ジョンソン&レイコフ読書ノート1


レトリックと人生

レトリックと人生


24.メタファーと真実


・真実論に関する関心

p230
メタファーというのは本質的に概念の構成に関わるものである。
メタファーはわれわれに理解をもたらす重要な方法である。
しかしながら、哲学ではメタファーは「単なる言葉」の問題としてとらえられているのが普通である。

p230-231
哲学者たちが下す典型的な結論は、メタファーは直接真実をあらわすことはできないということである。よしんば真実をあらわすことができるとしても、それは間接的にであり、非メタファー的な「字義通り」の表現に置き換えることによってのみ可能である。

p231
筆者たちは真実とは理解に基づくものであり、メタファーがその理解をもたらす重要な伝達方法であると考えている。

p233
たとえば、岩から1フィート離れたところにボールが一個あるとする。そういう場合、われわれならそのボールは岩の前(in front of the rock)にあると知覚するだろう。ハウサ人(スーダンに住む黒人種)たちはわれわれとは異なった投影をする
ハウサ人ならこういう場合そのボールは岩のうしろ(in back of the rock)にあると理解する。だから、岩のような物体の場合、前-後の方向性は固有の属性ではなくて、むしろわれわれが物体に対して投影するものなのである。そして、その投影の仕方はそれぞれの文化によって異なっている。

p234
日常生活において常にそうであるように、真実とは理解との関係によって相対的に決まるのである。そして、上のような文の真実性は外界に方向性を投影したり、実体のある存在物の構造を投影することによってなされる日常の外界の理解の仕方との相対的な関係によって決まるものなのである。

↓言い換えれば↓

p236
真実というのは物事をカテゴリーに分類する際の分類の仕方に基づいて述べられる。ということはすなわり、その分類されたカテゴリーの自然の相が際立たせるものに基づいて真実は述べられるということである。
[・・・]
されに、カテゴリーの自然な相(知覚上の相、機能に関する相など)というのは、この世の中とわれわれとの間の相互作用によって生じるものであるから、そうした相によって与えられる属性というのは対象それ自身の属性ではない。それはむしろ、人間の知覚器官や機能と言うの物に関する人間の概念などに基盤をもつ相互作用的な属性である。したがって、人間的なカテゴリーに基づいて述べられる真実というのは、対象自体の属性を述べているのではなく、むしろ常に、人間の機能との相対的関係においてのみ意味をなす相互作用的な属性を述べていることになる。

・単純な文を真実として理解する

例1:The fog is in front of the mountain(その山の前に霧がかかっている)
例2:Jhon fired the gun at Harry(ジョンがハリーに向かって発砲した)

こうした(メタファーを使わない)単純な文についての考察から次のことが導き出される。

p243-244
1.ある文がある状況のもとで真実であると理解されるためには、その文の理解とその状況の理解が必要である。
2.その文の理解とその状況の理解がぴったりと合致する場合には、その文は真実であると理解される。
3.文の理解に合致するような状況を理解するためには、次のことが必要であろう。
 a.固有の方向性をもたないものに対してある方向性を投影すること(たとえば、山に前面があるとみなす。)
 b.明確な意味で境界線をもたないもの(たとえば、霧や山)に対して存在物の構造を投影すること。
 c.文が意味をなすような背景を与えること、つまり、経験のゲシュタルト(たとえば、「誰かを射つこと」,「曲芸を演じる  こと」)を想起し、そのゲシュタルトに基づいて状況を理解すること。
 d.原型によって定義されるカテゴリー(たとえば,「銃」,「発砲」)にもとづいて文の「通常の」理解を行い、同じカテゴ  リーに基づいて状況の理解を行おうとすること。 

・常套的メタファーを真実として理解する


前節で取り上げた単純な文に常套句メタファーが加わっても、根本的には同じようなやりかたでそれらを真実として理解するのである。
例“inflation has gone up"(インフレが上昇した)。

p244-245
この文が真実であり得るような状況を理解するためには必然的に二つの投影を行わなければならない。まず。インフレの例を識別し、それらを実体を備えているものとみなさなければならない。そうすればそれを数量化することができ、したがってそれが増大するものであるとみなすことができる。これら二つの投影は二つの常套句メタファーによって構成されている。すなわち、inflation is a substance<インフレは実体ある物である>(存在論的メタファー)とMORE is UP<より多いことは上>(方向付けのメタファー)である。

p245
このようなケースの状況に対してなされる投影と、例えば先に挙げた「霧が山の前方にある(=かかっている)」のような状況に対してなされる投影では、重要な相違点がひとつある。

「霧」の場合は、われわれは物理的なもの(霧)を他の物理的であるがもともと明確な輪郭をもったもの―輪郭線のはっきりしている物理的物体をモデルにして理解している。「前方」(front)の場合は、別の物体の物理的方向性、すなわりわれわれの体の方向性に基づいて、山の物理的方向性を理解している。どちらの場合も、ある物理的な物を同じように物理的な物に基づいて理解しているわけである。しかしながら、常套句メタファーの場合は、あるものを異なった種類の他のものに基づいて理解しているのである。「インフレが上昇した」では(抽象的な)インフレを物理的な実体ある物に基づいて理解している。そしてインフレの増大(これも抽象的である)を物理的な方向性(up)に基づいて理解しているわけである。

投影が同種のものを伴うか異種のものを伴うかが唯一の相違点である。


要約すると、“inflation has gone up"のような文を真実であると理解する場合には、われわれは次のことを行っている。

1.二通りのやり方で、メタファーによる投影を行い、それによってこの場合の「状況」を理解する。
 a.インフレを(存在の(存在論的)メタファーによって)実体あるもの(サブスタンス)とみなす。
 b.MOREを(方向付けのメタファーによって)up<上方へ>と方向づけられているとみなす。
2.上の二つのメタファーに基づいてこの「文」を理解する。
3.以上のことによって、われわれは文の理解を状況の理解と合致させることができる。


このように、メタファーに基づいて真実を理解することと、メタファーによらない投影に基づいて真実を理解することには本質的な違いはない。唯一の違いは、メタファーによる投影は必然的に、ある種類のものを他の種類にものに基づいて理解することになるという点だけである。つまり、メタファーによる投影は二つの異なった種類のものが必要であるが、メタファーによらない投影のほうは同一種類のものがあればよいということである。

筆者たちに言わせれば真実の捉え方は常套句メタファーの場合も、メタファーを含まない文の場合も同じように説明できる。
どちらの場合も「文が、与えられた状況の中で真実であると理解されるためには、文の理解と状況の理解が合致してなければならない。」(p247)

p255
<真実は理解に基づいている>
われわれは自分の概念体系に基づいて状況を理解しているからこそ、その概念体系を利用して述べられていることを真実として理解することができるのである。つまり、われわれが理解しているような状況に合致するかしないかを理解できるのである。

本書でのジョンソン&レイコフの主張において第一のポイントは、<ある文が真実かどうかは(文と状況の)理解に相対的に決まる>というものだ。したがって、この理論は、<理解>を媒介にした対応説(correspondence theory)[諸説の真実性は、対応する要素をもつ事実があることによるとする真理論]とも言えるだろう。世界と表象が対応するのではなく、状況の理解と文の理解が並置され、両者の理解がともに同一の(メタファー的ないし非メタファー的な)投影のメカニズムに依拠しているかぎりにおいて、その対応ないし合致(=真実性)が可能となる。


・単純な対応説(文⇔事実)
 <真実というのは述べられたことと外界の事実が合致もしくは対応していることである>

・「理解」を媒介にした対応説(文の理解⇔状況の理解)
 <真実というのは述べられたこと(文)の理解と状況の理解が合致もしくは対応していることである>


第二のポイントは「理解」が人間と世界の相互作用に他ならないということだろう。
この主張の根拠を抜粋すると、

・我々は状況とのべられたこと(文)を自分の概念体系に基づいて理解している。
・人間が行うカテゴリー分類は、現実の世界との絶えることのない相互作用によって検証され規定される。
・人間の(持つ)概念は、物事の固有の属性と直接的に符号するのではなく人間と世界の相互作用的な属性のみと符号する。
・なぜなら、概念というのはそもそもメタファーによって成り立つことができるものであるから。
(p257-258より)

  [状況]          [文]
  ↑↓→理解=理解←↑↓
  人間           人間

第三のポイント、この主張はそのまま受け取れば文化相対主義に行き着く。


・われわれは状況や述べられたことを自分の概念体系に基づいて理解しているので、われわれにとっての真実というのは常に 概念体系との相対的関係によって決まる。さらに理解というのは常に部分的なものであるので、「完全な真実」や「純粋に 客観的な真実」を得ることは絶対にできない。
・われわれとは異なった概念体系をもつ人々は、全く異なる仕方でこの世界を理解しているかもしれない。したがってそうい う人たちはまったく異なる真実の体系をもち、真実や現実のまったく異なる基準をもっているかもしれない。
(p258)


このブログの大まかな論旨からすると、ここでのジョンソン&レイコフの議論は両義的な含意を持つ。簡単に言えば<1真実は(状況と文の)理解ひいては理解を規定する概念体系との相対的関係によってきまる2概念体系は世界と人間の相互作用のなかでのみ生じる>という主張の第一点において、世界と世界の見方の分割(とその帰結としての文化相対主義)が導き出されうるが、第二点において両者が統合される(あるいは両者の分割なしに「真実」を解析する)可能性が生じている。第二点の含意をより掘り下げることによって、「この世界」と「世界を理解する各文化によって異なる仕方」が別々にあるという結論に終始するのではなくて、単に世界と人間の相互作用において多様な概念体系が生成変化するのであるのであってそのメカニズムを十全に説明することは全くもって可能である、という見地から分析を開始することができると思われる。ただ、こうした見地はあくまでも読解の可能性として保障されるに留まっていると考えるほうが正確かもしれない。とりあえず本章の主張として取り出されうるのは、<言語活動による意味の構造化は世界と人間(あるいは世界における人間同士)の相互作用に規定される経験の組織化に依拠することではじめて機能しうる>という知見であるだろうか。重要なのは、ここで「投影」と呼ばれている営為が、人間と世界の相互作用の結果である「相対的属性」がモノに付与されるというものであり、その限りにおいてこの営為は人間から世界への恣意的な意味付与ではないという点だ。この点において、認知意味論はソシュール的な言語(ラング)-記号論から脱却する契機を保持している。


ここで重要になってくるのは、「理解」の根本としてのメタファーというアイディアと、メタファーの根本としての人間と世界の相互乗り入れというアイディアだろう。この時、身体性や技術といった要素が、認識と切り離されえないものとして登場してくる。このカテゴリーでは、こうしたスタンスの下に、この著作以後の認知意味論の展開を検討していくことになるだろう。