1.民族はロボットでもマシーンでもない


浜本満「妻を引き抜く方法-儀礼をめぐる問題系の配置の論旨要約に入る前に、この簡潔な論文と骨子を同じくする以下の著作から浜本の議論の前提をみていきたい。
秩序の方法―ケニア海岸地方の日常生活における儀礼的実践と語り
浜本は自分の研究は一般的には「秩序についてのドゥルマの人々の考え方と、それに基づく諸実践についての研究」であると言えるだろうと述べた後で、この言い方に違和感を表明する。「ドゥルマ人のものの考え方」を問うこと、つまりドゥルマ人という一つの閉じた集合を研究対象として想定した上で、そこに共通的にみられる特性を取り出そうとする問いの設定自体が、当の研究対象に馴染まない気がする、と言うのである。

コスモロジーと呼ぶにせよ、文化と呼ぶにせよ、なんらかの知識体系が集団によって保有されているという考え方そのものに不明瞭なところがある。集団なるものが、いったいどんな形でどのようにして知識を持ったりすることができるというのだろう。(p39)

文化人類学は(特に20世紀初頭以来)、文化の名の下に〜人という集団的なカテゴリーを主語にして語ってきた。それはこの学問における自明の前提である。しかし浜本はこの前提自体があやまった諸仮定に基づいたものであると指摘し、それらを二種類に分類する。

  • <博物誌的仮定>集団カテゴリーと個人を、類と個の関係に比してつなげる。

個々のイヌについての事実を一般化することによって「イヌ」というカテゴリーを語るように、個々人は集団の全ての他の個々人となんらかの共通する特性をもっていると想定される。この場合、民族集団について語ることは、カテゴリーを構成する個々人のこうした共通特性について語ることとされる(民族=自然種)。

  • <解剖学的仮定>集団カテゴリーと個人を、部分と全体の関係に比してつなげる。

自動車を個々の部品とその関係から語るように、集団の各構成員は互いに連関しあって集団全体を構成すると想定される。この場合、民族集団について語ることは、各部分を切り出しその間の連関をさぐるものとなる(民族=有機体←ラドクリフ・ブラウン)。

浜本の比喩にさらに比喩を重ねるならば、前者は集団の構成員を姿形は異なるが共通のプログラムを実装しているロボットとみなす仮定であり、後者は各構成員をひとつの機械(マシン)を構成する部品とみなす仮定と言えるだろう。したがって民族を理解するということは、前者の仮定においては、各構成員を動かしている共通のプログラムを発見することとなり、後者の仮定においては、個々人が構成する民族という名のマシンの設計図を発見することとなる。

浜本がこれらの仮定を否定する根拠としているのは前述した「当の研究対象に馴染まない」、より正確には、対象を研究する人類学者のやっていることとそぐわない、という学問的直観と思われる。(ただここに「少なくともコスモロジー研究については(p40)」、という留保がついていることは注目に値する。この留保の結果、浜本の批判は後者の仮定についてはやや弱いものになっているようにも思われる。)ドゥルマ人なり日本人の知識やものの見方について研究しようとしている人類学者が実際に記述しているのは、複数の人々を通じて手に入れた情報の集積−つまり出所の異なる種々の語りや実践の資料−をその中に見て取られたパターンにそって整理したものである。それは、集団の各構成員に共通する特性を取り出すことではなく(博物誌的仮定との相違)、各構成員の語りや実践を単につなぎわせることでもない(解剖学的仮定との相違)。むしろ、人類学者の記述は、断片的な資料を関連付け、それらがある体系性を持ったより大きな全体の一部になるように組み立てたものである。

こうして取り出された知識の体系的全体は、まさにそれを取り出す際の手続きによって、特定の個人に回収することが原理的に不可能なものになる。つまりパターンに従って整理された知識の体系の全体を特定の個人の中に見出すことはできないから、その体系は各構成員に共有された特性などではない、ということになる(博物誌的仮定の否定)。一方で、この体系的全体において個々の要素と全体をつなぐ諸関係は、個々人を彼が属する集団に結び付けている諸関係とは、まったく別種の関係性であるので、この体系は集団全体を構成する設計図などではありえない、ということになる(解剖学的仮定の否定)。

こうして浜本は(人類学内部の人間にはおそらく)なかなか刺激的な以下の結論を引き出す。

(人類学者の取り出す)体系は集合態であるドゥルマ人なり日本人なりについての記述としての資格を持たない。それを例えば「ドゥルマ人の知識」などとして語ることは何の実質もないことになる。(p41括弧内は引用者)

浜本がこの見地に忠実であることは本書の副題にも表れている。彼は「世界の秩序についてのドゥルマ人の知識と実践」などとはせずに「ケニア海岸地方の日常生活における儀礼的実践と語り」としている(ちなみに、上記の引用部で浜本がドゥルマ人と日本人を並置して記述しているのは、おそらく、博物学的ないし解剖学的仮定を自分達の日常に当てはめたときにあきらかにおかしな印象をうけるという事実を読者に喚起しようとする狙いによるものだろう。うまい戦術だと思う)。この見地に、研究対象の設定を不可能にする学システムの破壊をみる者もいるだろうし、文化相対主義的初期設定からの根本的な脱却の契機を見るものもいるだろう。筆者は完全に後者に立つが、浜本の議論が完全なる相対主義を帰結する(ものとしてしか見なされない)危険も感じる。浜本の議論の可能性を明確に把握しその危険性を排除するために議論の精緻化を試みることが次に行う論文読解の目的となるが、その前に確認しなければならないことがある。
まず重要なのは、浜本が決して彼の定義する人類学者の営み―つまり①種々の語りと実践を観察・記録して資料の集合をつくり→②資料の集合体に特定のパターンを見出し→③そのパターンにしたがって資料の集合を整理=体系化すること―そのものを否定しているわけではないということだ。問題はこの営みをどのように枠付けパッケージ化して流通させるかであり、そのモデルとして、知識とその体系を「文化」や「世界観」と呼んでその独占的な保有権をなんらかの集団(「ドゥルマ人」や「日本人」)に付与してきた従来の設定、その根拠となる博物学的仮定(ロボットモデル)や解剖学的仮定(マシンモデル)はふさわしくない、ということになる。浜本はこれらに代わるものとしてネットワークモデルを提示する。

私は人類学がコスモロジーあるいは文化、世界観などのさまざまな名前で呼び、誤ってなんらかの集団の保有物であるかのように想像してきたこうした知識を、ある種のネットワーク的な空間に帰属するものとして想像しなおそうと思う。私はこの空間をさしあたって言説空間と呼んでおくことにする。本来、全ての語りは、自らが転送されていくこうした空間の存在を前提とした二重性によって特徴づけられている(p43)

ここで言う二重性とは、「語りが一方で特定の状況、特定の具体的な語り手に結びついた反復不可能な一回性の出来事でありながら、他方でその特定の状況から離脱し異なる語り手、異なる状況に反復的に移植されうる、という語りのもつ特性(p45)」に依拠している。この移植可能性がコミュニケーションを可能にする根拠となる。浜本は、個々の語りや実践がコミュニケーションを通じて流通、転移、変形、結合していく網目状の空間をネットワーク=言説空間(=社会空間)として設定するが、この空間は個々の語りや実践の流通を可能にし、規定するとともに、まさにそれらによって形作られるものであり、筆者の言葉で言えば再帰的なネットワークと捉えることができる(ただし筆者の立場はモノとコトバに実体的な差異を認めずモノの再帰的な働きとしてコトバを捉える点で、あくまで語り(=世界の命題的把握)に依拠し行為を語りの別種の表現として取り出す浜本の立場とは異なる)。したがって、その度ごとの発話と行為が形作るコミュニケーションの網の目状の空間は絶えず形を変え、明確な境界を持たず、特定の人間集団(「ドゥルマ人や日本人」)と重なりあうものでも、地理的な空間と同じ広がりをもつものでもない(では、なぜ本書の副題が「ケニア海岸地方の日常生活における儀礼的実践と語り」とできるのかという疑問は残る)。

浜本は彼のモデルと従来のモデルの違いをコンピュータの比喩によって鮮やかに描きだす(浜本の比喩はいつも鮮やかだが、少し鮮やかすぎて誤読を招く危険も時折感じる)。集団を構成する個々人が共通の特性をもつとする博物誌的仮定に立つ人類学的研究は、その対象を「ネットワークにつながっていない孤立したスタンドアローン型のコンピュータの集合のような(p47)」ものとして想定していたのではないかと彼は言う。この想定に立つと、人類学的研究は個々のコンピュータを調べ、その情報の共通部分を取り出す作業となる。こうした想定は、「もしそれらのコンピュータが相互に接続しており、このネットワークを通じて自己の内部を不断に更新していたとするならば、まったく愚かなことだろう。そしてあきらかに人間は、スタンドアローン型のコンピューターよりは、ネットワークで互いにつながりあったものにはるかに近かったのである(p47)。」

浜本の従来の人類学的方法論への批判は、博物誌的仮定(ロボットモデル)に対しては有効に思われるが、解剖学的仮定(マシンモデル)に対してはどうだろうか。浜本の批判は上記のものも含めて、やや前者に偏っているように思われる。ここでは浜本の議論から敷衍して解剖学的モデルの問題点を探っていくことにする。まず考えられるのは、解剖学的仮定の前提である、民族集団の各構成員が有機的に連関しあってひとつの全体をなしているということをどうしたら証明できるのかという問題である。この問いを解けない限り、解剖学的仮定は、個々のドゥルマ人から構成される一人の巨大なドゥルマ人、世界を認識し判断し行動するメガ・マシンを仮構する空想(これがホッブズが近代的主権のモデルとして使用したリバイアサンに類似することはアナロジーにすぎないにしても興味深い点ではある)にすぎないと言われるだろう。浜本のネットワークモデルから見ると、博物誌的仮定がスタンドアローン型コンピュータモデルであるのに対して、解剖学的仮定は、中央集権的なメガマシン(重厚長大メインフレームコンピュータや初期のインターネット構想)であると言えるだろう。メガマシンが内部にネットワークを持たないわけではないが、そのネットワーク上の情報の流れは中枢からの指令によって一義的に決定される。そうした規定の根源を具体的に把握できない以上、メガマシンモデルは文化的実践のモデルたりえない、ということになる。ただ実際には人類学者による文化概念は、博物誌的仮定と解剖学的仮定の無自覚な接続によって構成されていることが多いように思われる。例えば、浜本が博物誌的仮定の例としてあげている以下の松井による文化の定義は解剖学的仮定の例としても把握できる。

物ごと、行動、情緒感情といった現象を、感覚し組織化していく、ひとつの固有の体系が、それぞれの集団に存在している。これこそが文化であり、その文化を秩序づけ組織化するひとつの体系、すなわち認識体系を発見することが、認識人類学の最終的な目標である[松井健1991『認識人類学論攷』:7]

松井による定義のうち、前半部では体系が集団内に存在していることが仮定され(博物誌的仮定)、後半部では体系に秩序づけ組織化するという能動的な役割が付与され(解剖学的仮定)ている。このように解剖学的仮定=マシンモデルは、個々の要素の連関によって構成される全体がそれ自体で認識と行為をなすということを含意するものとみなされる限りにおいては、非常に説得力のないモデルである。浜本が言うように確かに「そもそも集団なるのものは認識したりせず、結局認識とは個々人がおこなう作業なの」だから。しかし、解剖学的仮定からそうした集合的主体の仮定を排除したら浜本のネットワーク=言説空間論との違いは明確ではなくなる。前者における個々の要素の連関と浜本の言う語りの流通、転移、変形、結合は矛盾しない。確かに前者において個々の要素として各構成員が設定されている点で、言説のネットワーク空間の主人公を語る主体ではなく流通していく語りそのものとする後者とは異なると言えるが、各構成員の連関(浜本の言うコミュニケーション)が語りの流通の前提となっている点で、両者は相補的であるとは言える。しかし、ここでの目的はあらさがしではない。むしろ、浜本の批判がロボットモデルには明確に有効だがマシンモデルへの有効性が明確でないことからネットワークモデル(浜本のモデルは単なるコネクショニストネットワークではなく分散処理型ネットワーク、あるいはネットワーク化された協調型ロボットシステムと言えるか)一般の問題点を探るのが目的である。

議論が煩雑になった。問いを明確にしよう。浜本のモデルによって人類学的研究の妥当性はいかに確保されるのか。ネットワークモデルでは、人類学者の営みは現地人の営みと同じく流通する語りの空間に自らを接続することとなる(p49L1)。このモデルでは、人類学者の現地人とのちがいは、新たな接続ポイントを求めてより頻繁に移動することで、多くの語りがいかに流通し変形しているかを把握することができるという相対的な差異にすぎないが、そもそも学問的知見の有効性と日常的知見の有効性は相対的に規定されるものであり、だからこそ学問は日常に根ざしうるのだと考えれば浜本のモデルは有効にみえる。しかしながら、そのモデルを外して考えれば本書の丹念な観察と分析はやはり「ドゥルマ人の知識と実践」のように言われてきたものとたいした違いはないようにみえる。言い換えれば従来のモデルの批判は分析に有効活用されているもののネットワークモデルが本書全体の分析に十分いかされているとは思えない。ここにネットワーク概念の難しさがある。浜本は人類学者が資料の集積をそこにみられるパターンにしたがって構成することでできる体系(system)=記述を、それが現地で機能している言説空間(ネットワーク)=対象に対応していると設定することで、人類学的分析の有効性を再構築しようとしている。しかし、システムとネットワークには、個々の要素とその連関を限定する境界設定が含意されているかいないかという重要な違いがある。前者を後者に置き換えることが妥当であることを浜本は説明しきれていないように思われる。

ここで問題になるのは次のようなことである。世界を認識し行為する現地の人々の営みが人間集団にも地域的領域にも対応しない原理的に無限の広がりをもつ言説のネットワークの働きそのものであると言うのであれば、なぜその特定の働きが他方と区別されて例えば「ドゥルマのやりかた」と見なされうるのか、また、なぜドゥルマのやりかたが変化したり「ドゥルマのやり方」以外のものになるになりうる(翻訳されうる)のか、といった問いをネットワークモデルでは扱えないのではないかという疑問が残る。この問いを、Marilyn Strathern は論文「CUTTING THE NETWORK」(1996)において明確に設定した。つまりネットワークはいかに切断されるのか、無限の広がりがなぜ有限の領域に重ね合わせられうるのか、というネットワークモデル固有の問題である。これを解けない限り、浜本のネットワークモデルは記述と対象の整合性を確保したとはいえないように思われる。浜本は本書後半部において「ドゥルマのやりかた」が新たな事態に対して発する融通無碍性を指摘しているが、そこでの分析は「ドゥルマのやりかた」というフレームが存続することを前提にしている。この分析ではフレーム自体が置換され変化され崩壊し生成するという、近年様々な地域で起こっている現象を捉えることはできないのではないか。ここまでいくと現時点ではなかなか難しい問題であり、自分の事例分析から手法を作っていくしかないだろう。ただ、ネットワーク論の問題点を明確化するにはまだ足りてない。

こうして、浜本の論文を読解する上での基本姿勢は概略定まったと言える。まず、従来の方法論(この論文では象徴論的解決として登場する)を批判しながら行われる分析のロジックを明らかにすること、次にできることならそのロジックを練り上げ、それがよってたつモデルとして可能なものを(浜本の依拠するのモデルを批判しながら)作っていくこと。