「相対主義の代価」再検討


浜本満 1985「文化相対主義の代価」。『理想』No627:105-121. 理想社


以前書いたエントリーで部分的に考察した本論文について改めて検討してみる。


本稿で浜本は、おおざっぱにいって次のように議論を進める。

1文化相対主義あるいは認識相対主義と呼ばれる人々のスローガンとは、
「異なる文化に属する人々は異なる世界に住む」である。


 ↓言い換えとしては、
「異なる文化に属する人々は、世界を異なる仕方で見ている」
「異なる文化に属する人々は、経験を異なった仕方で組織している」
「異なる文化に属する人々は、経験を異なったやり方で意味づけている」
「人々の経験や認識は文化(社会)によって規定されている」
「異なる文化は異なる概念体系をもつ」などだ。


相対主義が払わなければならない(最初の決定的な)代価(代償)とは次の点にある。


「もし異なる文化に属する人々が根本的に異なる概念体系をもち、経験を根本的に異なる仕方で組織しているのだとすれば、つまり個々の文化を横切って共通するものが何もないとすれば、我々はそうした人々との意思疎通に成功するという可能性について、いささか悲観的にならざるを得ないだろう。我々とは根本的に異なった認識能力を持った生き物、猫や馬が何を考えているか知りようがないというのと、たいして違いはないということになるのである。」(p108)
つまるところ、
相対主義的な命題を字義どおり受けとる者が負うべき代価は、異文化の理解不可能性ということにつきる」(p113)


中略
――相対主義VS反相対主義の応酬(ギアーツ、スペルベル、モーリス・ブロック)――


相対主義VS反-相対主義の不毛な応酬がなおざりにしているのは、言語に関する基本的な事実である。それは、「言語が自らのうちに自分自身との「ズレ」を含み、また不断にそうした「ズレ」を生み出すことによって特徴づけられる体系である」ということだ(p112)。


4人類学者による「異文化理解」*1がまがりなりにも可能なのは、言語の特性としての「ズレ」を活用して、現地の言葉(あるいは概念)を自分あるいは読者に馴染みのある言語(母国語)あるいは概念に置き換えることができるからだ。人類学者には、?言語=概念のズラシによって民族誌を書き、?そこで行われているズラシ=概念の解体と再構成をはっきりわかる形で示すことこそが期待されうるし、されるべきだ。


3についてもかなり検討すべき問題はあるが、それはまた後日ということで、ここで検討するのは3から4への移行パートである。浜本は(良くも悪くも)人類学者らしく、この移行を自らのフィールド先であるドゥルマにおける具体的な事例を挙げながら展開する。

p113
人類学者が「夫は妻に対して怒りを感じた」と報告したとする。彼はこれが、単なる観察にもとづくものではなく、現地人の発言の忠実な翻訳であると言い張るかもしれない。彼は現地語“chtisukizi”を「怒り」と翻訳したのである。ここに上記の命題(相対主義の対価:引用者注)が登場する。chtisukiziと「怒り」は同じことを意味していないかもしれない、というわけだ。


この疑問に対して、観察された夫の表情や行動が我々が「怒り」と呼ぶものと類似しているとか、我々が「怒り」と感じるだろう場面でやはり彼らもchtisukiziを感じるといった証拠を提示してもしかたがない。というのも、「観察された類似が証拠となるのなら我々は馬や猫の感情生活についても同様に語りうるということになろう。現地人の感情生活とわれわれのそれが同じであるという証拠は手に入れようのないものなのである」(p113)。さらに、「相違の証拠を手にいれるのはしばしばはるかに容易である。例えば、彼らは葬式の場で人々が泣くのはchtisukiziを感じたためであるなどど語る)


つまり、chtisukiziと「怒り」という概念の同一性(二つの言葉が同じ意味で用いられているのか)を証明することは不可能である。では、chtisukiziを「怒り」と置き換えて表記すること=民族誌を書くことはいかに正当化されうるのか。ここで浜本が持ち出すのが前述した言語の基本的性質としての「ズレ」である。

p114
ドゥルマ族のchtisukiziを「怒り」と置きかえることによって、私は当座の用にはこと足りると感じていたのであろう。この置き換えをさまざまな文脈で実行しているうちに、これらの文脈が日本語の通常の文脈とは必ずしも一致しないという事実に私はとっくに気付いている。しかしあえてそれを別の語に置きかえることもあるまい。そしてついには、若干の迷いとともに、「葬式の席上で人々が涙を流すのは彼らが感じる『怒り』のせいだという」とすら書き留める*2。私は理解を読者に委ねるのだ。つまり、「怒り」は日本語のごく通常の文脈において現れる意味においてではなく、いわば引用符付きで、通常の意味をある程度とどめたままであるが、トゥルマ語のchtisukiziについてあるいはそれを用いて語りうるあれこれを伝えうる限りにおいて、その意味をずらしてとってくれるようにと期待しているわけである。私はこの意味で、一種の拙い詩人として振舞っているのだ。


ここで浜本は、chtisukiziと「怒り」という概念の同一性が確保できなくても、chtisukiziを「怒り」と置きかえることは妥当でありうることを示そうとしている。つまり、chtisukiziを「怒り」と置きかえて記述する人類学者のやっていることは、実際には「怒り」という日本語を意図的にズラすことで、ドゥルマのchtisukiziと日本の「怒り」を共に理解することが可能な視角を民族誌中の「怒り」という語に埋め込むということであると。

p116
我々自身の「怒り」という概念を主題化しそれを解体、変容させることによって、例えば、怒りとしての性格を十分にとどめてはいるものの、必ずしも非難というかたちであらわれず、また対象ももたないという可能性をそなえたある感情としてそれを再構築できれば、このように人工的に構築した第三の表象をつうじて、ドゥルマ族のchtisukiziと日本語の「怒り」をともに理解することが可能な一つのパースペクティブから両者をながめるといったことがでいるようになるかもしれない。これによって最終的な「正しい」理解がえられるとは言えないにしても、人類学者はフィールドで自分がつかんできたものを比較的忠実に、自らと読者に伝えることに成功するだろう。言い換えれば、「葬式で人々は怒りのために涙をながす」と語る拙い詩人が、今度は自らの用いた隠喩についての解説を行う下手な批評家の役割を演じてみせるのである。


したがって、人類学者に期待してよいのは「異文化あるいは他者との交流において、その境界的な営みのなかで暗黙裡に行っている操作を、つまり概念のズラシ、その解体と再構成を、はっきりわかるような形で示すことである(p120)」ということになる。


浜本はこうした手続きを、ゲシュタルト心理学でしばしば言及される多義図形を比喩に使って鮮やかに説明する。

ゲシュタルト心理学は、ネッカーの図形や、ルビンの壺のように両義的なイメージをしばしば取扱う。ここでは図Aとも図CともみられるようなゲシュタルトBがまずもって与えられており、問題はここからAなりCなりを構成することである。異文化理解に直面する人類学者には、逆にAとCが同時に与えられている。構成すべきはゲシュタルトB、つまりそれから見るとAもCも類似して見えるような、見方によってはAとでもCとでも見ることのできるような第三の共通の表象を構成することである。構成される第三の共通するゲシュタルトはあきらかにアプリオリに与えられた「普遍」などとは本質的に異なったものであるし、そのような位置を占めることもできない。それはAにもCにも属さないが、AやCをもとにしてそこからのなかば意識的な「ズラシ」としてしか、その解体と再構成の結果としてしか構成できないものだからである。


さて、ようやく検討に入る。浜本の立論の仕方は二段構えだ。第一に人類学者が暗黙のうちにやっていることは言語の基本特性を利用した概念の「ズラシ」である(拙い詩人としての仕事)、ということを指摘すること。第二に、それを意識化することによって、「ズラシ」が(正しいかどうかはいえなくとも)うまく行っているかどうかを判断することができる(下手な批評家としての仕事)、と主張すること。


ズラシがうまくいっている(成功している)とは、浜本の例で言うと、chtisukiziを「怒り」に置き換えて民族誌を書くことが、chtisukiziと日本語の「怒り」から、そこから見るとドゥルマ人にとってのchtisukiziとも日本人にとっての「怒り」とも見えるような第三の表象として民族誌中の「怒り」を構成することになっている、ということである。


さて、問題は、民族誌記述が浜本の言う意味で成功しているかどうかをどうやって判断できるのかということである。この点について、ルビンの壺などを比喩に使うことは非常に誤解を招きやすい。ルビンの壺の場合、壺としても見えるし、相対する人の顔にも見えることは、壺を提示する人間にとっても壺を提示される人間にとっても自明である。ルビンの壺を見るものは、壺がかたどる曲線と相対する人の顔がかたどる曲線がいかなるものかをあらかじめ知っているかぎりにおいて、そこに二つの図像を見ることができる。しかし、民族誌の読者にとっては、「怒り」が意味するものが自明であったとしても、chtisukiziが意味するものがいかなるものであるのかは自明ではない。だから、民族誌記述中の<怒り>が、日本語の「怒り」であるだけでなく、ある点からみるとchtisukiziを意味しているのかどうかは読者にはわからない。両者をともに見ることができているのは浜本だけである。したがって、民族誌記述としての「chtisukizi=怒り」の妥当性は、民族誌を書いている当人にとってそれがchtisukiziにも怒りにも見えるかどうかによって判断される。だから、その妥当性は、当の民族誌家以外の人間によってはチェックされえない。ただし、人類学者が自らの書いているものの妥当性を書きながら自分で納得していく過程を説明する上では、ルビンの壺の例えは有効である。少なくとも浜本がここで提示している議論では、そこまでしか言えないように思われる。


さて、いくぶん性急に判断を下してしまったが、もちろんそんなに簡単に切り捨てるのはおしい議論だと考えているからこそ検討しているわけだ。浜本の主張を肯定できるとしたらどのような条件が必要かを次に考えてみよう。


まず第一に、ここでいう「読者」とは何者かということが問題になる。人類学者以外の一般読者を想定しているならば、(苦しい言い方だが)慣例的にはあまり問題ない。というのも、学者の言っていることの妥当性をチェックする基準を完全に(同じ分野の他の学者以外の)一般読者に委ねている学問などは存在しないからだ。したがって、チェック基準が人類学内部で共有されていれば(再び嫌な表現だが)慣例的には問題ない。しかし、浜本と同じフィールドで研究する人類学者でもなければ、chtisukiziという概念が適用される範囲について一般読者よりも多く知っているということはないだろう。したがって、一般読者の視点からでも他の人類学者の視点からでも、B(記述中の「怒り」)がA(chtisukizi)にもC(日本語の「怒り」)にも見えるかどうかなどわからない。何故なら、彼らにとってAとは、そもそも浜本が構成したBから遡及的に理解されるものでしかないからだ。ただし、日本語の怒りをどのようにズラシたらchtisukiziにも当てはまるように人類学者が思えたかを提示することが民族誌を書くことであるとは言えるだろう。しかし、そうした作業が浜本の言う「(人類学者が)暗黙裡に行っている操作を、つまり概念のズラシ、その解体と再構成を、はっきりわかるような形で示すこと」であるならば、民族誌とは、異文化理解の実況中継でしかないということになる。それはそれでかまわないのかもしれないが。さらに、浜本と同じ(あるいは近い)フィールドを調査している人類学者がいたとしても、彼が他の人類学者とは違って厳密なチェックを行えるという保証はない。というのも、浜本の捉えたchtisukiziと彼が捉えたchtisukiziの適用範囲が重なる保証は(まさに言語の「自らからズレる」という基本特性のために)ないからだ。彼がchtisukiziを「喜び」と翻訳し、民族誌記述中で展開したとき、その妥当性と浜本の民族誌記述中の「怒り」の妥当性との間に検討可能性は持ちえるだろうか。


第二の可能性としては、chtisukiziと日本語の「怒り」のそれぞれに固有の構造のようなものがあると設定し、両者の変異可能性のうちの一つに民族誌記述中の「怒り」を位置づけるという考えかたもある。この場合、「怒り」というルビンの壺に読者が「chtisukizi」を見ることができなくてもかまわない。第三の表象「怒り」を構成した民族誌家にとってそれが日本での「怒り」にもドゥルマでのchtisukiziにも見えるということが、日本での「怒り」と「chtisukizi」がともに、ある共通構造のヴァリエーションであることと、その共通構造が民族誌記述中の「怒り」によって精確に描きだされていることを証明できればかまわないわけだ。ただし、その場合、両者をその一つのヴァリエーションとしてもつ共通の構造の存在(浜本の後の著作『秩序の方法』における「言説のネットワーク」構想に相当するのかもしれないが)を設定することが妥当であることの証明と、その構造を特定することにおいて民族誌記述中の「怒り」や「喜び」などがそれぞれどれほどの妥当性を持ちうるかについての一般基準が存在しうることを示すこと、さらに民族誌記述の中で「chtisukizi」と「怒り」のどちらにも見えるように人類学者が構成したものが、なぜそれらの基準を満たす共通構造となりうるのかを確定することが必要となるだろう。


うーん、どうもこれもだめそうだ。頭が廻らなくなってきた。おそらくここでの問題を乗り越えるためには基本的な設定の幾つかを感染さしてすり替える作業が必要になってくるように思われる。今回はこのへんで。

*1:ここでちょっと脇道にそれる。浜本は次のように述べている「人類学者にとっては「理解」することのほかにどんな目的があるわけでもない」(p116)。呼応するかのようにもう一人の人類学者は次のように述べる「人類学は「異文化理解」の学である(注:だとする。わたしには、それが出発点である。それだけだ。そうでない人類学者と人類学について語ることには意味がない。)。すなわち、「異なったもの」が存在し、その違いの原因である「文化」について語るのだ。そのような廻りくどい出発点をとおることでのみ、私がそうであるところの「人間」というものをほんとうの仕方で語り得るのだ、それが、人類学者の信念である。私的な内面ではなく、公共性こそが内面を作り上げたのだ、そのような思いつきがあるからこそ、哲学ではなく、人類学を選んだのだ。 」http://bunjin6.hus.osaka-u.ac.jp/~satoshi/anthrop/works/articles/lion.html さて、困ったことにこのブログを書いている人類学専攻の学生は、「異文化を理解したい」などとは一度も思ったことがないし、そのために人類学を選んだわけでもない。(さらにいえば、自分が人間だとはあんまり思ってないからこそ、人類学を選んでるような気もするが)にもかかわらず自分のやっていることが少なくともいまのところはオーソドックスな人類学だとなにげに確信してしまっているのはなんでか。そろそろはっきり言えないとやばい。この点が動機となって、本エントリー前後の伏線がはられている。つまり、「異文化理解」の学というのが何故いかにして成立してきたのか。その学を可能にし駆動してきた論拠とその理論的無意識をあぶりだしておきたいわけです。

*2:>asukakyoukoさん はい、こうした記述について「計算間違い」のようなものはあるかもしれないがそれらが正しいかどうかを判断できないってことはないっていえますか?言えるなら、何でですか? こうした記述は(asukaさんの考えているような)正しさとは無関係だと思えるならそれはそれで全然かまわない。ただどんな感じで無関係に思えるのか言ってくれるとありがたい。念のため言っとくけど、単純に喧嘩売ってるわけではないからね。というか議論できるかどうか探ってるわけですが。