二つの計算主義

このカテゴリーでは、専門外の領域を扱うため、いきおい勉強ノート的なかたちをとることになる。まずは知性の機械的実現を試みてきた諸潮流を整理することを第一に、ときおり専門とする文化人類学あるいは人文社会科学の議論に接続可能と思われる事項も書いていくことにする。

シリーズ心の哲学〈2〉ロボット篇

シリーズ心の哲学〈2〉ロボット篇

一般向けの概説書ではあるようだが、各論者の主張の対比が明確で、ここ数十年の認知科学、特に人工知能(AI)研究の流れを把握する上では良い本だと思う。とりあえず、信原幸弘による序論(「認知哲学のおもな流れ」)による概説を整理し基本事項を以下箇条書き。

<基本事項>

  1. 第二期サイバネティクスを象徴するダートマス会議(1956年)において、心は適切にプログラムされた計算機械=コンピュータであるという認知観のもと、コンピュータに思考能力をもたせる研究=AIが旗揚げされる。コンピュータの比喩として心を捉えるこの(認知科学を誕生させた)認知観は現在では古典的計算主義と呼ばれる。
  2. 計算主義が画期的だったのは、心の中をブラックボックスとみなし、そこへの入力(刺激)とそこからの出力(行動)の相関を観察することだけが科学的であるとしてきた20世紀前半の行動主義(心理学)の認知観にかわって、心の内部メカニズム自体を科学的に取り扱うことを試みたところにある。
  3. 1970年代、計算主義の認知観は哲学的に洗練される(代表的論者J・フォーダー)。心=コンピュータの等式を可能にする条件が整理されるなかで、古典的計算主義(あるいは単に古典主義と呼ばれる)の立場が確立される。
  4. 古典主義の立場はいくつかの仮定に依拠して段階的に組み立てられる。第一に、心の状態には世界のありかたを示す「心的表象」の組みあわせとして把握しうるものがある。例えば、地球が丸いという信念は、「地球」、「丸い」、「〜と信じる」という表象の組みあわせ(あるいは組みあわせからなる表象)からなる。第二に、信念形成や意思決定などの心の働き=認知過程は、これらの心的表象を組み合わせ変形していく過程に他ならない。第三に、心的表象は自然言語の文と同じく構文的構造をもつ。それは一定の構成要素(単語)を一定の構成規則(文法)に従って組みあわせることでできている。心的表象とはそうした「思考の言語」で書かれた文である(「思考の言語」仮説)。「思考の言語」は全ての人間に普遍的な言語であり、例えばトマトが赤いと考える人は、日本人だろうが米国人だろうが、トマトが赤いことを表す同じ「思考の言語」を脳の中に持つ。これらの仮定が正しければ、心の状態は、思考の言語の構文的構造に即した形式的操作によって実現することができる(実現されている)。
  5. 以上のように、古典主義において認知過程とは心的表象の形式的な変形過程である。形式的な変形過程=狭義の計算に依拠しているために、古典的計算主義はもともとたんに計算主義と呼ばれた。しかし、計算に依拠しながら、構文的構造を欠く心的表象の非形式的な変形によって認知過程を実現する立場=コネクショニズムの登場によって、もともとの計算主義は古典的計算主義と呼ばれ、略して「古典主義」となった。
  6. コネクショニズムは、古典主義に対抗して1980年代に台頭する。古典主義がコンピュータをモデルにした認知観であるのに対して、コネクショニズムは脳の神経ネットワークをモデルにした認知観である。後者は前者と同じく、心の状態には心的表象が含まれるという立場=表象主義であり、力学的アプローチや90年代の身体性認知科学生態学的アプローチとは対立する立場である。古典主義が心的表象に構文論的構造を認めるのにたいし、コネクショニズムはそのような構造を認めない。したがって、心的表象を変形する過程も、構文論的構造に基づかない非形式的な過程と見る。

少し丹念に書きすぎたかもしれない。コネクショニズムについては後述。