「あるある」は「ないない」なしには成立しない(by西川君)。


お隣さんで展開されてるよもやま話に、ネタ元として使われた側として絡んでみます。とはいえ、哲学用語、ドゥルーズ用語はよくわからないので、関連しそうな文章を抜粋してみようかと。抜粋の意図としては、精神病治療において「治る」ということが二人称的知から三人称的知への移行であるという理解は、なんか(現象学的?)社会学ぽくて(要は、治る=社会化される、になってるようにみえるが)、本当にそんなこといいたいのかお前?>wills君、ということでしょうか。(というか、むしろ、二人称の知から三人称の知への移行を社会化のように把握することで、逆に二人称の知を神秘化して賞賛するような言い回しは、もう飽きたよ、ってことなんですが。)

ま、一つのラインとしては以下の文章で「「これ」や「あれ」のみから成立する言語世界で、具体的に「それ」が創られる=創れる、ことを示さない限り、世界のダイナミズムを血肉とできない。」と記述されているようなプロセスが社会化(=三人称化)の過程に理論的に先行しており、社会化ってのはその先行過程を重ね書きしてすり替えることによって成立してるんじゃないか、とかなんとか。ま、仮説にすぎませんが。人の話にのったので今回は無責任に投げっぱなしでごめんなさい。

日本語において、指示詞「それ」には、「これ」や「あれ」とは異なる使われ方がある。第一に、指示詞は空間の位置を指定する言葉として使われる。話し手を原点とする空間(これは絶対空間とよぼう)を設定し、原点付近をこれ、遠方をあれ、その中間領域をそれ、で指すように。これに対して、「それ」という指示詞のみ、話し手が、離れた聞き手の、近傍の空間(そして空間を占めるもの)を指すという使い方に開かれている。電話での会話を想像してみよう。帰宅したあなたが、忘れ物を思い出し、大学研究室に電話する。忘れ物は特異な形状をしているため、大体の形を説明し、あなたは友人に探してもらう。友人はとりあえず該当する物を探し当て、その形を説明し、「これですか」と聞くだろう。このときあなたは、該当するなら「それです」と答えるだろう。このとき「それ」が指すのは、話し手であるあなたを原点とする絶対的空間とは無関係な、いわば相対的空間である。
 なぜ指示詞「それ」のみが、絶対的空間および相対的空間での使われ方に開かれているのだろう。「それ」のみが、相対的空間を指定すると同時に、そこに属する対象を指定する、両義的機能を有する。こういった疑問が「それ」の起源問題を惹起するだろう。次のように説明してみる。最初、絶対的空間のみが予め実在する。絶対的空間は自明であるから、必要な指し示しは、空間における原点からの距離や位置を指定することだけだ。この限りで、これ、あれが使われる。しかし話し手と聞き手が向き合う場合はどうか。話し手にとっての「あれ」は聞き手にとっての「これ」となる。あれ=これ、といった状況が絶えず実現するだろう。唯一話し手と聞き手との中間領域だけが、あれ=これを満たす領域となる。このとき「あれ=これ」の省略形として「それ」が出現したと想定しよう。こうして出現した「それ」は「あれ=これ」の省略形であると同時に、「あれ=これ」という矛盾を解消たい(結果的に「あれ=これ」を満たす)指し示しとして使われるだろう。こうして、話し手の「あれ」で指される聞き手近傍の空間を意味する「それ」が出現する。その結果「それ」は、中間領域を指す使われ方と、聞き手近傍の空間を指す使われ方の、両者を有することになる。
 しかし、いま述べた説明は、説明になっていない。いまの説明では、話し手である私を原点とする絶対的な空間のみから出発しながら、説明の途上、聞き手である「あなた」の張る空間を不用意に認めてしまっている。つまりあらかじめ用意した空間の外部が、説明に介在してしまっている。ここから、次のように結論づけられるだろう。絶対的空間が実在し、その外部など考える必要がない、という想定が誤りだったのだ、と。つまり「これ」や「あれ」においてすら、空間における位置の指し示しと、空間の指し示しの両義性がある。ただし後者は隠れ、極めて見えにくい。この潜在していた両義性と、両義性から生じるパラドクスを無効にする外部性こそが、「これ」や「あれ」さえも現実に実現する機制である。この様相が「それ」において、明示的に発現したのである、と。
 こういった議論の進め方では、立ち行かない現実が進行している。私は強くそう思う。「それ」という言葉がない言語世界であっても、慎重に考えることで、位置の指定と、その位置を指すための空間の指定という両義性や、両義性ゆえに生じる自己言及構造、脱パラドクス化された自己言及としての区別、といった描像に辿り着けるだろう。しかし、そのような描像だけでは、新たな言葉「それ」を具体的に創り出していくことができない。いかに原理的な、区別=生成を主張しようとも、生成の現場に立ち会える装置足りえない。「これ」や「あれ」のみから成立する言語世界で、具体的に「それ」が創られる=創れる、ことを示さない限り、世界のダイナミズムを血肉とできない。それができないなら、現実を跡付け解釈するだけの、理論の無力さが際立つだけである。
 理論の力強さは、従来なかった装置や道具が創り出せることを示し、世界に対する描像が、具体的にどう変化するか、を示すところにしかないだろう。一般的にそのとおりである。しかし現在、本質的に「それ」であるような、きわめて特殊な装置を創りださない限り、理解できない問題がある。それが、環境という概念であり、生命である。

原生計算と存在論的観測―生命と時間、そして原生

原生計算と存在論的観測―生命と時間、そして原生