6.「呪術的」知識の様相


 ここからは、浜本の議論の妥当性と可能性について検討していく。浜本の立論は非常に周到に組み立てられたものであり、一概に是非を結論するのは難しい。ここでは、いくつかの論点を提示しながら、ひとつの方向へとまとめ上げていくことを目論む。

 まずは、浜本が本論文で最初に取り上げている例を考察してみよう。彼は我々にとって自明な知識と我々にとっては納得しがたいドゥルマの知識を並置することから議論を始める。

1.人はビルの十階から落ちれば間違いなく死ぬ。
2.ナイフで怪我をした時には特定の植物を用いた薬液でそのナイフを洗えば傷の回復は早まる、あるいはそうしなければ傷の治りが遅れるどころか、同様な事故が屋敷の他の人々にも降り懸かることになる。

浜本はこれらの知識について次の2段階の主張を行っている。

(A)1が我々にとってそうであるように2はドゥルマの人々にとって世界についての当たり前の事実である。

(B)1や2が世界についての当たり前の知識になっているのは、経験による完璧な裏づけや理論による裏打ちの結果ではなく、単に誰かからそう教えられ、誰もがそう言っているという事実の結果である。

Aは、現地の人々の言っていることの妥当性を(それが我々にとって奇異に思えるからという理由で)否定しないことから考察を始めるという指針を示すものであり、この指針には基本的に賛同する。それだけでなく、この始点設定は、儀礼論や呪術論が陥りやすい誤った結論をあらかじめ回避している点で優れている。
 しばしば人類学者は、奇妙に思える現地の習慣と類似した我々の習慣を指摘した上で「我々も彼らも変わりはない」とする結論に飛びつくことがある(それほど頻繁にではないとは思いたいが)。例えば、2の知識に次のような知識を並置させることを通じて。

3.左足からフィールドに入れば試合でゴールを決めることができる。

3は2と同様に、我々にとって因果関係があるとは思えない二つの出来事の因果関係を前提にした知識である。しかし、この二つの知識の並置は、「我々も彼らも変わりはない」という結論を引き出すものであるどころか、我々にとって馴染み深い知識の編成の仕方を無理やり現地人の知識に当てはめるものでしかない。我々は1のような知識と3のような知識を明確に区別する習慣に深く浸っている。ためしに、科学的精神にあふれた我々の隣人に登場してもらおう。彼は二つの知識の違いを明確に主張してくれるはずである。

「人はビルの十階から落ちれば間違いなく死ぬ」という知識に万有引力の法則は全く介入していないのだろうか。例えば、二階ほどのビルしかない地域に住んでいて十階もあるビルが存在することなど全く知らない飛び降り好きの田舎ものが、都会にきて十階のビルの屋上に立ったとしよう。彼がビルの十階から喜んで飛び降りるとは思えない。彼は一階建ての建物よりも二階だての建物から飛び降りたほうが―より単純に言えば高いところから飛び降りたほうが―着地の衝撃が大きいという力学的真理を田舎で飛び降りに興じていた時から体で知っていたのである。高所からの飛び降りと着地の衝撃の強さには力学的な因果関係が認められる。確かに我々も左足からフィールドに入れば試合で点が決められるといった「げんかつぎ」を行うことはある。しかし我々はその因果関係が科学的真理が解明してきた自然の法則とは区別されるものであることを知っているのであり、いつでも後者を参照することができる、だからこそサッカー選手はゴールを陥れるためにシュート練習を欠かさないのであり、その努力だけでは不安になったときにのみ「げんかつぎ」を行うのである。

彼だけでなく、我々の常識的理解では、「げんかつぎ」はそれを行う人にとってのみ妥当性がある限定された(主観的な)ルールであるのに対して、万有引力の法則はどこでもだれにでも通用する(客観的な)自然のルール=法則である。こうした知識の区別が従来の呪術論を深く規定してきたことは、次の有名な人類学者の分析が上記の常識人の発言と著しく類似していることからも見て取れる。

「未開人は自然の力と超自然の力の両方を認識してこの二つを自分の利益になるように使おうとする。[・・・]決して呪術だけに頼るということはなく、完全に呪術なしにすますこともある。しかし、自分の知識や合理的な技術の無力を知った時には、いつでも呪術にすがりつくのである。」[マリノフスキー1997:38]

したがって、2のような「呪術的」知識の我々にとっての奇妙さは、知識そのものにあるのではなく、その知識がいかなる程度の事実らしさを持つものとして分類されるか、つまり知識の「様相=modality」に関する我々と彼らの違いからくるのである。様相とは、端的には、ある言明の事実らしさを示すためにその言明に付加される補助的言明によって示される。我々は3のような知識については、「『左足からフィールドに入れば試合でゴールを決めることができる』と彼は信じて(げんかつぎをして)いる」と述べるが、1のような知識については単に「人はビルの十階から落ちれば間違いなく死ぬ」と述べる。3の妥当性がげんかつぎをする人の主観に求められるのに対して、2の妥当性は理論や実験にもとづいて算出される。しかし、ドゥルマの人々は3に類似した2のような知識を「彼は信じている」といった補助的言明なしで述べるのである。我々が主観的なルールとしか認めない知識と類似したものがあたかも客観的なルールであるかのようにみなされることをいかに理解できるか。それが「呪術的」知識をめぐる問題の根本にある。

浜本は、3のような補助的言明つきの知識ではなく、1のような補助的言明なしの知識をドゥルマの人々の知識に並置することで、この根本を明確に押さえている。ドゥルマの人々にとって「ナイフで怪我をした時には植物の薬液でそのナイフを洗えば傷の回復は早まる」という言明は、我々にとって「人はビルの十階から落ちれば間違いなく死ぬ」という言明がそうであるのと同じように、補助的言明なしで通用する「世界はそんな風にできているのだとで言うしかないような」知識に属するということ、それが「呪術的」知識をめぐる問題の本質なのである。

我々は、現地人の知識を自分たちなりに理解しようとして、彼らにとっては補助的言明なしに通用する知識にしばしば勝手に補助的言明を追加する。例えば「『ナイフで怪我をした時には植物の薬液でそのナイフを洗えば傷の回復は早まる』と彼らは信じている」などというように*1。その結果、しばしば人類学者は、現地人にとっても補助的言明なしには通用しないような知識と、彼らにとっては補助的言明なしに通用する知識を一緒くたにして「呪術的」というカテゴリーに入れてしまうのである。この点について浜本は次のように明確な指摘をしている。

人類学者はあまりにもまちまちな慣行を、それぞれ異なる理由に基づいて呪術に分類してしまっているため、「呪術」という言葉はもはや統一的な研究対象を指しているとはいいがたいものになっている。土地の人々自身が自分たちの常識での理解を越えたものであると認め、いくぶん半信半疑の目でながめている怪しげな術--そこでは常識を越えた力や不思議な出来事についての人々の想像力の思う存分の働きが見て取れる--と、彼らにとっては現実的な問題に対する常識的な決まりきった手順に属するものとがともに「呪術的」という言葉で括られてしまうのは、たしかに不当である。

浜本の議論の眼目は第一に、(本人は明記していないが)知識の様相の問題に踏み込んだ点にある。しかし、それだけではない。彼は、「呪術的」知識が我々が当然のものとみなす知識の様相とは異なる形で編成されていることに注目する。我々にとって世界に関する知識を構成するものは次の二つに大別される。

1.自然の法則:科学的探究によって解明される、どこでも通用する客観的な自然のルール
ex.水は摂氏100度で沸騰する。
2.人為的規則:社会的な約束事、文化的な体系、主観的な思考等によって構築される限定された範囲で通用するルール。
ex.野球の試合でバッターが三回バットを振って一球もあたらなければ「三振」となりアウトになる。

呪術的知識が1に該当するものと見なされるとき、それは未開人の誤った科学によるものとされ(20世紀初頭の進化主義人類学の基本テーゼ)、2に該当するものと見なされるとき、それは人々が暗黙のうちにとりきめた象徴的体系の産物とされる(20世紀後半の相対主義人類学の基本テーゼ)。

しかし、浜本はこの二つのどちらにも区別できない領域があることを指摘するのである。この考察2〜5で見てきた「夫が水甕を動かせば妻は引き抜かれ妻は死ぬ」というドゥルマの知識もその一つである。この知識は、「水甕を動かすこと」と「妻を引き抜くこと」と「妻が死ぬこと」を関係づける比喩的な観点がなければ成立しない点で、あきらかに<自然>の秩序ではありえない。しかし同時に、「夫が水甕を動かせば妻が死ぬ」のは別にそうなるように取り決められた結果ではないから、それは<人為的>な秩序でもない。こうして浜本は、<自然>でも<人為>でもない第三の領域を見出す。彼は『秩序の方法』において次のように述べている。

人が生きている秩序の世界を<自然>と<約束事>のいずれかに振り分けてしまえると考えることが誤りである。疑いようのない<自然>の秩序と、あからさまに人為的な<規約>にもとづいた秩序という両極の間に、自然にも合意の産物にも帰すことのできない秩序、我々があたかも<第二の自然>であるかのように根拠を問うこともなく受け入れている秩序の、広大な領域が横たわっている。
『秩序の方法』p146

そして浜本は、こうした秩序の有り様が我々にとっても身近なものであることを「時間を無駄使いすること」の例で示しているのである。

最も文化的な事象とされてきたものの一つである呪術を、<自然>に対立する<人為>の産物としてではなく、<自然>と<人為>の判別のつかない地点に差し戻すこと、これが浜本の議論の賭金であり、困窮した文化概念を立て直すスタートポイントとなるのではという期待を抱かせる所以である。次節からは、この賭金を奪取する上で障害となる浜本の議論の問題点を指摘しながら、その発展的可能性をさぐっていく。次に検討されるのは、浜本の主張Aを根拠づけている主張Bの妥当性である。

*1:この言い方をより洗練させると「彼らは『ナイフで怪我をした時には植物の薬液でそのナイフを洗えば傷の回復は早まる』という言明を事実であるかのようにみなす語りの体系を生きている」といった人類学者が慣れ親しんだ記述になる。しかし浜本の議論がこうした記述の精緻な言い換え以上のものであるかは検討を要する問題である。