2.それはデッドエンドではなくスタートポイントの一つでしかない


http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/pottaboo3.html
浜本満『秩序の方法』第4章にほぼ対応


 本論文で浜本は、人類学的研究が現地人の奇妙な風習を理解する上で使用してきた語彙の一つ「呪術」を標的にして、「呪術的」とされる特定の実践がなぜ他の実践と区別され、あえて「呪術的」とされてきたのかを明らかにすることを試みている。主な分析対象となる「呪術的」実践は、ケニア海岸地方に住むドゥルマにおける、水甕を夫が動かすことが妻に死をもたらす行為であるとして禁じられる―という事例である。浜本の試みは、「呪術」というカテゴリーを再定義するものではなく、呪術とカテゴライズされてきた種々の実践にみられる論理を―「呪術」という不明瞭な語彙を使わずに―明確に把握することを目指すものである。議論の筋道は以下の3つのプロセスによって構成されている。

  1. 呪術とそうでないものの区別が現地人の認識とは無関係にされていることを指摘し
  2. 呪術的実践を説明する際に使用されてきた象徴論的解決の誤謬を明らかにし
  3. 呪術と分類されがちな慣行が前提としている知識の特徴を明らかにすること。

まず3つのプロセスにおける浜本の議論を簡潔にまとめた上で、その有効性と問題点、発展的活用の可能性について考察する。

1.呪術とそうでないもの

浜本は我々にとって全く自明な知識を提示することからはじめる。「人はビルの十階から落ちれば間違いなく死ぬ」。試したことがなく、目撃したことがなく、根拠づけられて説得された経験がなくても、これは我々にとって当たり前であり、その根拠を問われれば「世界はそんなふうにできているのだ」とでも言うしかないような知識である。
次に浜本はもう一つの知識を提示する。あるドゥルマ人によれば、「ナイフで怪我をした時には特定の植物を用いた薬液でそのナイフを洗えば傷の回復は早まる、あるいはそうしなければ傷の治りが遅れるどころか、同様な事故が屋敷の他の人々にも降り懸かることになる」。これは我々にとって理解困難な知識であるが、ドゥルマにおいては誰でも知っている当然の話である。別にそれを説明してくれる理論がなくても、ただ世界はそんなふうにできているのである。
浜本は、これらの知識をもとにした行為を再び並置する。「人を殺そうとしてビルの十階から突き落とす」。「怪我人の傷を治そうとして彼を傷つけたナイフを薬液で洗う」。いずれの場合もAという出来事の結果としてBという出来事が起こるという知識に基づいて、結果Bを手にいれよう(あるいはBを避けよう)とする点では同じである。A→Bの因果関係を保障する知識を自明のものとして保持するのには検証も理論化も必要ない。「それらが世界の秩序についての当たり前の知識の一部になっているのは、単に誰かからそう教えられ、誰もがそう言っているという事実の結果である」(p2)。
浜本は「呪術」というカテゴリーによって人類学者が、土地の人々自身にとっても自分たちの常識での理解を超えたものであると認め、半信半疑に感じながらもそれについての想像力を羽ばたかせる怪しげな術と、彼らにとって現実的な問題に対する常識的な決まりきった手順に属するものとを一括りにしてきたことを指摘した上で、後者の十全な説明が、行為とその期待される結果との結びつきに関する知識の性質に注目するによって可能であることを示そうとする。その例として浜本は、彼の調査地において夫に課せられている一つの禁止―夫は妻の水瓶を動かしてはならない、そんなことをしたら妻は死んでしまう―を取り上げて分析を続けていく。

2.象徴論的解決の問題点

 水道の完備されていないドゥルマの多くの地域では、生活に必要な水は各屋敷の妻達が汲んできてそれぞれの小屋に設けられている土器の壷に貯めおかれる。こうした容器はシミキロ(simikiro)という特別な名前で呼ばれる。本論文では水甕と訳されるこの語は、「(地面に)突き立てられる、据え付ける、安置する」などの意味の動詞シミカ(ku-simika)の派生語であり、この表現に対応するように水甕に対しては「動かす」という動詞の代わりに「引き抜く(ku-ng’ola)」という表現を用いる。夫はこの水甕を動かしては=引き抜いてはならない。それは「屋敷から妻を引き抜くこと」であり、妻を死においやる行為だとされる。なぜ水甕を動かすことが妻の死に結びつくというのか。浜本はこの問いを、水甕を動かすという行為とその帰結として想定される妻の死という二項の結びつきがいかにして「当たり前」のものとなるのか、という問いに置き換える。この二項の結びつきは呪術において問題にされてきた出来事の結びつきと同質のものであり、こうしたケースで人類学者の常套句となってきたもののひとつが「象徴」である。
象徴に訴えることで、このケースには次のような簡単な解決が与えられる。
「水甕は女性、あるいは妻の象徴なのである。水甕を動かすこと、つまりそれを「引き抜く」ことは、妻を引き抜くことを象徴している。まさにこの理由でその行為は禁止されているのだ」。
浜本は様々な慣行のなかに炉石や土器の壷を女性に等置する「象徴論的図式」が見て取れることを認めながらも、こうした象徴論的解決の基本的な誤りを次のように指摘する。第一に諸慣行を象徴論的図式の産物として捉えることは、そうした図式をあたかも諸々の慣行とは独立して存在している何かとみなすことである。こうした等値の図式はもともと具体的な個々の慣行をつき合わせてみたときにパターンとして見て取られたものにすぎないのに、こうした図式がどこかにあって、それが諸慣行に論理的に先行しそれらを生み出すのだとすることは論理的な誤謬である。つまり、図式が慣行の産物なのであって、その逆ではない。
第二に、「水甕を動かす=引き抜くことが妻を引き抜くことを象徴している」という語り口がそもそもナンセンスである。ドゥルマの人々は、水甕を動かすことは妻を屋敷から引き抜くこと「である」と言っている。人類学者が「である」を「を象徴する」に置き換えた途端に、「水甕をうごかす」ことは「妻を引き抜くこと」ひいては妻の死を帰結する実効的な行為であることをやめる。「象徴」概念の導入によっていったん行為の実効性を原理的に排除してしまえば、その行為になぜ現実的な効果が想定されうるのかを説明することはもはやできなくなる。浜本は、いかに我々にとって奇妙に見えても現地人にとっては「生(ナマ)の事実」[クリプキ1983:191]でしかない事柄を内在的に理解し説明するという人類学的探求の(常に守られているわけではなく、何が守ったことになるのかも流動的な)原則に厳密に忠実であり、だからこそ、「である」を「を象徴する」に置き換えるような象徴論的解決が「呪術的」とされてきた実践に対して何の説明にもなっていないと結論づける。
では浜本は<水甕を動かす→妻を引き抜く→妻の死>という一連の結びつきを実効的なものとしている知識をいかに説明するのか。彼は、この知識のありかたを「構造的な隠喩における論理的帰結」、「構成的規則の無根拠性」、「諸記号間の有縁性による動機づけ」という3つの概念を活用しながら明らかにしていく。→続く