって、諸慣行から見て取られた象徴的図式は、それぞれの慣行の根拠とはなりえない。
 こうして象徴論的解決は否定される。しかし、浜本は、象徴論的な説明自体を完全に否定しているわけではない(本節で展開されるのは決定論的側面を排除した象徴論と言えるだろう)。彼はソシュール記号学における恣意性の原理に依拠しながら、ある慣行は他の諸慣行の存在によって相対的に動機づけられている、と述べている。ソシュールは言語を恣意的な記号のシステムとして理解したが、同時に記号相互の相対的な動機づけ(motivation 「有縁化」とも訳される)を認めている。浜本は記号間の動機付けを次の例によって示している。

10が「ジュウ」であり、2が「ニ」であるのはまったく恣意的であるが、12が「ジュウニ」であることはそうではない。それは10が「ジュウ」であり2が「ニ」であるという事実に「動機付け」られている。

 浜本の例は、記号の中には恣意的なものと動機づけられたものがあるという誤解を招きやすいので注意が必要である。12が「ジュウニ」であることそれ自体は恣意的である。ただ、10が「ジュウ」であり2が「ニ」であることと並列して配置するとそこにパターンが見て取れるという点で、相対的な動機付けが行われていると言える。しかし、このパターンは全ての要素を規定するような普遍的なルールにはなりえない。10、2、12における数と呼称の関係からみてとれるパターンは、その呼称を日本語から英語に翻訳したときに消え去る(10=ten,2=two,12=twelve)。同様に、水甕をめぐる禁止と土器片の呪詛を並置したときにみてとれるパターン(土器の壷=女性)は、「壷に蓋がされた」という慣用表現をさらに付け加えた時に消滅する。
 このように諸慣行に共通してみられるパターンは、ある慣行の内容が他の慣行の内容の影響を受けることを示しているのにすぎず、諸慣行の内容を普遍的に決定するものではない。諸慣行の最終的な根拠は、そこにみられる共通のパターン=象徴的図式にあるのではなく、それが単に生きられてしまっていることにあるのである。

 以上の手続きを経て、浜本は<水甕を動かす→妻を引き抜く→妻の死>という一連の結びつきを可能にしている知識の諸形態を明らかにした。<妻を引き抜く→妻の死>の関係は、「妻は屋敷に据えられたものである⇔引き抜かれた存在は、そこでは生きながらえることはできない」という構造的な隠喩によって支えられている。<水甕を動かす→妻を引き抜く>の関係は、関連する諸慣行によって相対的に動機づけられる。両者を結びつけるのが、「夫は水甕を動かしてはならない」という禁止によってのみ現れる「妻を引き抜く」という行為の恣意性=規約性である。この中心をなす恣意性=規約性によって、「水甕を動かすことは妻の死を引き起こす」という知識は、その世界を生きる人々にとっては自明の世界の有様(=浜本の言う「秩序」)であるのにもかかわらず、その世界を生きない人々にとっては他の知識とは全く異なるものとして認識され、「呪術的」とカテフゴライズされるのである。
 次節からは浜本の議論を検討する。浜本自身のまとめを引用してここでの概説を終わりにしよう。

我々の目の前にあるのは、象徴論的な人類学が誤認するであろうような、何かを言い表す象徴のシステムでもなければ、伝達のシステムでもなく、あえて言えば「恣意性」を中枢にすえた秩序の機構である。それのみをとると隠喩的であるしかない平面で展開する論理性と、こう言ってよければ「意味論的な」有縁性が、恣意的であると同時にその内部では必然的であるしかない結び付きの中で、結合している。そこに含まれた規約性=恣意性の事実は、その機構の外部にいる者にそれを「呪術的」に見せてしまうだろう。