10.解答篇1


このブログでは、浜本満氏の儀礼論についての考察をいくつか書いてきました。今までは、基本的には読書ノートという形をとり、浜本氏の立論過程の検討と問題点をしぼる作業に限定してきたところがあります。とはいえ、中途半端に批判しっぱなしで放置するのもよくないので、別のところでオフィシャルに発表する予定の論文の第一稿を貼り付けることにしました(ただし、完成までにはかなり多くの修正が必要となると思われるます。あくまで執筆中の論文ですので、もちろんここからの引用や転用はお控え下さい。まぁ、引用する価値がある程の文章だとも思えませんが)。


以下の文章は、このブログに書いてきた浜本満『秩序の方法』を中心とする考察を問題篇とするならば、解答篇(のひとつ)にあたるものです。おそろしく長い上に発表までにはまだまだ書き直しが必要な拙い文章ではありますが、本稿は、浜本氏や中川敏氏が展開してきた言語を軸とした規約システムとして文化を捉える議論が暗黙の前提としている枠組みとそれがもたらしてきた方法論上の困難を明らかにした上で、問題点を克服する方向のひとつを示すことを狙いとするものです。ただ、批判が目的なわけではなく、第一には両氏の議論の検討を通じて自分の議論の基盤を作るためのものです。うまくいったかどうかは自分でもあまり自信はありませんが、とりあえず一度いま言えることをいってしまおうと考えて書きました。書き直して発表が決まり次第PDFファイルにしてホームページのほうにリンクを張り、下記記事は削除する予定です。(しかしこれはブログの長さじゃないですね。申し訳ありません。)


まだまだ稚拙な議論ですので、疑問や批判がありましたら是非コメントやメールをいただけると有難いです。


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文化のへその緒
−人類学的方法論の再構築に向けての試論-(タイトル仮題:第一稿)


1.言語論的転回のアポリア


 20世紀の人文社会科学において、言語への注目は、分析の基盤となると同時にその基盤を揺るがす要因ともなってきた。「言語論的転回」と呼ばれる広範な理論的潮流を一括して語ることは難しいが、二つの主要な流れをそこにみることができる。第一に、ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』に端を発する、言語の構造こそが事物の存在を規定するという見地である。分析哲学に代表されるこうした立場からは、言語構造の分析を通じて世界の客観的な認識に至る手続きの精緻化が図られてきた。第二に、ソシュール記号学に端を発する、「言語こそ人間の意識を構成する主体であり社会的な意味を作りだすものである、ととらえる趨勢」[スピーゲル 1994:5]である。1970年代以来、(ポスト)構造主義記号論を根拠に展開されてきたこうした見地において、言語とはこの世界の現実を忠実に反映するものなどではなくむしろ世界を意味づけ現実を構成していく装置(「言説」)であり、その作動をめぐる権力関係の不均衡やそうした不均衡に対抗する動きが注目されてきた。
しばしば対立するこの二つの潮流は、しかしながら、「世界は言語を媒介として経験される」とする見解において一致している。もはや言語は現実の忠実な反映とはみなされず、むしろ言語の構造やその動態が、現実を現実たらしめていることが前提とされるようになったのである。
 フィールドワークにもとづいて現地の現実を「書く」営みである人類学にとって、こうした見解の浸透がもたらした影響は甚大であった。たとえ現地での長年の調査に基づいていても、人類学者の記述が現地の現実を正しく反映したものである保証はなくなった。さらにオリエンタリズム批判や現地人からの人類学批判などを通じて、民族誌を書くことによって自分たちには理解できない世界の有様としての「異文化」という表象を生み出し固定化してきたことが問題視されるようになった。
大塚和夫によれば、人類学における言語論的展開の含意は、「言語は現実=実在と考察主体との間に置かれた『透明なガラス板』などではなく、色や歪みも伴った『曇りガラス』であることを承認する」ことにあり、こうして「媒体=ガラス」としての言語の有り様こそが、検討されるべき対象となったのである[大塚2001:69]。
 日本の人類学においては、1980年代以来の言語論的転回の導入を受けて様々な反省的試みがなされてきたが、それらは主に二つの潮流を形成している。
第一に、フィールドの現実を直接把握しようとするのではなく、現地の人々の言語(および記号)的な営みを通じていかに現実が把握され構成されているのかを探る試みである。そこでは、憑依や呪術といった我々にとって異質な事象がこの世界の事実であるかどうかは括弧にいれた上で、それらをめぐる現地人の語りの体系を調査・記述することに留まるか、より積極的には、そうした語りの体系(システム)がいかにして憑依や呪術を現実のものとするのかが探られてきた。こうした見解は、ボアズ以来の伝統的な文化概念に言語論的展開を接合したものであるとも言えるだろう。すなわち、文化とはモノや具体的な行為の集積体ではなく、それらを意味あるものへと変換する規則やコードの体系であり、人々が暗黙の前提として受け入れているそうした体系の中心に言語があるとした上で、体系の客観的な分析が行われる。
 第二に、民族誌の言葉がフィールドを「異文化」として表象してきたことへの反省にもとづき、現地の集団および個人が言語(および記号)的実践を通じて自ら世界を構成していく運動と民族誌記述を接続していこうとする試みである。そこでは、支配的な言説に抗して自らの生きる世界を意味づけようとする人々の言語的営みが「象徴的抵抗」や「日常的実践」といった概念によって徴づけられ提示される。こうした立場は、文化は暗黙の前提などではなく、人間が世界を意味あるものに変える力であるとするカルチュラル・スタディーズに由来する文化概念に支えられている[大田2001:61]。人々の語りを分析することは、彼らを規定する暗黙裡の体系を明るみにだし客観的に記述することなどではなく、彼らが語りを通じて現実を生み出そうとしていく営みを記述することとなる。
 二つの潮流は、しばしば互いに排他的に対立してきた。前者の見地からすれば、文化的意味を特定の行為主体と不可分とする後者の見解は、分析の妥当性を特定の政治的立場に立つことによってしか保証しえない点で受け入れがたいものである[中川1996a:2-3]。後者の見地からすれば、体系としての文化を描き出す前者の分析は、実際の社会的政治的状況から大きく乖離した非歴史的な考察である点で受け入れがたいものである[大田1998:206-207]。両者の対立は容易に解決されるものではなく、人類学における言語論的展開は、分析の方法論をめぐる終わりのない袋小路となりつつあるように見える。
 
本稿の目的は、対立を統合することでもなければ、和解の筋道をつけることでもない。むしろ、人類学における言語論的展開が見落としてきた視点を提示した上で、言語と文化の関係を新たにイメージしなおすことを試みるものである。その視点とは、言語もまたこの世界の事象に他ならないという自明の事実から出発することだ。結論を先取りして言ってしまえば、言語(および言語を操る人間)が世界を構成する運動は、世界が言語(および言語とともにある人間)を構成する運動と相補的であるかぎりにおいて機能するのである 。 
ただし、言語や世界といった抽象的な言葉を用いて論を進める以上、丁寧に段階を踏んでいかなければならない。続く二章では、言語論的転回を理論的基礎に据えながら、人々の営みを、言語を軸とする規約の体系(システム)によって説明しようとしてきた論者の議論を分析し、その暗黙の前提となっている枠組みを抽出する。三章では、この枠組みがフィールドワークという経験の構造に由来していることを明らかにした上で、その問題点を指摘する。続く四章では、規約システムとしての言語がその外部にある世界の状態との相互作用にのみ根拠を持つことを明らかにし、その限りにおいて規約システムが変化し新たな文化的意味を生み出していくことが述べられる。


2.規約と恣意性


 中川敏[1996]は、民族誌記述をめぐるポスト・コロニアリズムとポスト・モダニズムに依拠する見解を、記述全般において反実在論(真理の存在を否定する立場)を適用する見地であるとして批判する。中川は、主に分析哲学の見地を援用しながら、民族誌の記述は規約言明と解釈言明に区別することができ、前者に対しては実在論[言明は(人間にその真偽がわからない言明であっても)正しいか間違っているかどちらかである]が適用され、後者に対しては反実在論[言明は正しいとも間違っているともいえない]が適用されうると主張する[中川1996aa:16]。
 彼が論拠とする例は次のようなものである。リスト(言語)とかごいっぱいの買い物(世界)がある。リストとかごの中身(買い物)はほぼ一致しているが、ただひとつ、リストに「バター」と書いてあるのに、かごのなかにはマーガリンが入っているとする。
もしリストが「買い物メモ」であるとすれば、かごの中身が間違っていることになる。一方、もしリストが買い物客の後をつけて何を買ったのか調べている探偵によるメモだとしたら、間違っているのはリストである。中川によれば、「買い物メモ」の場合には、言語(リスト)が世界(かごの中身)を支配している。言語と世界がずれたとき、まちがっているのは世界である。「探偵メモ」の場合には、世界(かごの中身)が言語(リスト)を支配している。もし言語が世界とずれた場合、間違っているのは言語のほうである。言語が世界を支配している場合、言語と世界の関連が「規約」であり、世界が言語を支配している場合、両者の関連の仕方が「解釈」であると中川は位置づける[中川1996aa:14]。
 この時、買い物メモに書かれた言葉は、買い物かごの中身として実現されている世界の状態と一対一に対応しているので、買い物メモに対してかごの中身は正しいか間違っているかのどちらかであり、正しく修正すること(マーガリンを戻してバターを入れること)が可能である。一方、探偵のメモの場合、もし探偵の目的が、買い物客がほうれんそうを買ったかどうかを調べることだけにあるならば、バターの代わりにマーガリンと書いてしまっても特に問題はない。前者の場合、言語に対応する世界の状態は厳密に決定されているのに対して、後者では、世界に対応する言語の状態はあらかじめ決定されず言葉を使用する個人の意図に委ねられている。
 この点については中川の論拠とするもう一つの事例のほうが分かりやすいだろう。プロ棋士同士の将棋の対局においてある指し手がなされたとする。棋譜にはその指し手に対応する「2二金」という言葉が棋譜作成者によって記入され、TV解説者が「(この差し手は)後手が持久戦をのぞんだ手ですね」と発言したとする。中川によれば、「2二金」は規約言明であり、棋譜に記入する人がどのような人間であるかに関わらず、あるいはそのような人間がいなくても、正しいかまちがっているかのどちらかである。一方、「後手が持久戦をのぞんだ手」は解釈言明であって正しいとも間違っているとも言えず、その根拠はただ解説者の個人的な意図に帰せられる。解釈言明は、たまたま同じ解釈を個人的に行った人間が多ければ多数決でより良い解釈とされるし、少なければより悪い解釈とされるが、真偽を問うことはできないものとなる。
 中川の議論は日常的な事例を用いながらも多分に形式的な論理に従って進められるため、明晰なようでいて分かりにくい。そのため、立論の筋道を形式的に押さえることが必要となる。ここで「関数」という概念を導入したい。関数(function)とは、数学的には、ある変数に依存して別の変数が決まる場合に両者の対応を表す式のことである。二つの変数 x と y があり、入力 x に対して、出力 y の値を決定する規則(x に特定の値を代入するごとに y の値が確定する)が与えられているとき、 f(x)=y と表すことができる。
中川のいう規約的連関すなわち、「言語が世界を支配している場合」とは、特定の言葉を入力とし特定の世界の状態を出力とする関数(規則性)が成立している状態と考えられる。「ほうれんそう」「ベーコン」「バター」と書かれた買い物メモは、ほうれんそうとベーコンとバターの入った正しい買い物かごの状態を指示する。その限りにおいて、買い物メモと買い物かごの中身が一対一で対応しているかどうかが、メモに何が書かれているかと買い物かごに何が入れられているかによって一義的に決定される。したがって、言葉(買い物メモ)は世界(買い物かごの中身)を正しく記述しているか間違っているか、いずれでしかない。
一方、解釈的連関すなわち、「世界が言語を支配している場合」とは、特定の世界の状態を入力とし特定の言葉を出力とする関数(規則性)が成立している状態と考えられる。重要なのは、規約の関数がそれに関わる人間の存在に全く影響されないのに対して、解釈の関数は一人一人の人間の内部にのみその根拠を持つとされているということである。ほうれんそうとベーコンとバターの入った買い物かごを見て、ほうれんそうのあるなしを調べている探偵は「ほうれんそう○」とメモに記述するだろうし、買い物客がどんな料理を作るかを調べている探偵はただ「ベーコンほうれんそうソテー?」と記述するだろう。規約関数は完全に客観的であるのに対して、解釈関数は完全に主観的であり、恣意という言葉の第一の意味(「自分なりに都合のよい考え方」)において恣意的である。
 したがって、中川の主張する規約と解釈の区別は関数の式f(x)=yによって、次のように形式化することができる。


①規約関数fにおいて :f(言語)=世界
②解釈関数gにおいて :g(世界)言語


規約関数は言語を入力とし世界を出力とする関数であるのに対して、解釈関数は世界を入力とし言語を出力とする関数であるから、解釈関数gは規約関数fの逆関数となっている。そして、解釈関数においては入力値としての世界に対していかなる言語が出力されるかは恣意的である。換言すれば、規約における規則性は誰がどのように言語を操るかに関係なく成立するのに対して、解釈は、言語を操る個人というブラックボックスに委ねられるために把握可能な規則性を持たない(このことを表すために解釈関数gの等号には斜線を記してある←ブログ版では斜線がひけないため削除線で代用)。つまり、言語を世界へと変換する上では規則性が成立するが、世界を言語へと変換する場合、規則性は成立しない(逆関数をとれない)のである。
中川によれば、言語はその根本において規約の体系であり[中川1996aa:14]、規約はそれを認識しようとする全ての人間にとって十全に把握されうる。したがって、規約言明としての現地人の言語の体系によって構成された世界を、両者の対応の規則性を(フィールドワークを通じて)把握した人類学者が記述したものであるかぎりにおいて、民族誌的言明は世界を正しく記述することができるのである[中川1996aa:17]。
 さて、以上で見てきたように中川の規約論は非常に形式化された論理に基づいている。しかしながら、こうした論理が日常生活の具体的な状況に整合的なものであるのかどうかには多分に疑問が残る。例えば、貧乏な買い物客は、買い物メモに「ほうれんそう、ベーコン、バター」と書いてあったとしても、金銭的負担を考慮してマーガリンを買い物かごに入れるかもしれない。彼が「ベーコンほうれんそうソテー」を作ろうとしている場合、買い物かごの中身は買い物リストに対して十分に対応しているとも言えるだろう。このように、日常生活においてはいかなる世界の状態が言明に整合的なのかは多分に流動的である。こうした事例を全て例外(あるいは解釈)として規約言明から排除したならば一体何が残るだろうか。むしろ規約においても恣意性は不可避的に孕まれてしまうのではないだろうか。
こうした疑問を引き受けた上で、中川とは異なる視点から言語を軸とした規約システムの論理を探求してきた浜本満の議論を、次に分析していきたい。
 浜本は著作『秩序の方法』の第四章で、ケニア海岸地方に住むドゥルマにおいて、夫が水甕を動かすことが、「妻を引き抜く」ことであり妻に死をもたらす行為であるとして禁じられている、という事例を分析している[浜本2001:101-148]。彼は、<水甕を動かす>→<妻を引き抜く>→<妻が死ぬ>という我々にとってはにわかに信じがたい一連の連関を、それを実効的なものにしている知識の形態に注目しながら丹念に分析していく。  
浜本はまず、まず連関の後半部<妻を引き抜く>→<妻が死ぬ>を、隠喩的な論理の構造における必然的な帰結として描いていく。「妻を引き抜く」という記述は、屋敷と妻をめぐる以下のような体系的な語り口のなかに位置づけられており、その限りにおいて意味をなしている。


1妻は屋敷に据え付けられた存在である。
2据え付けられたものはもちろん引き抜くことができる。
3引き抜かれた存在は、そこでは生きながらえることはできない。
4したがって、妻を引き抜いてしまったら妻は生きながらえることはできない。


浜本によれば、「妻を引き抜く」という表現は字義通りに受け取られるものではない。妻は実際に据え付けたり引き抜いたりできるものになぞらえられているのであり、この表現は隠喩にすぎない。しかし、人間はいったんある隠喩を使うことになれるとその隠喩のもつ構造を通じて世界を経験するようになる。例えば、我々は時間について(時間を)浪費する、節約する、使い切る、などといった時間を金銭や財になぞらえる言い回しをごく普通に使っている。我々は、その隠喩性をめったに意識することなしに、これらの言い回しによって時間をめぐる経験を構造化している。つまり、時間を使ったり貯めたりすることが現実的な行為である世界に生きているのである。しかし、こうした表現になじんでいない人々(例えばドゥルマ人)にとっては、「時間を使う」というのは奇妙に修辞的な比喩表現に見えるだろう、まさに「妻を引き抜く」という言い回しが我々にとってそう見えるのと同じように。
したがって、妻を実際に据え付けたり引き抜いたりできる何かになぞらえる隠喩の構造の内部では、その論理的帰結として、妻を引き抜くことは必然的に妻の死をもたらすのである[浜本2001:115]。ここで注意しなければならないのは、水甕を動かすことによって死に至るのはあくまで「妻」であって、「妻」であるところの女性ではないことである。妻が死の危険に晒されるのは、彼女がその屋敷に留まる(=妻であり続ける)限りにおいてであり、屋敷を離れれば危険は及ばない。それゆえ、夫が水甕を動かすことは結果的に妻を屋敷から放遂する行為となり、取り返しのつかない夫婦関係の崩壊を意味する[浜本2001:102]。
 屋敷と「妻」をめぐる語りの体系によって、それに対応する世界の有様(浜本が「秩序」と呼ぶものであり、ここでは妻を引き抜けば妻は死に至るということ)が現実的なものとなる。浜本もまた中川と同様に、言語の体系が必然的に世界の有様を規定することに注目するのである。
しかしながら、連関の前半部である<水甕を動かす>→<妻を引き抜く>という結びつきを分析するにあたって、浜本は規約システムの必然性と同時にその恣意性を執拗に強調するようになる。まず浜本が注目するのは、「妻を引き抜く」ということが、具体的にどんな行為を指しているのか全くわからないということである。したがって、「なぜ水甕を動かすと妻を引き抜いたことになるのか」という問いには容易に解答が見つからない。前者が具体的な行為であるのに対して、後者はそれが指し示す具体的な行為が何なのか全くわからない以上、両者の因果関係を特定することなどできないからだ。この難問に対して、浜本は少々アクロバティックな解答を提示する。すなわち、「水甕を動かすことこそ妻を引き抜くことに他ならないからだ」と答えるのである。
 浜本はサールの構成的規則論を援用しつつ、分析を進める。通常の規則(規制的規則)はある行為を対象としてそれに規制を加えるものであり、行為は規制に先行して存在する。例えば、「道路の右側を走行してはならない」という規制があろうとなかろうと道路の右側を走行することはできる。規制とは独立に規制される対象を特定することは不可能である。例えば「結婚するに際しては婚姻届を提出せねばならない」という規則においては、この規則そのものが結婚するという行為を定義している。この時「YするにはXせねばならない」という規則の表現は、容易に「Xすることをもって、Yすることとする」という別の表現に置き換わる。夫は水甕を動かしてはならないという規則も、「妻を引き抜く」という行為を定義しているのが当の禁止規則であるという点で構成的規則である。婚姻届を出すこと(X)をもって結婚すること(Y)とされるように、水甕を動かす(X)ことをもって妻を引き抜くこと(Y)とされるのである[浜本2001:117]。
したがって、水甕を動かすと妻が引き抜かれてしまうのは、「妻を引き抜く」という言葉の含意が水甕を動かすという具体的行為でしかありえないかぎりにおいて、必然的である。ここまでは<妻を引き抜く>→<妻が死ぬ>の連関と同じである。言葉をめぐる規則(規約)の体系によって世界の有様が決定されている。しかしながら、水甕を動かすことは、「妻を引き抜くこと」と違って、具体的な行為であり、規約システムの外部にいるもの、すなわち浜本や我々にとっても十全に把握することができる。だからこそ、我々は、水甕を動かすことと妻を引き抜くことの連関を恣意的に感じるのである。
必然的であり同時に恣意的であるというこの矛盾を、浜本は言語の根本的特性に由来するものとして説明する。彼によれば、ドゥルマにおいて「なぜ水甕を動かすと妻は引き抜かれてしまうのか?」という問いに「何故ならそうすることが妻を引き抜くことだからだ」という形でしか答えられないのは、我々が「なぜ水のことを例えば『ミソ』といわずに『ミズ』というのか?」という問いに、「『ミズ』が水のことである以上、他の何も―例えば『ミソ』も―水ではありえないからだ」と答えるしかないのと同じことである[浜本2001:118]。日本語という規約システムを生きている人々からすれば、世界の状態としての水と言葉としての『ミズ』の連関は必然的である。しかし、別の規約システムを生きている人々、例えば、水のことを「water」という人々の視点にたてば水と『ミズ』の連関は恣意的でしかない。同様に、水甕を動かすことを「妻を引き抜くこと」と言う規約システムの内部に生きる人々にとって必然的な両者の連関は、その外部にいる我々にとっては恣意的でしかないということになる[浜本2001:122]。
 以上のような浜本の主張の根拠になっているのは、ある言葉が特定の世界の状態を指すとき、両者の連関は何の自然的結合をも根拠にしていないというソシュール記号学の「恣意性の原理」である[ソシュール1940:102]。水という世界の状態に伴う性質を「ミズ」という表現がなされる根拠にすることはできないのである。したがって、なぜ水のことを『ミズ』というのかという問いに、「(『ミズ』という)特定の音列が「水」を表すのによりふさわしい理由や根拠を挙げることによって答えることなどできない」ということになる[浜本2001:118 括弧内は引用者による]。
 このように、浜本において、言葉(「ミズ」あるいは「妻を引き抜く」)から世界の状態(<水>という事物あるいは<水甕を動かす>という具体的な行為)が引き出される時には両者の連関は必然的である。一方、世界の状態から言葉が引き出される時には両者の連関は恣意という言葉の第二の意味(物事の関係が偶然的であり根拠がないこと)において恣意的である。
 以上の考察によって明らかになったのは、規約システムの恣意性を強調する浜本もまた基本的には中川と同様の図式に依拠しているということである。両者の違いは、中川が規約と解釈という二つの領域に区別したものを、浜本は規約システムの両義性として把握するという点にある。したがって、浜本の主張は次のように形式化できる。


①規約の必然性を示す関数fにおいて :f(言語)=世界
②規約の恣意性を示す関数gにおいて :g(世界言語


 浜本の議論の特徴は、規約システムの内部と外部という区別を導入することによって、その内部における世界と言語の一対一対応を保証することにある。したがって、ドゥルマの語りの体系によって構成された世界においては、f(言語)=世界という関数も、その逆関数であるg(世界)=言語も成立することになる。浜本が「秩序」と呼ぶのは、このような語りの体系によって構成された世界の有様に他ならない。ドゥルマの秩序を生きている人々にとっては、「妻を引き抜くこと」(言語)は水甕を動かすこと(世界)であり、水甕を動かすこと(世界)は「妻を引き抜くこと」(言語)なのである。したがって、ドゥルマの人々は我々とは異なる世界(の秩序)を生きているのであり、その限りにおいて我々にとって恣意的な連関が彼らにとっては必然的なものとなっているのである。
 こうして浜本は、<水甕を動かす>→<妻を引き抜く>→<妻が死ぬ>という一連の連関がリアリティを持つことの根拠として「<恣意性>を中枢にすえた秩序の機構」を提示することになる[浜本2001:123]。しかしながら、彼の分析が十分な説明能力を有している
のかについては疑問が残る。確かに我々が水のことを『ミズ』と呼ぶ最終的な根拠はないだろう。それは『ミソ』と呼ばれても構わないのかもしれない。しかし、水を『ミソ』と呼ぶことにしようといくら個人的に決めても、それを広く流通させるには様々な制約がいまのところ存在するだろう。そうした様々な制約とそれらの結びつきが、水と『ミズ』の連関を必然的なものにしている。そうした制約を受けない人々にとっては、両者の連関が恣意的なものに見える。だが、恣意性は様々な制約によって水と『ミズ』の連関が必然的なものとなっていることの効果ないし結果であって原因ではない。
同様に、ドゥルマにおいて「『3回まわってワンと吠える』が妻を引き抜くことであってはならない理由すら[・・・]最終的にはどこにもない」[浜本2001:120]だろう。しかし、現にそうなってはいない以上、水甕を動かすことと「妻を引き抜くこと」の連関を必然的なものにしている制約を明らかしないかぎり、この事象を説明したことにはならない。そのような制約を、浜本の提示するフィールドデータから敷衍して指摘することは十分可能である。しかし、その分析に進むまえに、浜本と中川が共通して前提としている枠組みを明確にし、その枠組みから脱却するための条件を同定することが必要となる。 
中川と浜本の提示する規約システム論に共通しているのは、言語と世界の非対称性である。言語を入力とし世界を出力とする場合には、言語と世界の連関に規則性(関数)を見出すことができる(「言明の真偽を決定できる」ないし「必然的である」)が、世界を入力とし言語を出力とする場合には、規則性は見出しえない(「言明の真偽は決定できない」ないし「恣意的である」)のである簡単に言ってしまえば、言語は世界を構成するが、世界は言語を構成しないのである。
 両者の議論に共通してみられる特徴は、単純に中川浜本両人の個人的資質や学問的性向によるものではない。むしろ、多くの人類学者が共通の経験として持つフィールドワークの構造からなかば不可避的に引き出される枠組みがその基盤となっており、両者の議論の共通点はその枠組みを精緻に理論化した帰結であると考えられる。次章では、いかにしてフィールドワークという経験が、言語と世界の非対称性という暗黙の前提を生み出してきたのかを考察した上で、その問題点を明らかにしていきたい。


3.フィールドワークという経験


フィールドワーカーは、まず現地語を習得しその使われ方を学習していく。彼(女)にとってそれ自体ではまったく意味をなさない個々の言語がどのような世界の状態をしめしているのか、それらがいかなる規則性を持っているかを学習していくのである。こうして、彼はその地域で言語がいかなる世界の状態を示しているのかを把握していく。それらの言葉は彼にとって全く馴染みのないものであり、それゆえに、個々の言葉が特定の世界の状態に対応していることは彼にとって全くもって必然的である。
 一方、彼は現地で自らが経験する個々の世界の状態に対して、自らの出身地の言語のそれぞれを対応づけることを避けられない。にもかかわらず現地の人々は全く異なる言葉をその世界の状態に対応させるのである。個々の世界の状態を、それに対応していると思われる自らに馴染みのある言葉によって記述することの妥当性は「現地の視点に立つ」という人類学の大前提によってあらかじめ消去されているから、自文化の言語体系に基づく記述こそが正しいのだと考えることもできない。こうして、個々の世界の状態と特定の言葉との対応関係は彼にとっては全く恣意的な(他の言葉でもありうる)ものとなる。
したがって、言語を入力とし世界を出力とするとき、f(言語)=世界という式がなりたつ一方で、その逆関数、つまりg(世界)=言語の式は、g(世界)=(言語1、言語2、言語3、言語4・・・・・)という多価関数となってしまう。そして数学的には、多価関数においては(一つの変数に対して、複数の出力が同時に出てしまってどの値を答えとするか決定できなくなるから)規則性が成り立たない(関数とならない)ように、フィールドワーカーは自らが経験する世界の状態が特定の言語と対応しているとは考えられなくなるのである。
この経験のプロセスは、言語論的転回の源泉の一つであるソシュールが記号の恣意性を自らの記号学の根幹にすえる際の記述において凝縮された形で先取りされている。


「妹」という観念は、その能記の役目をするひと続きの音s-o(..)-rとはどのような内部的関係によっても結ばれていない;それは他の随意のものによっても、けっこう表されるだろう:言語のあいだに差異のあることが、いや、諸言語の存在そのことが、その証拠である:所記「牡牛」は、国境のこちら側では能記b-o(..)-f(boef)をもち、あちら側ではo-k-s(ochs)をもつ[ソシュール1940:98]。


 フィールドワークは、「恣意性の原理」の根拠となる事例を日常的に経験する契機となるのである。だからこそ、例えば60年代のはじめに、レヴィ=ストロースが『野生の思考』のなかで「恣意性の原理は現在、むかしほどには明白なものではなくなっているように思われる」と述べているにもかかわらず[レヴィ=ストロース1976:187]、文化人類学において強い影響力を保持してきたと考えられる。
 以上のようなフィールドワークの経験の構造から引き出されてきた人類学的前提は、主に二つある。第一に、文化相対主義であり、第二に、文化とそうでないものの明確な区別である。
人類学者が現地である世界の状態[a]に出くわしたとしよう。彼はそれを不可避的に自文化の言葉<α>に対応づけると同時に、現地の言葉<β>によっても対応づけられていることを知る。この後、<β>が指す他の世界の状態が観察され、その範囲が<α>と同じであるならば、彼は躊躇なく<β>を<α>に置き換え[a]を記述するだろう。つまり翻訳が行われるのである。一方、もし、<β>が指す世界の状態が<α>のそれとは全く異なる場合、それは容易に翻訳できない。
ここで浜本が論文「相対主義の代価」で挙げている例を引用したい。ある人類学者が「夫は妻に対して怒りを感じた」と報告したとする。彼はある世界の状態(夫の表情や行動)を観察し、それに対応すると自分には思える言葉「怒り」と、それに対応づけられている現地語「chitsukizi」を把握した上で、後者を前者へと翻訳しているのである。しかし、葬式の場で泣く人々に対してそれは彼らが「chitsukizi」を感じたためだ、などと語られることを発見した時、「chitsukizi」と「怒り」が同じ世界の状態を指していると考えることはできなくなる。[浜本1985:113] 
 この困難を乗り越えるために、人類学者が自然と見につけてきた枠組みこそ文化相対主義に他ならない。つまり、自らにとって言葉<α>に対応していると思われた世界の状態[a]は、おそらく現地の人々にとっては言葉<β>に対応する世界の状態[b]であるのだろうと彼は考えるようになる。自分にとって[a]である世界は、彼らにとっては[b]なのだろうということになる。こうして世界が複数化する。ここから、文化相対主義のスローガン「異なる文化に属する人々は異なる世界に住む」[浜本1985:105]が導き出される。いったん、世界を複数化させてしまえば、言葉と世界の一対一対応が復活する。つまり、言葉<β>から世界の状態[b]が導き出され、世界の状態[b]から言葉[β]が導き出されうることになるのである。しかしその代償として、人類学者のいかなる翻訳も原理的には不可能なものとなってしまう。
 浜本は80年代に書かれたこの論文において、言語の根本的特性である「ズレ」に注目することでこの困難を乗り越えようとしている。つまり、必ずしも「chitsukizi」とは一対一対応しない「怒り」という言葉を、「chitsukizi」の当てはまる様々な文脈において使用することを通じて、「怒り」という言葉の我々にとっての含意を意図的にずらし解体していき、それによって、「怒り」を、「chitsukizi」が指す世界の状態と「怒り」が指す世界の状態を同時に含むような第三の言葉へと変えていくことが目指される。こうして、言葉を解体し再構成すると同時にそのプロセスを明確に示すような民族誌のあり方が提唱される[浜本1985:117]。
 浜本の示した方向性は、比喩を多用する彼独特の民族誌に結実し、記述の実践としてはある程度成功していると思われる。しかし、その理論的基礎付けには未だ成功していないと判断せざるをえない。「『妻を引き抜くこと』が水甕をうごかすことなのは、我々にとって『ミズ』が水を指すのと一緒だ、それは規約システム内部における必然性にすぎず外部からみれば恣意的でしかない」と言ってしまえば、結局、我々がドゥルマの人々の言うことを理解するためには、規約システムの内部に住まうこと、つまり完全に現地人になるしかないということになる。また、浜本提示する「秩序」という概念は、それが個々の言語システムによって構成される世界の有り様である点において、文化相対主義における複数化された世界と異なるところはない。
 文化相対主義による世界の複数化は、文化とそうでないものの明確な区別を引き起こす。フィールドワークの過程においては、必ずしも翻訳が成功しないわけではない。むしろ多くの場合は成功するだろう。つまり、自文化の言葉<α>と現地語<β>に対応する世界の状態があからさまに重なる場合、<α>と<β>は同じ世界の状態[c]を指すことになる。しかし、世界の複数化がすでにおこったあとでは、[c]を理論的に位置づける場所がなくなる。それは、文化とは無関係なものとして文化人類学的探求の外部に追放されることになる。その行き先は普遍で無垢なる自然であり、その探求は自然/生態人類学の領分とされ、両者の間に埋めがたい距離が設定されてしまうのである。こうして文化人類学が対象とするのは、モノや具体的な行為の集積体(つまり[c]の集合)ではなく、それらを意味あるものへと変換する規則やコードの体系であるということになる。こうして「文化」的事象は閉域に囲い込まれることになる。
 このように、言語と世界の非対称性から世界の複数化と文化の囲い込みが導かれてきた。こうした枠組みに対して、中川や浜本による規約システム論の展開は、その精緻化の試みであると同時に、こうした枠組のもたらす困難を克服しようとするものでもある。しかしその可能性はいまだ部分的なものに留まっている。それだけではなく、彼らがおこなってきた理論的精緻化は、人類学における言語論的展開に第三の困難をもたらしている。それは規約システムの変化を分析することができないということである。中川によれば、「規約は共同体のメンバーによって一気に獲得される。もし規約が変化するときには、それはまた一挙に変化するだろう」ということになる[中川1996aa:13]。浜本は、こうした中川の見解を、「経験的には絶対ありそうにない与太話である」としている[浜本2001:402]。彼は、ある規約システムの内部と結びついた共同体には―規約が恣意的であるからこそ―常にシステムの外部にいるもの(「ものを知らないもの」)の視点が介在し、それによってシステムが変化する可能性が与えられるとする。しかしながら、浜本もまた、その変化は偶然的で予測不可能なものでしかないと結論している[浜本2001:402]。こうした特徴は、彼らの議論をして、1章でも述べた「実際の社会的政治的状況から大きく乖離した非歴史的な考察にすぎない」という批判から逃れがたくしているのである。


4.世界が言語となり、言語が世界となる


 以上のように、フィールドワークという経験の構造に由来する言語と世界の非対称性という暗黙の前提から、世界の複数化、文化の囲い込み、変化を分析することの不可能性という方法論的困難が導かれることを示してきた。こうした困難をいかに克服することができるだろうか。
本稿の提示する解決策は単純である。言語もまた-書かれて読まれ、発声されて聴音される-世界の状態に他ならないという単純な事実から出発することである。このとき、言語は世界を表象するものであるという前提から分析を開始することは放棄され、代わりに、世界の状態としての言語が他の世界の状態といかなる関係をとりもつなかで、言語という作用(function)が生じているのかを探求することが可能となる。
 その第一歩は、中川と浜本が共通してその規則性の探求を放棄している、第二の関数式<g(世界)=言語>の存在を認めた上で、世界がいかにして言語となるのかを分析することである。
 世界が言語となるプロセスを記述・分析することなど人類学者の課題ではないという反応が予想される。そもそも「世界が言語となる」など一体どういうことなのかと思われるかもしれない。しかし、中川の規約論も浜本の秩序論も、本稿で「世界が言語となるプロセス」と呼ぶ過程についての記述を多分に含んでおり、彼らの立論は、無自覚なままそのプロセスに依拠したものになっている。
 まずは中川の規約論の根拠となっている将棋の事例を検討していきたい。彼によれば「今の指し手は2二金だ」という言明は正しいか、正しくないかの、どちらかである。世界(将棋盤と盤上の駒)が「2二」に「金」が置かれている状態であれば、その言明は正しい。それを「2三金」と言い張る人間は将棋という規約共同体から排除されると彼は主張する[中川1996b:38-39]。しかしながら、実際のところ、ある指し手が「2二金」かどうか全くわからない人でも将棋を指すことはできる。それどころか、その人が名人なみの技量を持つことも(困難ではあるだろうが)可能である。
 「強くはないけど将棋できるよ」という方は、以下の盤面を見ていただきたい。いま指された手は盤上の金を一つ左の位置から動かしたものだとする。さて、「いま指された手は2二金である」という言明は正しいだろうか?



 正解は×だ。この指し手は「2二金」ではなく「2八金」である。正解がわからなかった(あるいは「2八金」なのか「8二金」なのか忘れてしまった)方で、将棋をさせる人もいるだろう。棋譜を正しく記述できなくても、将棋というゲームをプレイすることは全くもって可能である。
というのも、棋譜とは、将棋盤上で行われる対局を紙媒体に記録する手段にすぎないからである。棋譜を作るためには、盤上の横の升目に右から1〜9の英数字を振りあて、縦の升目に上から一〜九の漢数字を振り当てるという約束事を知っていなければならない。中川の言に反して、ある指し手が「2八金」であるかどうかが正しいか正しくないかは、棋譜という記録手段および棋譜を記入する人間がこの世界に存在していなければ絶対に決定できない。
9×9の升目に区画された将棋盤と、8種類に区分された20×2個の駒と、升目に一対一対応で駒を置いていく人間のセットが、将棋というゲームを成立させている。その時点では言語の介在は必要ない。対局を紙媒体に記録する必要が出てきたことにはじめて「2八金」という言葉が登場するのである。中川の主張の根拠となっているのは、「2八金」という言葉と一対一に対応する世界(盤上)の状態<2八金>があるという直感である。しかしながら、世界の状態としての<2八金>は棋譜という記録手段が登場する以前には存在しない。それは、「下から二つ、右から二つの升目にある金」や「先手のまだ一度も動いていない桂馬の一個上にある金」でしかない。
 棋譜の言葉もまた、世界の状態に他ならない。それは「英数字X・漢数字Y・駒名(Xは1〜9の値、Yは一から九の値をとる)」という3つの異なる種類の書き文字から構成される。重要なのは、棋譜という世界の状態は、将棋盤という世界の状態の構造をうつしとるものであるということである。将棋というゲームが行われている時の将棋盤と盤上の駒という世界の状態には個々の物理的特性と人間の認知能力によって支えられた固有の構造(9×9の升目に区画された将棋盤と8種類に区分された20×2個の駒とそれらの升目に一対一対応で駒を置いていく人間のセット)がある。棋譜はその構造に重ねあわすことができるように構造化されているのである。盤上の構造は、「英数字X・漢数字Y・駒名(Xは1〜9の値、Yは一から九の値をとる)」という棋譜上の書き言葉によって写し取られるのである。さらに重要なのは、棋譜という世界の状態は将棋盤という世界の状態に重ねあわされることによってはじめて、後者を指示するもの、つまり言語となるということである。
 このように言語は、ある世界の状態が他の世界の状態を階層化する作用(function)に他ならない。いったん階層化が起こってしまえば、我々はある言葉(「二八金」)がある世界の状態(<2八金>)のことであるという枠組みから脱することはできなくなる。それは、外気温を入力とし温度計の水銀の高さと対応する目盛りの値を出力とする関数(function)が成立した後つまり温度計が発明された後では、我々は単に温度計をみて、「あ、36度なんだ」と言うのと同じである。このとき、「36度」は単に温度計の水銀の高さと目盛りの対応関係ではなく、端的に外気温という世界の状態であるということになる。しかし実際に<36度>という世界の状態を生み出しているのは、外気温と水源と温度計の間に存在する連関に他ならない。その連関の内部に取り込まれ、連関の存在が見えなくなることによって、我々は「36度」を世界の状態そのものとして捉えるようになるのである。同様に、言葉を使うとは、こうした枠組みの中(浜本の言う規約システムの内部)に閉じ込められ、そこで見える事物が枠組みとその外部との相互作用に依拠していることが見えなくなるということに他ならない。
 したがって、言語が世界を表象することができる(f(言語)=世界が成立する)のは、言語の構造が世界の構造に応じて要請され構成される(g(世界)=言語が成立する)限りにおいてである。さらに重要なことは、最初に言語を要請した世界の有り様と、構成された言語が表象する(本稿の主張に沿って言えば「生み出す」)世界の有様は多かれ少なかれズレを孕むということである。棋譜による世界の階層化によって、将棋盤上の横と縦の升目はそれ以前にはなかった示差的な区別を徴付けられる。つまり、まず横の升目を英数字でその後で縦の升目を漢数字で書くという、書き言葉という世界の状態に固有の線形構造に移し変えられることで始めて、横の升目と縦の升目は区別されるようになるのである。こうして、棋譜が存在しない時には<下から二つ、右から二つ>でも<上から8つ、左から8つ>でも<下から二つ、左から8つ>でもあった世界の状態は、<2八金>という世界の状態によって上書きされるのである。 
 言語は、世界のある部分が別の部分を重ねあわせ、自らの構造において別の部分の構造を写し取る作用(関数)であり、その限りにおいて言語は自らと対応する世界を生み出す(映し出す)。この見地は、ソシュール以前の伝統的な言語観、つまり言語は世界内の事物が有する名であり両者は完全に一対一対応するといういまだ日常的な感覚に適合的であるだけでなく、こうした言語観では捉えきれない(言語論的転回が根拠としてきた)現実を把握することを可能にする。つまり、言語が世界によって生み出されそれを根拠に世界を生み出すとき、世界は以前とは異なるものとなるのである。
世界の階層化の作用としての言語は、その作用によって世界の変容を導く。その根拠となるのは、言語もまた固有の構造をもった世界の状態に他ならないことであり、その構造がそれが写し取る別の世界の状態の構造とズレている限りにおいて、世界の状態を、階層化される以前とは異なるものへとズラしていくことが可能になる。
この二重のズレが言語の基本的特性であり、第一のズレが第二のズレを可能にする。したがって、言語はその本性において世界のズレであり、ズレに基づいて世界の変容を引き起こすものである。浜本が相対主義の難問を克服するために頼った言語のズレは、言語自体のズレではなく言語と世界のズレであり、世界そのもののズレであるかぎりにおいて機能するものである。
 以上の分析を、本稿で扱ってきた二つの関数のセットにあてはめると次のようになる。


 ①g(世界)=言語→②f(言語)=世界’→ ① g(世界')=言語→②f(言語)=世界''→・・・


 規約システムとしての言語は、浜本の主張するような「自らの根拠を自己以外のどこにももたない自己完結したシステム」などではありえない[浜本2001:401]。それが自己完結しているように見えるのは、階層化の作用によって閉域が生み出されるからであり、その作用は言語の外部にある世界との相互作用(より正確には世界が自らを折りたたんでいく運動)に基づいている。
 とはいえ、中川の挙げる将棋の例は、非常に形式的な把握が可能な、多分に特殊な例と思われるかもしれない。その分析から導出してきたここでの主張もまた、抽象的すぎて妥当性がないと思われても仕方がないだろう。次に、より日常生活の複雑さに適合的な浜本の事例を分析していきたい。
 まず注目していただきたいのは、「水甕」をめぐる以下の浜本の記述である。


(ドゥルマにおいて)「水道が普及していない多くの地域ではもちろんのこと、水道水が利用可能な一部地域においてさえ、生活に必要な水は女性による水汲みに負っている。汲んできた水は、それぞれの夫人の小屋の炉の近くに置かれた容器に貯めおかれる。昔ながらの土器の大きな壺もまだ用いられているが、大型のポリバケツやプラスチック製の容器も普及している。水を貯えておくためのこうした容器はシミキロ(simikiro)という特別な名前で呼ばれる。これは「(地面に)突き立てる、据え付ける、安置する」などの意味の動詞シミカ(ku-simika)の派生語であるが、水甕と訳しておく。この表現に呼応するように、水甕に対しては「動かす(ku-senegeze)という動詞の代わりに「引き抜く(ku-ng'ola)」という表現を用いる」[浜本2001:101]。

 
この記述から次のことが分かる。つまり、浜本が<水甕を動かす>という世界の状態と「妻を引き抜く」という言葉を対応させて記述していた事態には、もう一つ別の言葉「simikiroをku-ng'olaする」がはさみこまれているということである。Simikiroは「突き立てる、据え付ける、安置する」という動詞simikaの派生語であるとされ、それを引き抜くという記述がなされると浜本は報告しているところから、simikaの名詞形であると考えられる。したがってここでは「据え付けられたもの」と表記することにする。このとき浜本が「水甕を動かす」と表記した行為は、ドゥルマでは普通「据え付けられたもの(simikiro)を引き抜く(ku-ng'ola)」と表現されるということが分かる。
 したがって、浜本が<水甕を動かすこと>→<妻を引き抜くこと>という2つの事柄の連関において捉えている事象は、実際には<水を貯めおく土器やプラスチックの容器(水甕)を動かすこと>→<据え付けられたものを引き抜くこと>→<妻を引き抜くこと>という3つの要素の連関において捉えることができる。ドゥルマでは妻が妻たりうるのは彼女が屋敷に据え付けられている限りにおいてであるから、後半二つの連関はさらに次のように置き換えることができる。「据え付けられたものを引き抜くこと」→「据え付けられた妻を引き抜くこと」。
 重要なのは、この三者の連関は「水を貯めておく容器(水甕)を動かしてはならない」という禁止をめぐって構成されているということ、また、この禁止が特に夫に向けられたものであるということである。なぜ夫やほかの人間が水甕を動かしてはならないのか、という問いには簡単に予想される答えがある。生活のための全ての水が単一の容器に貯め置かれており、それを妻が独占して管理しているのであれば、妻以外の人物がそれを動かしてしまえば、生活の利便性の点で困ったことになるのは自明である。
 ここでは二段階の階層化が行われている。第一に、ある一定の位置に置かれている水甕という世界の状態が「据え付けられたもの」という言葉によって階層化される。「据え付けられたもの」という言葉によって、水甕が置かれているという世界の状態と同時に、それが生活の要の一つであり、その限りにおいてある一定の位置に置かれていて容易には動かされることがないものであるという世界の状態もまた写し取られる。その結果、「据え付けられたもの」は世界の存在物となる。同時に「据え付けられたものを引き抜くこと」という言葉はある一定の位置に置かれていて容易には動かされることのない水を貯め置く容器をわざわざ動かすという行為を写し取って、具体的な行為(世界の状態)となるのである。
 第二に、「据え付けられたものを引き抜く」という今や世界の状態(具体的な行為)となったものに、「妻を引き抜く」という言葉が重ねあわされている。このとき、決定的に重要なのは、水甕の所有者である妻はそれを自由に動かすことができるということである[浜本2001:102]。したがって、「据え付けられたものを引き抜くこと」は、単に、ある一定の位置に置かれていて容易には動かされることがない水甕という世界の状態と対応しているわけではなく、妻が居る(知る)場所に置かれて妻以外には容易に動かされることのない水甕という世界の状態を伴っている。
ここで注意していただきたいのは、第一の階層化において「据え付けられたものを引き抜くこと」という言葉が単に水の貯め置かれている容器を動かすという世界の状態だけでなく、ある一定の位置に置かれていて容易には動かされることのない水を貯め置く容器をわざわざ動かすという行為を写し取っているということである。だからこそ、「水甕を動かす」という言葉では不十分であり「据え付けられたものを引き抜くこと」という言葉が追加で要請されるのである。
同様に、「据え付けられたものを引き抜くこと」という行為には、妻が居る(知る)場所に置かれて妻以外には容易に動かされることのない水甕を妻以外の者がわざわざ動かしてしまうことであり、妻の所有物に不当にアクセスすることであり、妻を軸とする家庭生活の秩序を乱す行為であり、妻とともに家庭生活の秩序を維持しなければならない夫によって水甕がわざわざ動かされた場合には端的に妻との結婚生活を否定する行為となってしまう、といった、多くの含意(他の世界の状態との結びつき)が伴う。しかし、「据え付けられたものを引き抜くこと」という言葉だけでは、このような追加の世界の状態を写し取ることはできない。そこで、こうした世界の状態を加えて写し取るために「据え付けられたものを引き抜くこと」という言葉に「妻を引き抜くこと」という言葉が述語付けされ、「据え付けられたものを引き抜くことは妻を引き抜くことである」という言葉が生まれるのである。それによって、「据え付けられたものを引き抜くこと」という言葉が構成する世界の有様に上記の様々な世界の状態がつけ加えられていくことになる。世界がそれに対応する言語を要請し、その限りにおいて言語はそれに対応する世界を要請するのである。(実際には第一の階層化と第二の階層化はほぼ同時に起こっていると考えられる)。
 以上のように、浜本の事例もまた、中川の将棋の例と同様に分析することができる。言語とは、世界の一部が他の世界の一部を重ねあわしていく階層化の作用であり、両者が階層化されることによって言語を通じて出力されるものが世界そのものとなる。同時に、両者それぞれに固有の構造間のズレ、つまり言語システムとその外部との相互作用を根拠として、世界は階層化以前とは異なるものへと変化していくのである。
 言語を軸とした規約システムとは、常に非言語的な事物(と)の相互作用によって可能となる世界の階層化作用にほかならず、システム内部での必然性や恣意性は、システムがその外部との相互作用にのみ根拠をもち、その限りにおいて変容していくことの結果でしかない。文化が、言語を軸とした規約システムであるとするならば、それは言語システムの外部との接続によって駆動されているのであり、言語の体系として我々にみえるものはその結果ないし効果にすぎない。我々は、文化がそれによって生み出される言語システムの外部との接続の回路、文化のへその緒の存在を忘れてはならないのである。
こうした見地に立てば、3章で指摘した規約システムとしての文化をめぐる3つの困難、世界の複数化、文化の囲い込み、変化を分析することの不可能性は解消される。第一に、異なる地域に住む人々が我々とは異なる世界の状態(地形、気候、資源、肉体的特徴など)のうちに生きてきたこと、彼ら独自の階層化の所産によって我々とは異なる世界の状態を構成してきたことは自明であり、そのメカニズムを調査・分析することを通じて、我々と「同じ世界」に住む人々の有様がいかに異なる「世界の状態」によって生み出され生み出してきたかを我々のそれと連続的に捉え分析していくことが可能になる。
第二に、そのようなメカニズムを明らかにする上では、言語の外部の諸要素と言語を軸にした規約システムの絶えることのない相互作用を明らかにすることが決定的に重要になってくる。自然/生態人類学の領分とされてきたもの、より重要なことには、単なる物質的操作であるとされ文化の分析から分離されてきた様々な技術にまつわる領域を、言語を軸とした規約システムと不可分のものとして分析していくことが可能になるし必要となる。 
第三に、階層化によって世界を変容させていく言語の有様を上記のような言語外の実践の変容と接合していくことによって、変化の動態を根本に据えた文化分析の枠組みを構築していくことができるようになる。
 

 とはいえ、本稿で提示した筋道はいまだ試論の段階を脱していない。上にあげた三つの方向性は、そのまま、本稿のいまだ抽象的な議論を精緻化する上での課題となるだろう。
 さらには、もうひとつ、最も重要な課題が存在する。それは人類学における「われわれ=人間」の位置づけの再設定である。本稿は、言語とは世界を階層化していく関数(作用)に他ならないとしてきた。そして、生きるために世界を関数的連関で満たしていく技術は言語の他にも無数にある。その膨大な領域には、温度計や日時計といった人間の古くからの処方だけでなく、ユクスキュルがその環世界論によって描き出したように、様々な生物の処方も含まれる。環世界とは、それぞれの生物に固有の階層化作用によって折りたたまれた世界の有様に他ならないからだ[ユクスキュル:2005]。
こうして、規約システムとしての文化を対象とする人類学的探求は、「言語を喋る動物」として特権化された「われわれ=人間」に閉じられた静的な分析であることをやめ、非言語的な人間の実践を言語体系に還元してしまうことをやめ、非言語的な人間の生態や言葉を喋らない生物の営みの分析との連続性を再び回復するのである。



[参考文献]
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1976 『野生の思考』大橋保夫みすず書房