初期設定

「道を往く」と言い表すのは好きになれない。何れ何処かに行き着くと、そこに何かがあると仮構する、ストイックなようで甘えた態度に見える。「海に漕ぎ出す」は、まだましか。しかし、おそらく陸地などそもそも存在しない。現時点で必要なことは、風と波を読み、手直な道具と自分の身体をチェックすること。海と自分のノッペリとした一体化を歌うエコロジーと、海を支配する理想の自分にしがみつくモダニズム、そのどちらでもない地点で、海が自分として、自分が海として生じるきっかけをつくること、そのために必要な装置の断片を拾い、集め、組み合わせていくこと。ここでの目的を以上のように設定する。

比喩はただの景気づけだ。以下、現状の課題を具体化する。未熟な「私」は次のような断片的なタスクの群に囲まれている。

  1. 科学技術の人類学を専攻する大学院生として、その学問的基礎付けを行うこと。
  2. 上記の目的のために、危険ではあるが両面作戦を取ること。
  3. 第一に、科学技術、特に人間の形式的・機械的理解-複製を試みる諸潮流(近代哲学-認知科学-ロボット工学etc)を文化人類学の視点から読み解くこと。
  4. 第二に、前者において研究対象となる諸潮流の蓄積の読解をもとに、専攻する文化人類学における方法論上の深刻な自壊を生み出している構造を精査しその更新を図ること。
  5. 両者の展開のために、こちら(人類学)とあちら(AI・ロボティクス)の内在的理解を同時並行ですすめること。

動機は単純。文理融合は目的ではない。ただ目の前で起きていることをその生々さそのままに取り出すことが目的であり、そのために文系の方法論の制約、ひいては文系-理系の分割が邪魔になっている、ただそれだけのことだ。

このブログを誰が読むのか、一切考えないことにする。おそらく冗長な記述と中途半端なロジック、飛躍しすぎのアナロジーを連発することになるだろうが、恥ずかしがっている場合ではない。素材集めにはアソビがあっていい、門外漢でしかない分野を扱うときはいきおい専門家の失笑を誘うだろうが。ただ絞るタイミングでは厳密に明確に行うこと。結局、個人的でしかない文章とは、一人よがりに読み手を想定するから生まれるのではないか。だとしたら、読み手をできるだけ想定(仮構)しないこと、自分の思考の只中に厳密な批判者を育てること、複数のロジックを同時に走らせること、まずはそこに集中してみる。