言語と生命1:あるいは哲学と社会(学)の狭間


新幹線移動にかこつけて購入した二冊。


言説分析の可能性―社会学的方法の迷宮から (シリーズ 社会学のアクチュアリティ:批判と創造)
生と権力の哲学 (ちくま新書)


両者ともに理論的軸としてM.フーコーを位置づけながらも、その展開において明確な違いが見られるのが興味深い。ともに専門外の領域なので断定的なことは何も言えないが、問題の配置としては色々と参考になると思われる。特に両者の間に横たわる容易には埋めがたいと見える距離に焦点を当ててみたい。


ともに専門外の領域なので断定的なことは何も言えないが、問題の配置としては色々と参考になると思われるので簡単にレヴューする。


まず前者について。

佐藤俊樹による序文では、各章が扱っている主題や論点が社会学の全体に広く関わっているとされたあとに次のように書かれている。

言説分析が何をやっているのかを考えていくことは、社会学は何をやっているのかを考えることになる。


もしこの記述が多くの社会学者にとって説得力があるものなら、社会学もひどく大変そうだなぁと感じてしまうほど、各章の議論は噛合っていない。その原因は論者によって「言説分析」の位置付けが違うことにあるように思われるが、より根本的にはフーコーの議論が持っている社会学的方法論との本質的な齟齬(『生と権力の哲学』では「フーコードゥルーズの毒」と呼ばれているものに相当するか)をどのように・どこまで引きうけるかについて各論者がバラバラな態度を取らざるをえなくなっていることにあるように思われる。


門外漢には分かりにくい話が多いが、とりあえず社会学への言説分析の導入は知識社会学との関連においてなされたようだ。第6章において橋爪大三郎知識社会学イデオロギーをキーワードとするマルクス主義の影響化にある研究プランとした上で、*1その特徴について次のように述べている。

知識社会学の重要なテーマは、どのような場合に、人びとが正しい認識が抱くのかということである。知識社会学は「真理」の枠組みに従っているのである。


「真理」の枠組みは、知識の外側に現実世界が存在して、それと照合されるという想定に立つ。知識は、主観が抱くものであり、現実世界は客観として存在している。「真理」の枠組みは、そのような古典的な主/客図式に従っている。現実世界と対応しない知識は、「真理」の資格をもたない虚偽である。
[・・・]
イデオロギー(虚偽意識)は虚偽である(現実世界と正しい対応を持たない)ことを本質としながら、それでも機能しつづける知識の体系である。
[・・・]
イデオロギーの概念は、知識の体系が複数存在するという、ある意味の相対主義を前提にしている。そして、それらのうちのあるものが、真理としての、絶対的な優位を占めるという想定に、学問としての根拠を置いている。(p185)

橋爪によれば、マルクス主義的研究の基本プランは、現実世界と対応しない知識体系をブルジョアイデオロギーとして告発し、現実(階級対立によって規定される資本主義社会)を正しく捉えるマルクス主義的知識体系を真実の知識として提示するものだということになる。知識社会学は上記の前提に立つかぎり、マルクス主義の一部になるかマルクス主義自体を一つのイデオロギーとするかの二者択一を迫られる、と橋爪は続ける。前者の場合、マルクス主義自体を科学的な考察の対象とすることはできなくなり、後者の場合、知識社会学の提示する知識が「真理」であることを保障できなくなる(しかし、そんなに単純な話だったのだろうか)。


冷戦構造が続いた1990年代までは、複数の包括的な知識体系(イデオロギー)が並存するという知識社会学の議論が説得力を持っていたが、冷戦が終結した後、知に関する社会学としてM・フーコーの言説分析が現在では説得力をもつようになったと橋爪は分析している。彼によれば、言説分析の特徴は以下の通りである。

第一に、言説分析は、「真理」の対応説を取らない。
 この方法論は、言語と独立に現実世界が存在して、言説に真理/虚偽という性格を付与するとは考えない。そのかわりに、現実世界の観念もまた言説が構成するものであり、したがって「真理」そのものも言説のシステムの内部で構成されると考える。すなわち、「真理」は、ある言説の制度の“効果”であることになる。


第二に、言説分析は、主/客図式をとらない。
 言説分析は、言表を素材にして実行される。知識は、言説のかたちをとって存在しており、言説は主観でも客観でもない。言表はたしかに、特定の主体が生み出したものであろうし、その証拠は客観のなかに見つかるだろう。けれども言説(言表の秩序ある集合)は、多数の人々の言表にまたがったもの(間主観的)でありうるし、言説の外側にそれが対応すべき現実世界(客観)を想定しているのでもない。つまり言説分析は、言語の一元的な空間のなかでの、言語による言説の再編成の作業なのである。


第三に、言説分析は、言語でないものの作用を実証する方法論である。
 言説分析は、言説の分布の偏りや特有の配列のなかに、言語ではない作用を認める。フーコーは、この作用を「権力」とよぶ。権力は、言説の集合に対する、いわば補集合として要請されている。言説分析は、言説だけを扱いながら、その背後にさまざまな権力の効果を見出す。
                                       P192 

各章の議論も踏まえた上で推測すると、言説分析を導入することで可能になった社会学的議論の典型的な手法は

  1. われわれ=社会の成員にとってリアリティのある認識(例えば「オナニーはよくないことだ」)を取り上げ
  2. その認識を支える(あるいはそれとくい違う)各種の言表(新聞記事やインタビュー記事etc)を収集し
  3. 言表の偏差やゆがみに注目しながら、言表の集合(言説)がいかに編成されているかを明らかにした上で、
  4. その原因として特定の社会的強制力(階級構造やジェンダーナショナリズム)を指し示す。

こうした手法によって、ブルジョアイデオロギー以外にも多様な(自明の)知識のあり方に対して、その言説による構成を暴きだすことができるようになり、特に第4点において構築主義とも結びつきながら多くの研究がなされてきた(ようである)。


この本の論者の多くが、こうした研究に対して否定的であるように見える。特に序章と1章では、これらの研究を本来の言説分析とは区別されるべきものとしている。佐藤俊樹は自らの考える言説分析と、近年乱発されている「いわゆる言説分析」とを区別し、後者が実際のところは「テキストの知識社会学ないし計量分析」と同じものであるとした上で次のように述べている。

(両者の)ちがいは、ある意味的定在の意味を確定できる一定の単位が存在するかどうかにある。そういう単位があるとするのがテクストの知識社会学や計量分析であり、そういう単位はおけないと考えるのが言説分析である。p9
[・・・]
知識社会学というのは何らかの意味的定在=「知識」(例えば特定のテクスト)を社会的な何か(例えば階級構造や権力構造など)によって説明しようとする。このとき、「社会」は「知識」の意味確定単位になっている。[・・・]「社会」という単位でみればその「知識」の意味がわかる、というのが知識社会学にとって最も基本的な公理である。p9


したがって、佐藤にとっての言説分析は前述した4つの段階のうち、4つ目を放棄したものとなるだろう。では、「社会」という単位を放棄した言説分析は社会学者にとってどのような意味があるのか*2。佐藤は次のように述べている。

意味の確定単位は一つではなく、重層的に存在する。最も素朴な境界は、意味的定在自体で意味が確定するというものだ。具体的にいえば、単語には固定した意味があるという構えである。単語の意味を宙吊りにすれば、その最も素朴な境界を解除して、新たな関係をつくりだすことができる。そうした解除と関係づけ(接続)の連続が言説分析なのである。p18

確定されているように見えるあるコトバとその意味を宙吊りにして他のコトバとの間に新たな関係を生み出すこと。こうした振る舞いは、研究にある種の魅力を付与する。しかし、その妥当性を根拠づける段になると、とたんに困難な事態が生じることは近年の人類学の歴史が如実に物語っている*3。言説分析において、コトバを宙吊りにして新たな関係を生み出すことは端的に「(権)力」の行使を意味するからだ。佐藤は次のように述べる。

力に開かれ、力を開いてしまう苦さを受け取りながら、それでも今語らなければならない何かをもってしまうこと。言説分析とはそういう経験なのだ。そこに言説分析固有の「遂行性performativity」がある。言説分析は言葉を「遂行的」なものとしてあつかうだけでなく、それを通じて、自らを「遂行的」でしかありえなくする。[・・・]言辞へであれ、ふるまいへであれ、言及することは力の行使であり、侵襲である。その代価は支払わねばならない。言説分析はゲームではないのだ。p21

佐藤によれば、知識社会学とは、意味を確定する単位(=「社会」)をあらかじめ設定するというお約束のもとに対象の意味同定を有限時間内に収束させることで「実証性」を保つある種のゲームである。一方の言説分析は、意味同定に関わる手続きの終結を無限に回避する。言説分析にお約束はない=ゲームではない、ということになる。さて、そうなると個々の言説分析は特定の権力の行使であることになる。知識社会学的に横滑りした「言説分析」をその原義に差し戻すと、分析によって権力の働きを暴露するという楽天的な身振りはもはやとれなくなる。佐藤自身次のように語っている。

おそらく「政治」というのは、同位にあることが力に開かれてしまう経験であることを、別の形で表現したことばなのだろう。だから、言説分析の遂行は政治となり、政治の遂行は言説分析となる。p21

と、ここまで書いてきて正直かなり鬱々とした気分になってきている。佐藤の記述は、単純に研究と政治の区別をなしくずしにするものではないと思われるが、高度に洗練された政治的立場として分析の方法論を根拠づけることは、単純な政治的立場の選択によって分析を根拠づけることへと横滑りする可能性を抑止するまでには至らない*4。その可能性を消去しようとすれば、意味同定の手続きの終結を単に遅延するのではなく、完全に否定する選択肢しか残っていない。例えば遠藤知己は二章において、「知識」の意味を特定する単位としての「社会」自体を否定する試みとして言説分析をとらえ、次のように述べている。

言説分析とは、社会の全体性や、全域を見渡す超越的視線を、それと気づくことなく執拗に想定させる何かとの闘争である。それは自らの闘争の困難さにおいて、全体性/全域性の所在を逆射する多角形的な記述の実践である。この困難からは決して逃げられないし、逃げるべきではない。p55

何故、「逃げるべきではない」のか。社会学とはそもそも社会の全体性*5をまなざす方法ではなかったのか。その方法がそもそも持っていた肯定すべき力をあらたに更新するためには、「社会の全体性」という概念を練り直すなり完全に放棄するなり方法論を再構築するなりいくらでもやり方はあるだろうに。遠藤の言う「闘争」が有意味なのは社会の全域性という前提を放棄しない限りである。学ジャンルの前提の存続を担保しつつその前提を攻撃することで論文を書くことの何が面白いのか、正直理解に苦しむ。*6


さて、すこし脱線をしすぎたようだ。本来の目的は『言説分析の可能性』と『生と権力の哲学』におけるフーコー理解の差とその帰結を考察することだったのだが、その点については後述することにする。


追記:そういえば、日本の社会学者が2000年以降に出した本を読んだことはなかったことに気づいた。ここでの考察はあくまで門外漢の概観にすぎません。本来の知識社会学ないし言説分析はこんなものではない、もしくは、この本の論者たちの主張をお前は取り違えてる、あるいは、そもそも社会学はこんなものではないなどのご意見がありましたら是非コメントいただきたいです。

*1:橋爪は知識社会学の具体例としてマンハイムルカーチを挙げている。アルフレッド・シュッツ経由のバーガー&ルックマンの仕事も知識社会学(Sociology of Knowledge)と呼ばれることがあると思うが、ここでは区別されているようだ。この辺の学派間の関係についてはあまり知らない。詳しい方がいたら教えていただきたい。

*2:このあたりで「(知識)社会学」を「(認識)人類学」に「社会」を「文化」に置き換えて考えると人類学にとってもそう遠くない話であることは分かる。「文化」という単位を放棄した言説空間の分析は人類学者にとってどのような意味がありうるか。

*3:人類学の場合、文学的ないし美学的な修飾(「異化」等)に訴えるか、現地人の実践における「抵抗」やそれとの共闘のイメージに訴えることが多いだろうか

*4:例えば、佐藤論文の最終部の悲痛な叫びは研究者にとってのみ意味のある詩でしかないのではないかと思われる

*5:遠藤の主張に対し、社会の全体性は必ずしも超越的・俯瞰的な視点からのみ捉えられるものではないことを、モースの「全体的社会的事実」というコンセプトは示していると思われる。

*6:この点に関しては、日曜社会学ブログにおける酒井泰斗氏の考察http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060603をみて幾分ほっとしたところはある。彼は佐藤・遠藤論文について次のように述べている。『ここで扱われているのは社会学的観察者の側の手続であって、「意味同定にかかわる手続は、対象の側でも有限時間内に生じている」ということは 不問のままになっている[・・・]社会学があつかう対象においては──その記述に先立ってすでに──、記述対象の側で、意味を用いて事柄が組み立てられているのだから、それに照準すればよい[・・・]だから、分析は「その組み立てがうまく扱えているかどうか」という観点から吟味されるのだ(、と言えるのではないか)』。人類学専攻の立場からは酒井氏の主張はひどく納得できる部分がある。ただし、特定の意味同定の仕方が対象固有のものであることを根拠づけようとすると再び方法論論争の泥沼と政治化の退屈が待っている危険性は感じる。→以下追記:ここで酒井氏が、ルーマンに依拠して<自己構成する対象の記述>は可能かどうかというタスクをまともに引き受けることを提起しているのには基本的に好感が持てるし同意してみたくもなる。ただし、佐藤氏のコメントhttp://d.hatena.ne.jp/contractio/20060603#c1150023880で指摘されているように、どうしたらこのタスクを遂行できるかだけでなく、そもそもどういう条件がそろえば遂行したことになるのか自体が問題になってくるだろう(ただ佐藤氏が、「意味同定にかかわる手続は、対象の側でも有限時間内に生じている」ということ自体を認めていないように見えるのは少々違和感がある。意味同定という語の含意がおそらく相当違うのだろうけど)。そこを厳密に検討すること自体は社会学にとって重要なんだろうなぁと(門外漢の勝手な印象としては)思う。しかしながら、どうも人類学だとそっちの方向にいくとダメらしいんだなぁ。そしてこのジレンマは対象と記述者の入れ子構造(?)によって完全に乗り越えることができるというのが『マルセル・モースの業績解題』におけるレヴィ=ストロースの無茶苦茶な主張なのだが、この主張を根拠づけることが人類学専攻としてのタスクになるのかもしれないと思う。しかしそんなものだれもまともに引き受けようとしてこなかったんじゃないかと感じるし、そもそも根拠づけれるんだろうか。とりあえず今後検討していきたいところ。