自閉症とロボット


 このブログではほとんど言及していないが、現在の研究のメインであるロボットに関するフィールドワークの成果を発表する機会がこのところ数回あった。その折、自閉症に関する科学技術人類学を専攻している知人に、ロボットと自閉症をめぐる状況にある種の共通性があるのではという感想を頂いた。興味を持って調べていくうちに自分も似た印象を持つようになったのだが、おそらく、こうした類比には「自閉症児をロボットの比喩で語るのか」という感情的な反発が予想されるだろう。それだけに、彼がその類比を自分の研究にとってもポジティブなものと捉えているように見えるのはとても興味深い。


 研究者は自分の研究する対象に、一言では表現できない複雑な愛着(その成分の基調は知的なものではあるが)を持つものだと思う。「それって例えば○○と一緒じゃないの?」といった安易な類比に対してはまず反発し言葉を尽くしてその安易さを理解してもらおうとするのが普通だろう。ところが、彼にとって自閉症をロボットなぞらえながら考えることはどこかポジティブな感覚を伴うように見える。そしてまた自分にとっても、ロボットを自閉症になぞらえながら考えることは分析的に有用であるだけでなく、倫理的にも肯定すべき要素を含んでいるように思える。しかし、その含意はまだはっきりと説明できない。慎重に展開する必要があるだろう。


 確かに近年の自閉症研究とAI・ロボティクスの変遷には色々と共通項が見て取れる。そして、この類比は自分の研究の道筋をまた違うポイントから俯瞰することを可能にしてくれるもののようにも思われる。というわけで、全くの門外漢だが、このカテゴリーでは自閉症に関するいくつかの文献を追いながらまずは断片的なアイディアを記述していくことにする。


 まず自閉症とロボットの類比を明示的に打ち出している著作から。


鉄腕アトムと晋平君―ロボット研究の進化と自閉症児の発達

鉄腕アトムと晋平君―ロボット研究の進化と自閉症児の発達

 
 本書冒頭では、さきに挙げた予想される感情的な反発について記述がされている。

p2
「ロボット」と「障害児」、これまで両者が同時に話題にされることはほとんどありませんでした。「ロボット」の目標は「優秀な人間」であって、障害児ではありません。誰だって「壊れたロボット」なんて望まないでしょう。一方、障害児教育に関わる人々も、「障害は持っているけれども彼らだって人間なんだ。暖かい心を持たず、何でも人の言うとおりにしか行動できないロボットのような人間に、彼らを育てるべきではない」と主張してきました。「ロボット」と「障害児」を一緒に議論すことなどとんでもないことであり、事実これまで同時に話題になることはほとんどなかったのです。

続く一文で筆者はあえてこのタブーに挑むことを宣言し次のように続ける。

p3
「ロボットのこと」と「障害児のこと」を、一緒に考えてみようと思います。なぜあえてそのようなことをしようとしているかといえば、私はロボット開発と障害児教育とがひとつのとても大切な共通点を持っていることに気がついたからです。そのとても大切な共通点とは何かといえば、ともにその根本には「人間」があるということです。「ロボットのこと」を知ること、そして「障害児のこと」を知ること、それはどちらも「人間」を知ることに他ならないのです。

 ここで言われていることを自分の研究で展開してきた論点から捉えなおせば、次のようになる。「暖かい心を持たず、何でも人の言うとおりにしか行動できないロボットのような人間に、彼らを育てるべきではない」という一文に端的に現れているように、私たちには不思議と「ロボットとはこういうものだ」と確信をもって述べる傾向がある。実際はAI・ロボティクスの専門家たちの間でされ共通の十全な定義が存在したことは一度たりともないないにも関わらず。そして、こうした断言がなされるのは決まって人間とロボットが対比される時である。そもそもこうした発言は「暖かい心を持っていないロボット」に実際に接触した経験からくるものではない。にもかかわず、この種の発言が確信をもってなされるのは、「ロボットとは何か」ということが、実際に研究され開発されている種々の機械とは無関係に、「われわれ人間とは何か」に関する日常的な確信の一部となっているからに他ならない。つまり、ロボットとは「われわれ人間がそうでないところのもの」なのである*1


つまり、「ロボット」とはある種のイマージュ(イメージ)であり、それは、<われわれ>にとって<われわれであるところのもの>として機能しつづけてきたイマージュとしての「人間」の輪郭(あるいは図に対する地)として機能してきたものに他ならないのである。では何故そうしたイマージュが現実に動作する機械として具体化しているのか(少なくとも、実際に開発され販売される機械の一部にそうしたイマージュが重ねあわされているのか)、そこに巨額の国家予算と民間投資がなされているのは何故か、といった自分の研究の主題となる諸問題はここでは置いておこう。いずれこのブログで書く機会もあるかもしれないが。


 大事なことは、「ロボット」と「自閉症」の類比の基盤となるのは、両者に関する状況(そこには自閉症児の近親者や研究者、ロボットマンガの作者、ロボット工学者、そして未来のロボットを夢見る消費者などなどが関わってくる)が「人間」のイマージュとの関わりにおいて駆動されてきたということである。そして、近年の自閉症研究において、ロボットが「人間」のある種の輪郭であるのと同じように、自閉症が「健全な人間」のある種の輪郭として現れていることが注目されてきているということである。そこでは、自閉症が健全な人間とは全く異なるものであるとか、健全な人間から何かが欠落したり何かが過剰であったりするものだとする従来の見方が批判されている。そこではむしろ、「自閉症であること」と「健全であること」における共通性が指摘されると同時に、むしろわれわれにとって「健全であること」がある閉域に囲い込まれることで可能となっていること、それによって初めて「自閉症」が病理として現れていることが示唆されているように見える。ここで囲い込みと表現したものは決してカテゴリーの社会的構築と呼ばれるようなものではない。ロボット開発が単なる幼少期の夢想の具体化ではない(もしそうであるならば、何故「カメハメ波」を作ろうとしないのか。何故、ロボットテクノロジーが未来の基幹産業などどとされているのか)のと同様に、それは単なる人為的ないし社会的な囲い込みではない。(ここまで書いたあと、おそらく後に言及するだろう村瀬学自閉症』の終章を読んで、「輪郭」という表現は後で修正する必要があると考えた。終章「おくれとは何か」で展開されている卓越した観察と記述に比べて、上の記述はあまりにも稚拙だ。カオス-コスモス(狂人-健常人)モデルは現在では有効性を失っている。この点についてはいずれ考察しなおした上で修正および精緻化を目論むつもり。とりあえず現時点で言えることだけいってみると、大事なのは「人間」が「ロボット」や「自閉症」が地としたら図に対応するといっても、<私たち>が地に含まれているというわけではないことだ。村瀬がいうよう、「健常者」といわれるものもまたなんらかの「おくれ」を生きている。つまり、<わたし⇔われわれ>がいるのはいつも図と地のダイナミックな相互作用の最中である。その意味で、「ロボット」や「自閉症」を研究することの可能性、ロボット開発や自閉症治療を研究することの可能性は、「ロボット」や「自閉症」を地ではなく図として明示化していくことを通じて、図と地の配分が変わっていく流れに形が与えられていくプロセスに寄与することにあるだろう。)


さて、本書の論旨はわりと単純である。つまり従来の自閉症研究が主に採用してきた方法論が1970年代までのAI・ロボティクスのスタンダードな設計手法と類似していることを指摘した上で、後者の行き詰まりという歴史的事実をもとに、筆者の感じる前者の問題点を指摘していくというものである。以下工事中・・・

*1:<「AはAである」という認識が具体化するためには「AはAではない別の何か=Bではない」という認識が反復される必要があり、その限りにおいてAはAではなくなる可能性を常に持っている>ということに関しては06/7/18「非言語的メタコミュニケーション」を参照のこと