研究とその流通について
少し前に、大学院ゼミで「流通しない研究はだめだ」というようなことを言った*1。
ほとんど誤解されたようだが、「流通する」ということは、あらかじめ決められた流通ルートの構造にのって売れる研究が良いということではない、全くない。そうではなくて流通しながら流通ルートの構造を変えていくような情報を生み出していかないともうやっていけないだろうということが言いたかった。読んだ人が普段考えないようなことを思わず考えてしまうとか、通常無関係とされている領域が思わぬ形でつながっていく経路を示すとか、普段とは違う余分なコストを進んで払ってくれるような契機を情報に埋め込めるかどうかにかかってくるのではないか。つまり、流通しながら流通経路に侵入し感染させ変容させるような情報を生産していかないと、Web2.0時代(特に、ウィキペディアにおける訂正可能性の精緻化、あるいはグーグルの図書館データ電子化などの動き)には研究なんてやってられないのではないかということだ。ただそれは現代に限った話ではないと思うが。
「憑依とは語りの体系によって生み出された現実の諸相だ」などといったって、考えすぎの暇な大学生しか聞いてくれない。(アカデミック業界の)中に入ってくる人間にしか通用しないような言葉を、業界内部の常識に依存しながら流通しているようにみせかけても早晩いきづまる。とはいえ、誰にでもわかることを言うべきだ、ということでも全くない。それは流通の経路(の構造)を変えない。
誰にでもわかるわけでもないことを、誰にでもわかるようにいってしまうこと(より正確には、学問業界の外部にいる人が日常的になんとなくわかっているんだけれども言葉にできていなかったことを言葉にして伝えること)。それが経路を変えながら流通させるということだ。もちろん容易なことではない。現状では、誰にでもわかることを誰にでもわかる言葉で言っているだけの論者と、誰にでもわかるわけではないことを誰にでもわかる言葉でいってしまえる論者が混同され、後者と学問業界のつながりが絶たれることが多い(例えば、中沢新一や茂木健一郎。あるいは丹生谷貴志?。河合隼雄や養老孟司といった昭和の妖怪みたいな化け物研究者はその精力で分断をクリアしてしまったのかもわからないが、現状そういう人がこれから現れるとは考えにくい)。
ここでは人類学をめぐる諸問題の配置の転換を試みているつもりであり、それは上記の意味での風通しをよくするためのものであるが、少しでも狭い文脈に囚われれば単なる趣味的な「基礎付け論」と思われてしまうかもしれない。自戒をこめて。